第73話 神と挑戦者(4)
(4000m、11分19秒前半……)
記録計こそ見えなかったものの、ヴァージンは4000mの通過タイムをはっきりと確信した。プロメイヤが4000mを通過した瞬間にペースを上げたため、ヴァージンは4000m直後のコーナーにラップ65秒のペースのまま挑んだ。目の前にいるプロメイヤも、ここでは全く同じラップでヴァージンから逃げ切ろうとしている。
(プロメイヤさんを、なるべく早いうちに抜かしておきたい!)
4200mで、ヴァージンがラップ62秒まで加速させた時、彼女は再び「もう一つのライバル」との勝負を強く言い聞かせた。自らが目指すものは、プロメイヤとの勝負ではない。既にトレーニングで2回もクリアしている、「神」と呼ばれる壁だった。
次のコーナーを抜けたときに、4000mの手前では20m以上あったプロメイヤとの差が15mほどまで縮まっている。プロメイヤも、これまで対戦した時のようにラップ62秒から63秒を意識しているものの、その後ろ姿がヴァージンの目にはどこか苦しそうに見えた。時折、プロメイヤが腕を大きく振るしぐさを見せるものの、次のペースアップを前にもがいているようだ。
(もしプロメイヤさんのトップスピードが伸びなければ……、思った以上に早い場所で抜けるかも知れない!)
前を行くプロメイヤが、懸命に逃げ切ろうと腕を大きく振る。スピードアップにもがいていたが、4500mあたりでついにラップ62秒を上回るストライドをヴァージンに見せるようになった。そして、ラスト1周を告げる鐘が鳴った。
(プロメイヤさんも、このまま沈んでいかない……。本気でプロメイヤさんと戦うしかない!)
ラスト1周のラインよりもやや早い地点で、ヴァージンは右足を力強く前に踏み出した。記録計に12分54秒の文字を見たとき、彼女は心の中で「二つの勝負」に勝つことを意識した。
(私は……、「神」の壁に立ち向かう!)
「フィールドファルコン」の力強い「翼」が、トラックの上で懸命に羽ばたく。10mちょっとの差でラスト1周の勝負となったプロメイヤは、ラップ57秒ほどのトップスピードを見せようと腕を大きく振るが、体が付いていかない様子で、ヴァージンの目には58秒か59秒ほどにしか見えなかった。
(食らいつくまでもなく、一気に追い抜く!)
大きく腕を振って追撃を止めようとするプロメイヤを、ヴァージンはバックストレッチの直線で一気に横に並んで、瞬く間に抜き去った。そして、プロメイヤの荒い呼吸をほとんど感じることなく、彼女はラップ55秒のトップスピードと、最終コーナーを回るにつれ徐々に冷たい向かい風に変わっていく空気をはっきりと感じた。
(勝ってみせる……。私は、女子で初めて、「壁」を打ち破る……!)
最速女王と呼ばれ続けるトップアスリートの強い意思と、「フィールドファルコン」が、「壁」へのアタックを続ける。冷たい風にスピードを落とすことなく、ヴァージンは運命を決するゴールラインへと飛び込んでいった。
勝利を信じ、振り向こうとしたその時だった。スタジアムのスピーカーからの声が、彼女に突き刺さった。
――何と言うことだああああ!あのグランフィールドでさえも、神の壁には勝てないのかああああああ!
(うそ……)
次の瞬間、実況に合わせるかのようにスタジアム全体にため息がこぼれるのを、彼女は否応なしに聞いた。振り返って記録計を見たとき、そこには13分50秒17という、想定もしていなかった結果が刻まれていた。
何が起こったか分からないまま闇雲にクールダウンを続けるヴァージンの前にプロメイヤが現れるも、ヴァージンは無意識に肩を叩くことしかできなかった。そして、3位の選手まで離れていることを目で確かめてから記録計の前まで行き、右手を力なく当て、ガックリと首を垂れた。
(行けると思ったのに……。今日こそ、50秒の壁を破れると思ったのに……)
彼女の背後からは、実況がたまらず「決定的な瞬間を誰もが待っていたのに……、次の機会に期待しましょう」と告げたものの、その言葉さえ彼女の頭には入ってこなかった。
(これが、神の壁……。13分台の壁にだって何度も跳ね返されたけど、今日はその時以上のプレッシャーを感じる……。少なくとも、レース中に二つの勝負をしていると思ってしまったときから……、その重圧を跳ね返すのが精一杯だった……)
ヴァージンは、両手で顔を隠しながら記録計に背を向け、首を左右に振った。インタビュワーとカメラが近づいてくる中で、彼女はなるべく平静でいようとしたが、優勝インタビューに何と答えたかさえ、トラックを出たら忘れるほどだった。
「私は、『神』にはなれなかった……。まだ、女王のまま……」
終わってしまった勝負が否応なしに思い出される中、ヴァージンはロッカールームでシューズをしまい、レーシングトップスをしまってバッグを持ち上げた。もう一度戦えるような気力だけが、彼女には湧き上がっていた。
だが、かすかに浮かんだその意欲も、選手受付を出た瞬間に、一度は聞いたことのある声にしぼんでいった。
「残念だったね、グランフィールド」
「ナイトライダーさん……。決勝前なのに、私に声を掛けるなんて思わなかったです」
黒髪を束ねたナイトライダーの甘いマスクは、レーシングトップスに着替えた状態でも健在で、ヴァージンの目の前に立つと余計にそれが引き締まって見える。ナイトライダーの表情は、ヴァージンを全力で励まそうと顔の筋肉全てを使って微笑んでいるようだった。
「これだけ有名なアスリートが、今日こそ僕のような『神』になると思ってたんだ……。すごく気にしたさ」
「ナイトライダーさんにはかなわないです……。アスリートと言うより、男性アイドルにしか見えないですし……、女子5000mで神になれるというニュースを見てから調べましたが、ナイトライダーさん、初めての世界記録を叩き出したその日に、テレビから神って呼ばれてたのですから……」
「まぁね。僕がレースのたびに注目されるからこそ、僕のカリスマ性もアップするんだよ」
ナイトライダーがそこまで言い終えると、目線をかすかに外周通路に動かす。そこには、ナイトライダーとヴァージンの2ショットにカメラを向けようとする観客の姿がいくつもあった。
「ほらね。僕と一緒にいると、最強のアスリートカップルのような匂いがするだろ」
「たしかに……。それが、ナイトライダーさんからあふれ出ているカリスマなんですね……」
「その通り。……で、どうして僕がグランフィールドを待っていたかと言うと……、今夜の男子100mで、恋が決するからさ」
ナイトライダーがヴァージンに向けてウインクする。何も知らないヴァージンは、ナイトライダーを真っ直ぐ見つめるだけだったが、そのような気まずい時間をかき消すかのようにナイトライダーが口を開いた。
「アーヴィング・イリス、知ってるだろ。グランフィールドに何度か近寄っている青年」
「知ってます。彼が小学生の頃から」
「今日、100mの予選が終わったときに僕は言ったんだ。グランフィールドの未来を独り占めできるのは誰か、はっきりと決めたいと。イリスもそれを聞いて負けたくないとは言ったが、年齢的にも、立場的にも、それに実力的にも、僕がグランフィールドの二人目のパートナーになる。どうだ、僕の圧倒的な実力で、グランフィールドを一生幸せにしてあげるさ」
(どうしよう……)
気持ちの整理がつかない状況で、突然恋の選択を迫られたヴァージンは、普段なら言い返せる言葉が口の中に出てこなかった。相手は「神」であり、その絶対的な存在に逆らうこともできないようなオーラがにじみ出ている。甘いマスクと、本性からヴァージンに愛を届けようとしているナイトライダーでも、幸せな毎日が送れるようにさえ思えた。
(でも……、どうしてレースでそのことまで勝負しなきゃいけないんだろう……)
ヴァージンが何も言い出せないまま下を向き始めると、ナイトライダーの手がヴァージンの肩を軽く叩いた。
「あと一歩、あと0コンマ01のところまで、グランフィールドは僕に近づいてる。僕はそう信じてるよ」
そう言うと、ナイトライダーはヴァージンから手を離し、再びヴァージンに微笑んだ。それから、またね、と軽く声を掛けながら、選手専用エリアへと入っていった。
(ナイトライダーさんと……、イリスさん……。どっちが私を幸せにしてくれるのか、分からなくなってきた)
ヴァージンは、白い天井にナイトライダーとイリスの二人の表情を思い浮かべた。それから、首を横に振った。
(これが、「神」と呼ばれる人間……。「神」になると、恋愛でさえもうまくいって……、その姿、その実力だけで何もかもできてしまう……。逆らうものを許さないような……、そんな存在になる……)
ヴァージンは、心の中でそう呟きながらスタジアムの観客席に向かった。1時間後に迫った男子100mの決勝で、イリスが「神」に立ち向かう瞬間を、その目で見届けるために。