第74話 ウィンスターの魔力(1)
――イザベラ・ウィンスター、プロメイヤを振り切るか!振り切るのか!ウィンスター、女子5000m3連勝!
(ウィンスターさんは……、やっぱり強敵だ……)
ヴァージンは、自宅のテレビをじっと睨みつけた。ウィンスターの軽々としたスパートと、中継の画面右上に表示されたタイムを交互に見ながら、彼女はセントイグリシア選手権でもウィンスターが勝利したことを知った。
(私がオメガセントラルで走る前に、スタイン選手権でロイヤルホーンさんを破って……、この前のネルスでもメリナさんとカリナさんを破っている……。自己ベスト13分台のライバルを、みんな破っている……)
ヴァージンが初めてウィンスターと勝負したラガシャ選手権こそ13分57秒23と、ヴァージンの世界記録から遠かったものの、その後の3レースで13分52秒08、51秒92、51秒04と、5000mの実践を重ねていくうちにウィンスターがそのタイムを上げていく。中でも、この日のセントイグリシア選手権で出した13分51秒04は、ヴァージン以外に見たことのないタイムだった。
(いくら1500mでの実績があるとは言え、たった3ヵ月で自己ベスト世界2位……。ウィンスターさんがどこまで記録を伸ばせるのか、私だって分からない……。13分台で走る選手、私以外全員破ったことになるけど……、私は気にしないほうがいい……)
テレビ画面では、特徴的な2ブロックブレイズの髪を眩しい光に輝かせながら、ウィンスターが笑顔を見せている。ヴァージンは、一度首を横に振った後、静かにテレビを消した。
(むしろ、面白くなってきた。ウィンスターさんさえ抜けば、世界記録間違いなしだもの……)
8月にアロンゾで行われる世界競技会では、ウィンスターとの一騎打ちになる可能性が高い。だからこそ、その前に行われるケトルシティ選手権で、ウィンスターにタイムという名の実力の差を見せつけたほうがよい。ヴァージンの中では、既に2週間後に向けた計算が終わっていた。
だが、ウィンスターの力を、ヴァージンが否応なしに思い知ることになるのも、また運命だった。
ヴァージンは、リングフォレスト選手権の前にトレーニングで2回目の13分50秒を破るタイムを出したものの、それ以降は50秒か51秒のタイムに終始していた。だが、このところの彼女は、逆にそれよりも悪いタイムを出すことがなく、スピードに乗れればいつでも「壁」を破る準備ができていたのだった。
そして、ケトルシティ選手権の当日、彼女は普段と同じようにレースの4時間前にはスタジアムに入った。
(今日は……、たしかあまり目ぼしいライバルもいなかったはず……。周回遅れの選手に気を付けながら走ればいいだけ……)
ケトルランドのメディア事情からか、この日はヴァージンを映すようなカメラが全くなく、彼女は周りを意識することなく選手受付の前に進んだ。だが、選手受付のところまでやって来ると、見覚えのあるサーモンピンクの髪が風に揺らいでいるのが、彼女の目に飛び込んだ。
(カリナさん、今日出るんだ……)
メドゥから聞かされていなかったこともあり、ヴァージンは軽く首を傾けながらも受付の前に進み、そこでちょうどカリナと目を合わせた。カリナも、すぐにヴァージンに気付き、逆にカリナのほうから声を掛けた。
「グランフィールド……。今日も一緒に走れて嬉しい!」
「カリナさん……。こうやって目を合わせるの、久しぶりですね」
「ですねー……。なかなか私も声を掛けられなかったし……、私の前にどんどんライバルが出てきて、それどころじゃなくなっちゃったというのもある……」
そこまで言うと、カリナはやや目を細めてヴァージンの目を見つめる。それから、カリナは首を横に振った。
「カリナさん……。なんか、いつもの元気そうな表情に見えないのですが……、何かあったんですか」
「何かあったというか……、私たちの世界が、このところ荒らされているような気がする……」
普段からレース本番以外は元気そうな表情を浮かべるカリナの異変に、ヴァージンはすぐ気が付き、そして言葉の端々から「あの」ライバルに対する苦難がにじみ出ていることに気が付いた。
「それはもしかして、イザベラ・ウィンスターさんですか……」
「グランフィールドも……、分かってるか……。強すぎじゃないですか……」
「それは間違いない。自己ベストだって、51秒04になったわけだし」
カリナの目が、ヴァージンに対して何か強いメッセージを求めているように、ヴァージンには見えた。やや険しい表情を浮かべたまま、カリナは再び口を開いた。
「ウィンスターは、1500mでやったように、5000mでも勝ち続けようとしている……、1500mは、今まで優勝争いをしていた選手が他の種目に移らなければならないくらいになってるみたいだし、5000mを走るようになっても3連勝しているから……、いずれ私の居場所がなくなってしまうように思えた……」
「そんなことないですよ、カリナさん。カリナさんだって、かなりの自己ベストを叩き出したじゃないですか」
ヴァージンは、カリナの自己ベストを思い返した。それは、ヴァージンが膝のケガで離脱することとなった、昨年のオメガセントラル選手権での13分52秒07と、現状世界4位のタイムとなっている。
それでもウィンスターに怯えているカリナを見ながら、その怯える理由をヴァージンは懸命に考えようとした。
「たしかに、自己ベストは分かってます……。けれど、ウィンスターが私の前に出た瞬間に、力が抜けてしまうんです……。ウィンスターの前に行ってはいけないって、そんな光さえ溢れてきて……、それがちょっと嫌だと思うんです」
(「神」……)
ヴァージンは、カリナの言葉に映し出されたウィンスターの後ろ姿を想像した。初めての対戦で抜き去ったとは言え、背の高いウィンスターの背中は威圧感があり、その中でヴァージンはトップスピードで抜いたほどだ。そしてそれは、ちょうど男子100mのナイトライダーの存在にも似ているのだった。
「でも……、ウィンスターさんは私にこう言ってます。尊敬できる女王だと。だから、私に対しては……、ウィンスターさんだって苦手意識を持っているのかも知れないです。カリナさんだって、すごい記録を出せば、ウィンスターさんに尊敬されるアスリートと思われるはずです」
そこまで言い切ったヴァージンは、すぐに息を飲み込んだ。カリナを慰める言葉ではあるものの、今のウィンスターが決してそのような言葉で片付く相手ではないことは、ヴァージンには十分分かっていた。
それでも、カリナはヴァージンの言葉を表面だけ受け取って、静かに言葉を返した。
「グランフィールドの言葉を信じたい。私だって……、この世界に飛び込んだ時、お姉ちゃんなんかよりも、グランフィールドのほうがはるかに実力のあることを知ってたし、そういうつもりでずっと、戦ってきたし……」
瞬間、カリナの目から一粒の涙がこぼれた。とても勝負を前にしたアスリートと言えないほど、カリナは思い詰めていたことを全て解き放とうという表情だった。
「グランフィールドは……、私を大事なライバルだと思っているし……、何より私を認めてくれている。対等の立場だと思ってる……。けれど、ウィンスターは、勝負する前から弱い相手を見下すような表情で、なんか嫌だ……。もし二人のどちらかと一緒に走れと言われたら、間違いなくグランフィールドと勝負したいと思う……」
「そんな……、人によって態度を変えてるんですか……」
「そんな感じ。だから、プロメイヤまで負けたって知ったとき、もう今の世界を守れるのはグランフィールドしかいないんだって、思っちゃった……。今はグランフィールドが女王だから安心できるけど……、もし世界競技会で、グランフィールドまでウィンスターに負けたら……、5000mの空気が変わってしまう……」
(カリナさん……。そこまで気にしない方がいいのに……)
ヴァージンは、ショックさえ覚えた。これまで数多くのライバルと走ってきた中で、最も明るく接してきたはずの存在にここまで訴えられること、そしてウィンスターの「本性」を思い知ったことのダブルで、ヴァージンの心に響いてくる。
(ダメだ……。このまま付き合っていたら、私もカリナさんも、今日は勝負にならなくなってしまう……)
ヴァージンは、首を横に振って、じっとカリナを見つめながら言った。
「今日、私はカリナさんに約束する。50秒を必ず切って、ウィンスターさんに5000mで頂点に立つのは甘くないってことを見せつける……。だから、カリナさんも……、私よりも前に出る感じで、恐怖をその脚で打ち砕いたほうがいいと思います」
その言葉にカリナがうなずくまで、それほど時間がかからなかった。ヴァージンは、横目で見つめるトラックに意識を向け、自らの足に想いを言い聞かせた。