第74話 ウィンスターの魔力(2)
(カリナさん……、立ち直ったかな……)
セントイグリシア選手権、女子5000mのスタートが迫ってきた。カリナは、ヴァージンと同じように早めに会場入りしたにもかかわらず、集合時間ギリギリまで集合場所に姿を見せず、点呼を始める頃にようやく小走りにやって来た。
カリナの表情は、先程と全く異なる元気そうな目をしており、ウィンスターに対する恐怖は和らいでいた。これまで勝負前に時折見せてきた軽いジャンプすら見せている。少なくとも、カリナは全ての悩みをヴァージンに吐き出して、勝負の世界に集中しようとしていた。
(逆に……、カリナさんが私にプレッシャーをかけようと、あの悩みを言ったのかも知れない……。けれど、ウィンスターさんのことを知って、今の自分、最高の力が出せそうな気がしてきた!)
ヴァージンは、カリナをかすかに見て、これから走り出すトラックを力強く踏みしめた。足元に携える「フィールドファルコン」も、「壁」との勝負に燃えているかのように、ヴァージンの足に力を送っていた。
(今日、ものすごく速いタイムを出せる……。ウィンスターさんに、力を見せつけるための……)
「On Your Marks……」
勝負の時を告げる低い声が、ヴァージンの耳に響く。彼女は、静かにうなずいた。
(よし……)
スタジアム全体に響くような号砲が鳴ると同時に、14人のライバルたちが一斉に走り出した。その中でヴァージンは、真っ先に集団の全体に飛び出し、ラップ68秒のペースまで一気に駆け上がった。普段であれば数人のライバルが最初の2、3周ほどヴァージンについていくものの、この日は直線を駆け抜ける前に後ろに一人だけが残った。彼女は、鼓動を感じるまでもなく、それをカリナに間違いないと思った。
(カリナさんも、きっと一気に本気モードになって……、私を追い抜きにかかるかも知れない……。今まで勝負してきて、一番戦術が読めないのが、カリナさんなのだから……)
ヴァージンの背中に感じる気配から察するに、カリナもヴァージンと同じラップ68秒ペースで、彼女にぴったりと付いている。勝負を仕掛けるタイミングが読めないことが、カリナにとって最大の武器と言ってよかった。
(カリナさんからの風向きが変わるまでは、私は自分のペースに徹しておこう)
ラップ68秒を刻む感覚は、レースに復帰しても全く忘れていなかった。自らが最も走りやすい方法で、ヴァージンは2周、3周とラップを重ねていく。その間、カリナもずっとヴァージンの後ろを付いていた。
(カリナさんは、いつになったら出てくるか……)
2000mを過ぎても、カリナはいっこうにヴァージンの前に出てこない。ラップ68秒でヴァージンにぴったりついていることは間違いないが、勝負を仕掛けようという気配すら感じない。そのまま3000mが見えてきた頃、ヴァージンはついにカリナのことを気にし始めた。
残り1000mで、ヴァージンがスパートを始める地点になる。そこからカリナが食らいついたところで、ヴァージンについていくことができないことは、カリナも分かっているはずだ。中距離走のフォームを手に入れた彼女が、この時点で前に出ないことは考えづらかった。
コーナーに差し掛かったとき、ヴァージンはカリナに軽く振り返った。その時だった。
(動いた……!)
カリナのストライドが一気に大きくなり、その時を待っていたようにヴァージンの真横に飛び出す。まるでその時を待っていたかのように、彼女は勝負に出たのだった。
(やっぱり、カリナさんはタイミングを見計らっていたか……)
コーナーを抜けたとき、カリナがヴァージンより体一つ前に出て、そのままラップ66.5秒ほどのペースでヴァージンを引き離しにかかる。3000mから4000mまでの間にそこまで差をつけられることはなさそうだが、ラスト1000mでの勝負にもう一つ戦わなければならない相手が増えたことに違いはなかった。
(カリナさんと、どこで勝負するか。トップスピードが決まれば、世界記録に手が届くだけに……、そのタイミングもこのレースは重要になってくるかも知れない)
3000mのタイムが、体感で8分29秒から30秒の間。このペースなら、世界記録に十分立ち向かえる。ヴァージンは、この瞬間にはっきりと確信した。彼女にとって最高のシナリオは、カリナとの勝負がラスト1周でもつれ、トップスピードで抜き去ることだが、それはカリナのペース次第だ。
(とにかく私は、13分50秒の壁と勝負するしかない……!)
4000mのラインが見えてきた時、ヴァージンは右足でトラックを力強く蹴り上げ、普段と同じように第一のスパートに入った。すると、20mほど前を走るカリナも軽くペースを上げ、ヴァージンを振り切ろうとした。
だが、4200mを過ぎ、ヴァージンが第二のスパート――ラップ62秒――を決めたときだった。
(カリナさんが……、ペースを落とした……)
ラップ65秒で走ることすら無理と言わんばかりに、カリナのストライドがしぼんでいく。ヴァージンの目に映るカリナの背中が大きくなり、正面から聞こえてくる息遣いは苦しさと、そして見えない「強敵」に対する恐怖が入り混じっていた。
(カリナさんが……、またウィンスターさんのことを意識し始めている……!)
コーナーでカリナの背中に追いついたヴァージンは、横目でカリナの表情を見た。ヴァージンが見えないことで、自らを見失ってしまったかのような、そんなうつろな目をしていた。
(カリナさんを救うために、壁を破るしかない……!)
ラップ62秒で走っていながらも、ヴァージンは既に最後のスパートをはっきりと意識した。久しぶりに4600mの地点でラスト1周の鐘を聞いたとき、彼女の目に映った記録計には、12分54秒台のタイムが刻まれていた。
(今日こそ、私は壁に打ち破る……!)
「フィールドファルコン」の「翼」が、次々とトラックに蹴り上げるヴァージンを力強く羽ばたかせ、「壁」に立ち向かっていく。これまでヴァージンが何度も感じてきたトップスピードを、勝負する相手が「壁」だけとなったこの瞬間も、トラックで見せつけていた。
(今日こそ勝ちたい……!ウィンスターさんを、引き離すために……!)
最終コーナーから体を前に傾け、彼女は出せる限りのスピードでゴールラインに飛び込んでいった。
13分51秒02
記録計には、ヴァージンが信じたくないような数字が刻まれていた。スパートが決まったと思ったにもかかわらず、ラスト1周が全く伸びなかったことを知った彼女は、スタジアムで天を仰いだ。それと同時に、スタジアムのところどころでため息が漏れるのが、彼女の耳にはっきりと聞こえた。
(13連勝でも、全く嬉しくない……。リングフォレストよりも悪くなっている……)
足に携えた「フィールドファルコン」でさえ、悔しさをにじませながら、次への力をヴァージンに送っている。その中で、彼女は二度、三度とタイムを見たが、何も変わらなかった。
(見えない敵と戦う恐怖は……、カリナさんも私も同じなのかも知れない……)
ラスト2周までリードしていたにもかかわらず、カリナはヴァージンから17秒も遅れてゴールへと飛び込んだ。カリナは、ヴァージンと目を合わせる余裕もないほど疲れ切った表情を浮かべ、何度も首を振り、「違う」という言葉だけ繰り返し発しながら、彼女のコーチのもとへと向かっていった。
それからほどなくして、地元メディアのインタビュワーがヴァージンのもとにやって来た。
「優勝、おめでとうございます」
「ありがとうございます……。ただ、タイム的には全く満足していません」
「なるほど……。50秒01まで世界記録を伸ばした後の、足踏み状態。私たちには、14分の壁のときと同じように映ってしまうのですが、グランフィールド選手はいつでも壁を破る準備ができていますか」
「できています。次こそは……、出します」
ヴァージンは、インタビュワーの質問に否応なしに「壁」の存在を意識し始めた。14分を切る直前でも何度も足踏みしただけあって、そのときを連想させるようなストレスを彼女は声でかき消した。
だが、インタビュワーはすぐに新たな強敵の存在に話を振った。
「さて、次のレースは世界競技会と聞いています。そこでは、ライバルを次々と打ち破ったウィンスター選手と一騎打ちになると言われていますが、グランフィールド選手としては、そこはどう考えていますが」
(やっぱり、この質問が来たか……)
ヴァージンは、インタビュワーに一度うなずいて、数秒間言葉を考えた。それから、やや低い声でこう返した。
「私は、ウィンスターさんに一度勝ちました。5000mの女王として、次も受けて立つまでです。ウィンスターさんに本気を見せつければ、間違いなく13分50秒の壁を打ち破れると思います!」
その瞬間、スタジアムから歓声が上がった。その歓声は、記録に立ち向かうトップアスリートを後押ししている風であるかのように、ヴァージンには感じた。