第73話 神と挑戦者(5)
男子100mの決勝に出場した8人の選手が、ホームストレッチから見て左側にゆっくりと進んでいく。集合場所からスタートラインに向かう時から、ヴァージンの二つ前の席でナイトライダーの名を呼ぶ声が聞こえるなど、スタジアムは異様な空気に包まれていた。
(イリスさんだけのときは、こんな空気にはならなかった……。ナイトライダーさんに、結構なファンが付いているのは間違いない……)
その名を呼ぶ声に、ナイトライダーが時折甘いマスクをスタンドに向ける。そのナイトライダーを、数歩後ろからじっと見つめる茶髪の青年イリスの目は、その場に立つ誰よりも本気であるかのように、少なくともヴァージンには見えた。これまでヴァージンが何度も抱いた、勇ましき獣の姿だ。
(初めて、世界の頂点……、いや、「神」に挑戦する……。イリスさんの目は、勝つことしか見ていない……!)
周りの誰もがナイトライダーに目線を向ける中、ヴァージンはなるべくナイトライダーを見ないように、イリスの本気だけを感じ続けていた。そして、それぞれの選手がスタートラインの手前まで進むと、静けさの中、誰もが息を飲んで陸上競技の最速中の最速を決めるバトルに見入った。
(イリスさん……)
ナイトライダーは4レーン。イリスは7レーン。だが、イリスの実力を考えれば、間にいる二人を横目で見ることはなく、実質的に二人が並走する形になる。そこまでヴァージンは展開を読み、そして祈った。
(動き出す……!)
8人の足が、100m先の運命へと突き進むように前に飛び出した。イリスが8人で最も早くスタートを切り、わずか2秒の間でナイトライダーを体一つ分後ろに追いやる。決して後ろを振り返ることなく、イリスが「神」との勝負に打ち勝とうと、出せる限りのスピードで駆け続ける。
50mを過ぎたあたりで、イリスとナイトライダーの後ろは3歩ほど誰もいなくなっているように、ヴァージンには思えた。この段階でも、まだイリスはわずかにナイトライダーを引き離している。だが、それから1秒、ちょうどヴァージンの正面を二人の「光」が抜けていこうとしたとき、彼女は息を飲み込んだ。
(イリス……!)
ナイトライダーが50mもの間、力を溜めていたかのようにスピードを上げてイリスに並び、ヴァージンが息を飲み込むさなか、「神」に立ち向かおうとする存在を後ろに追いやった。そして、同時にそれまで勇敢にゴールを攻め続けてきたイリスのスピードが、ガクンと落ちるようにさえ見えた。
(ナイトライダーさんと並んだ瞬間……、イリスさんがこんなに遅く見えてしまうなんて……。決してスピードを落としたり、諦めたりしたわけじゃないのに……、何もかも過去になって……、無力になる……)
大方の予想通り、ナイトライダーが勝利を確実にした瞬間、一気に盛り上がるスタジアム。その大声援の中を、ナイトライダーはスピードを落とさずに駆け抜けていった。
――神は、やっぱり神だああああああああ!
ヴァージンの時でさえ出なかったトーンの実況が、ヴァージンの真上から聞こえる。ざわつくスタンドの中にもはっきりと聞こえるようなその声からは、約束された「神」の勝利を最初から信じていたような空気さえ読み取れた。
(すごい……。いま、誰もがナイトライダーさんばかり見ている……)
ナイトライダーのタイムは9秒63。決して世界記録を更新したわけではないが、男子100mで世界の頂点に立つ存在として、その貫録をライバルとレースを見る者全てに見せつけたのだった。
その後次々と表示される、ナイトライダーが寄せ付けることのなかったライバルのタイム。イリスが9秒78と表示されるのだけを見て、ヴァージンはため息をついた。
(イリスさんも……、完璧な走りだったはずなのに……、抜かれた瞬間にそのスピードさえ消えていった……)
ヴァージンは、ここでようやくイリスの後ろ姿を探した。だが、トラックの中ではナイトライダーが大きく手を広げ、見てくれてありがとうと言わんばかりの表情を観客席に浮かべている光景だけが広がっていた。イリスを探しているにも関わらず、否応なしにナイトライダーの顔を見てしまうのだった。
(イリスさんや……、あとの6人が全く見えない……。この場所にいるはずなのに……、みんなの目線がナイトライダーさんに行ってしまって……、見えない……。一人でレースをやったわけじゃないのに……)
ナイトライダーに目線を向けそうになりながらも、ヴァージンはそれ以外の選手の表情を追おうとした。すると、30秒ほど経ってようやく、カメラマンに見え隠れするイリスの姿を見つけることができた。彼の表情は、ヴァージンに決して見せたことがない、呆然としたものだった。
(ナイトライダーさんに負ければ……、この場に空気すらなくなる……。私だって、世界記録を出した時は注目されるけど……、ここまで他の選手の姿が見えなくなるような感じじゃなかった……)
ヴァージンはイリスに目線を向け続けたが、イリスはヴァージンが見ていたことすら気付かず、逆に首を垂れていた。スタート直後にあれだけ勇ましさを見せていた「獣」が、気持ちさえも「神」の前に屈していた。
(ナイトライダーさんは……、絶対の存在……。「神」と呼ばれるその存在に、逆らうことすら許されない……)
イリスを見ていたはずのヴァージンの目線に、再びナイトライダーが入ってくる。スタジアムの歓声は鳴りやまない。勝負に勝ち続ける「神」の姿をいつまでも目に焼き付けようと誰もが必死になっており、その空気からは、当然にしているはずの敗者の存在は消されていた。
(これじゃ、懸命に走ったほかの選手がかわいそう……。イリスさんだって、ほかのみんなだって……、ナイトライダーさんに挑んだはずなのに、レースが終わったら挑んだことすら記憶から消されてしまいそう……)
ヴァージンは、ついに席を立った。いくらスーパースターでも、これ以上見たくなかった。そして、未だに興奮だけが包み込むスタンドから一歩、また一歩と、一人のアスリートが力なく降りていった。
だが、階段を全て降り切った瞬間、ヴァージンはナイトライダーの言葉を思い浮かべた。
(そう言えば、恋の決着をつけるとか言っていた……。イリスさんが望んだかは分からないけど……、私が先に帰るわけにはいかないのかも知れない……)
既に出場するレースが終わっている以上、スタジアムを後にすることで何らペナルティーを与えられるわけではない。だが、付いてしまった「決着」を前に、当のヴァージンが逃げるわけにもいかなかった。それどころか、逆にヴァージンの中で、残りたいという選択肢しか生まれなくなっていた。
(できれば、ナイトライダーさんの前に散ってしまったイリスさんを慰めてあげたい……。それ以上に、ナイトライダーさんに伝えたいことがある……。なんか、見てておかしく感じたから……)
まだいくつか種目は残っているものの、ナイトライダーのファンと思われる観客がスタンドを降り、選手受付から駐車場へと向かう通路で出待ちをしていた。ヴァージンは、その波に飲まれることなく、閑散としている選手受付のすぐ前で、その時が来るのをじっと待っていた。
(イリスさんが、この恋を諦めるのならしょうがない……。でも、イリスさんの性格を考えると……、きっと諦めきれないと思う……)
やがて、100mに出場した選手が一人、二人と着替えを終えて選手専用ゾーンから出てきた。つい数十分前、ナイトライダーのすぐ横に並んでいた、ヴァージンも見たことのある顔が、一つの完敗を境に別人のように見えた。
そして、それから数分後、彼女は二人の青年が近づく気配を感じた。彼女の背後でも、その空気を感じて一斉にカメラを向ける音が聞こえる。
(一人は「神」の匂い……。それからもう一人は……、何度も感じてきたイリスさんの匂い……。もしかして、二人は私がここにいると思って、並んで歩いている……)
ヴァージンは、目を凝らして通路を見つめた。すると、ナイトライダーと、そして数歩遅れることイリスが、逆にヴァージンを見つめながら近づいてくる。お互いに会話をしているわけでもなく、ただ二人とも何かを伝えたいような表情だけを浮かべている。
(こんな、レース直後なのに私へのプロポーズの言葉を考えているわけ……、ないか……)
ヴァージンが振り向くと、数人のナイトライダーファンが通路の両端に並んだ列から飛び出そうとしている。しかし、選手受付前の特等席にいるのがヴァージンだと分かった瞬間、突然引っ込んだ。その直前の目線でさえ、ヴァージンには違和感を覚えた。
(ナイトライダーさんが私を手に入れるのを、みんな待っているような空気だ……。ナイトライダーさんが誰にも知られる存在であると同時に、私だってそうなのかも知れない……。まだ、「神」なんかじゃないけど……)
ヴァージンは、数秒だけ考えて正面を向き直った。ほぼ同時に、ナイトライダーの足がヴァージンから3歩離れたところで止まった。そして、ナイトライダーはそっと口を開いた。
「やっぱり、僕を待っていたようだね、グランフィールド。見ての通り、パートナーを賭けた勝負は僕の勝ちだ」
ナイトライダーが胸に手を当てながら、じっとヴァージンを見つめる。ヴァージンも、その目線と一直線になるしかなかった。
だが、その真横に並んだイリスが懸命に伝える声が響いた。
「まだ決着はついてないです……!」