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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
届け 神の領域に
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第73話 神と挑戦者(6)

 既に勝ち誇ったような表情でヴァージンを見つめるナイトライダーの横で、イリスが首を左右に振った。

「グランフィールドさんに判断してもらうまで……、僕は諦めません!」

(イリスさん……、勝負している時以上に目が本気だ……。きっと、ここに来るまでの間に、ナイトライダーさんにいろいろ訴えたのかも知れない……)

 ヴァージンは、イリスとナイトライダーの顔を同時に見つめながらも、イリスの言葉に目線を彼に向けようとした。だが、ほぼ同時にナイトライダーがヴァージンにウインクし、イリスの誘いを空気で切る。

「まぁ、どうせグランフィールドだって、僕の顔を見れば……、僕に決めるだろ。もう、僕との素敵な物語は、走り始めてるんだからさ」

 そう言うと、ナイトライダーはヴァージンに一歩近づき、その場で左膝をついた。それから彼は、ヴァージンに訴えかけるような目線で見つめ、ゆっくりと右手を差し出した。

「ほら、僕はグランフィールドと出会うのが運命だった。世界最速の道をひた走り、世界記録の偉大さを誰よりも知っている。そんなグランフィールドが、同じ世界最速の僕と結ばれる。それは、運命であり、必然なんだ」

(ナイトライダーさん……)

 ヴァージンは、声にならない声でナイトライダーに語り掛けようとした。だが、その言葉すら言う言葉出来ないほど、ナイトライダーの体から解き放たれる空気に光が輝いていた。

「最強は最強と、神は神と結ばれるべきもの。幸せは、ギャップから生まれることはない。ほら、僕のファンも、グランフィールドのファンも、誰もがみなこう思ってるさ。最強の夫婦に、最強の愛あり、とね」

 それからナイトライダーは、差し出した右手をさらにヴァージンに近づけた。しばらくナイトライダーの甘いマスクから目を反らすことができなかったヴァージンは、言葉が終わったと同時にイリスを軽く見た。

「今のナイトライダーさんの言葉を聞いて、イリスさんはそうだと思いますか」

 ヴァージンの声は、初めてリバーフロー小学校で出会った時の「教え子」に語り掛けるような声で、イリスに意見を求めた。するとイリスは、すぐに首を横に振った。

「世界最速は、世界最速と結ばれる。それは、恋の物語としては最高の結末です。けれど、世界最速であり続けることは……、そんな簡単な物語じゃないってことを……、グランフィールドさんは誰よりも分かってます。ライバルに負けることも、それに世界記録を破られた時の悔しさだって分かってるはずです……!」

「イリス。それでもグランフィールドは、世界中で有名な女子アスリートだ。その実績は揺らがない」

「そんなことを言ってるわけじゃありません……。グランフィールドさんは、誰よりも速く走りたいと、強く、強く心に抱いて、それで一つ、また一つと世界記録を更新しているはずです。その気持ちがあれば……、いや、チャンスさえあれば……、誰にだって世界記録を手にすることができる……。僕だって、ナイトライダーさんに代わって1週間だけ……、世界最速になれたんですから……!」

(たしかに、イリスさんの世界記録……、私もはっきりと見た……)

 昨年の10月、オメガセントラル選手権から1週間後のフィアテシモ選手権までの間、たしかに男子100mの世界記録を持っていたのは、他でもない、まだ22歳のイリスだった。「神」の世界記録を破ったことは間違いなかった。

 そのことをはっきりと思い出したヴァージンは、今度はナイトライダーに向かって、そっと語り掛けた。

「私は……、どちらかと言うと、世界最速はその時のパフォーマンスで全て決まる。誰かがずっと世界記録を持ち続けているわけじゃない……。私だって、考えたくないけど……、いつかは限界が来る。走っても、走っても、世界記録が遠くなるような時が、きっと来ると思う」

「そんなことはないよ、グランフィールド。僕も、グランフィールドも……、永遠のスーパーアスリートだ。夢の時間は、諦めない限りは終わらないはず。少なくとも、僕はこのアーヴィング・イリスに抜かれることはない。僕がアスリートで居続ける限り、イリスは絶対に世界最速になれない……!グランフィールドも見ただろ、僕の前に手足も出なかった、この青年の姿を……」

 そこまで言って、ナイトライダーはイリスを横目で見た。イリスは、悔しそうな表情を浮かべながらナイトライダーを見つめるが、決まりかけた結果に何も言うことが出来ない。

 だが、イリスの表情を察したヴァージンは、そっと首を横に振った。

「ナイトライダーさん。それはないと思います。もし、これから先、私が引退するまで世界最速であり続けるとしたなら、そんな世界で、私がワールドレコードに立ち向かう理由はなくなってしまいます。私とほとんど自己ベストが変わらないライバルたちも……、私を追う必要がなくなってしまいます」

 その瞬間、イリスの目からかすかに涙がこぼれるのを、ヴァージンははっきりと見た。それからナイトライダーに向き直って、言葉を待つ彼に再び語り掛けた。

「『神』と呼ばれるナイトライダーさんの存在は、たしかに偉大です。けれど、絶対の『神』なんていないと、私は信じています。ずっとアスリートで居続けたからこそ、私はそのことを言わなきゃいけないと思うのです」

「グランフィールドだって、もうすぐ『神』になるんだろ……。僕のいる世界のように……、走っても誰も付いて行けない存在に……、素敵な存在になるんだろ……」

 ナイトライダーは、祈るような声でヴァージンに迫る。それでもヴァージンは、再び首を横に振った。そして彼女は、心の底から出るような声でナイトライダーに告げた。


「私は、そんな人間にはならない……。たとえ12連勝しても……、たとえ42回世界記録を破っても……、私は、自分を神だとは思わない。私は、永遠の挑戦者に過ぎない!」


 全ての言葉が終わったとき、彼女の背後から驚きの声が響いた。ナイトライダーとヴァージンの恋の行方を見守る群衆の目には、ヴァージンが決めつけられた現実を変えようとする「女王」であるかのように映った。

 その時だった。イリスが二人の間にゆっくりと入り込み、静かに言った。

「もうやめようよ。僕もだけど……、アスリートがこんな場外で戦うの、僕らに与えられた使命じゃないんだから……。それに、きっと、グランフィールドの心も決まったはずだから」

(イリス……、さん……)

 ヴァージンは、ナイトライダーにはっきりと見えるように、イリスにうなずいた。ナイトライダーはそっと立ち上がり、軽く頭を下げた。

「僕の哲学は……、幼かったかな……」

 そう言うと、ナイトライダーは最後に一度ヴァージンに微笑み、イリスとヴァージンの肩を同時に軽く叩いた後、ゆっくりと駐車場までの花道を後にした。いつものように「神」を追いかけるファンたちの動きは、この日はどこか重々しいように、ヴァージンには見えた。

 ナイトライダーの姿が見えなくなると、イリスがヴァージンに訴えかけるような目線を見た。ヴァージンが一度うなずくと、イリスは震えるような声で彼女に告げた

「なんか……、グランフィールドさんに救われたように思います……。ケンカを止めて、ぐらいしか僕は言えなかったのに……、グランフィールドさんのほうがずっとずっと大人です……」

「イリスさんだって……、世界記録の持つ意味を分かっているなんて……、ずっと私を見て育ってきたアスリートなんだと改めて思いました……」

「そうですね……。僕にとって、一番尊敬できるのがグランフィールド……先生、ですから!」

 イリスにそう告げられた瞬間、ヴァージンはそっと笑った。


(ナイトライダーさんは、周りから『神』と呼ばれる存在になってしまったからこそ、大切なものを忘れてしまった……。だから、私はもう神を意識しない……。永遠の挑戦者だという立場を、何かの機会に伝えたいくらい)

 まだフローラが戻っていない家に入り、バッグの中を片づけ、リビングの椅子に座ったとき、ヴァージンの脳裏にこの日の様々な記憶が凝縮されて溢れてくる。神という言葉に憧れ、そしてその憧れの存在を実際に見て感じたことを、彼女は少しずつ心の中に留めるのだった。

(それでも私は、夢は形にしたい……。今日はできなかったけど、13分50秒を破る夢は、きっと形にする!)

 一人、また一人とその壁に迫っていることは間違いない。少なくとも、今の女子5000mでは誰が世界最速の称号を得るかは、その時のパフォーマンス次第。そのことを、彼女は言葉に出さなくても思い浮かべていた。

 そして、最後にこう言い聞かせた。

(限界なんか、まだ見たくない……。他の誰かが先に50秒を切るなんて、考えたくない……)

 この日は壁に敗れた「女王」は、その瞬間には早くも次の勝負をにらみ、動き出していた。

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