第73話 神と挑戦者(3)
「女王」ヴァージンが13分50秒の壁に立ち向かい、そして若きイリスが「神」ナイトライダーに立ち向かう、二つの注目レースが行われるリングフォレストの空気は、5月にしては肌寒かった。予報では曇り時々晴れであるにもかかわらず、今にも雨が降り出しそうな空模様の中、ヴァージンはレースの4時間前に会場入りした。
すると、選手受付へと向かう彼女の耳に、スタジアムから大きな声が響いた。
――ロバーツ決めたーっ!6m20cm!やっぱり棒高跳びの王者はここで一発で決めたーっ!
スピーカーを通じた声から察するに、明らかにスタジアム実況の声だ。これまで17年近くにわたって、ヴァージンは数多くのスタジアムでレースに参加してきたが、スタジアムの実況の声がここまで外に響くことはなく、観客席に十分聞こえる程度の音量に留まっていた。例えば、ヴァージンが世界記録を叩き出すときも実況の声が客席には響くものの、トラックの中にいるヴァージンには客席のざわめきで聞こえないのだが、どうやらこの日はトラックにも露骨に聞こえる音量にセットされているようだ。
ヴァージンはふと立ち止まり、他の種目の実況が聞こえてくるのを待った。すると、1分も経たないうちに、同じような音量で流れる実況が再びスタジアムから流れてきたのだった。
(これはもしかしたら、私が大記録を達成した時には、トラックの中を含めて喜びに包まれるかもしれない!)
レース中は気が散ってしまう可能性のあるこの日の「環境」でさえ、ヴァージンは早くも肯定的に捉えた。それから、一度うなずいて選手受付に向かった。
(そう言えば、今日のレース……、誰が出るか確認していなかった)
10000mを含めてここまで11連勝と、世界記録以外は敵なしのヴァージンにとって、世界記録を狙う手前でライバルに敗れることを全く考えていなかった。それでも、ライバルによって4000m時点でどれだけの差がついているか、そして相手のスパートを始める位置が変わることを考えれば、事前に知っておいて損はなかった。
ヴァージンが名前にチェックを入れると、その下にはプロメイヤの名前が見えた。
(プロメイヤさんか……。今のところウィンスターさんを上回る、私にとって最大のライバル……)
一度は世界記録を奪われたこともあるヴァージンにとって、自己ベスト世界2位の実力を持つプロメイヤは戦闘意欲が燃え上がる絶好の相手だった。
(プロメイヤさんを最終ラップの早いうちに追い抜けば、目指す壁を打ち破るのは間違いない)
まだ姿を見せていないプロメイヤを、ヴァージンは頭の中でその姿を意識し始めた。
トラックでは男子100mの予選が行われたが、ヴァージンは決してそのレースを見ることはなかった。それよりも、今は自らの記録更新のほうが大事だった。サブトラックに時折響いてくる「イリス」や「ナイトライダー」の名前を聞いて、わずかに安心する程度だった。
(もし、このリングフォレストで13分50秒の壁を破れば、私はスタジアム全体に響くような声で、「神」……)
ヴァージンは、サブトラックのスタートラインに立つが、普段より少しだけ心臓が早く動くのを感じた。
(先週、テレビで見てしまってから、少しだけプレッシャーを感じている……。でも、それもトラックに立つ私には、追い風になる……。文字通りの神になった先には、まだまだ私にしか挑めない世界が待っているのだから)
普段よりも長い間、彼女は走り出すサブトラックを見つめ、心臓の鼓動を感じなくなるのを待って走り出した。
そして、いよいよヴァージンが13分50秒の壁に立ち向かう時間が迫ってきた。ヴァージンは、集合場所でこの日初めてプロメイヤの姿を見たが、プロメイヤは特にヴァージンと目を合わせることなく、やや肌寒い風に茶髪を小刻みに揺らすだけだった。
(プロメイヤさんを過度に気にするのは……、今日はやめておくか……)
スタートラインの前に並ぶとき、ヴァージンの心臓の鼓動は再び大きくなっていったが、彼女は大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着かせた。そして、その場所でも決してプロメイヤに振り向かなかった。
「On Your Marks……」
勝負の時を告げる声が、静かに響く。ヴァージンはその目に新たな世界を思い浮かべた。
(よし……!)
号砲が鳴ると同時に、ヴァージンは一気にラップ68秒のペースへ駆け上がった。二つ隣のレーンからは、何度も見てきたように、プロメイヤがじりじりとヴァージンの前に出ようと差を広げる。ラップ67.8秒ほどと、ヴァージンよりもやや速いペースをプロメイヤは見せつけた。
(やはり、いつもと同じように最終ラップ勝負に持ち込もうとしている……)
これまでの対戦とほとんど変わらない様相のプロメイヤは、記録に挑む逆ヴァージンにとっていい意味でのペースメーカーになる。プロメイヤの自己ベストがヴァージンと1秒ほどしか変わらないとは言え、「壁」との勝負しか眼中にない彼女にとっては、この日のプロメイヤをそれほどライバルとして意識するつもりはなかった。
(プロメイヤさんは、4000mの少し手前からペースを上げてくる。それと同時にラップ65秒まで上げていけば、大丈夫……)
ヴァージンが最初の1000mを、体感で2分50秒ちょうどのタイムで通過したとき、目の前にいるプロメイヤとの差は、まだ5mもなかった。ストライドにして数歩の差。少しずつだがその差が開いていくのは、既にヴァージンの計算の範囲内だった。彼女は、ラップタイムを感覚で刻み続けながら、4周目、5周目と周回を重ねる。その足に携える「フィールドファルコン」が、早くも記録との勝負に挑みたいと彼女に語り掛けているようだ。
(ラスト1000mで、5分39秒。この前のトレーニングでも、そこから49秒37を叩き出せた。だから、4000mの手前までは、そんなに焦らなくていい……)
2800mを過ぎる頃には、ヴァージンの目の前に周回遅れのライバルが現れるようになった。トレーニングとは違い、それらを追い抜かなければならない。その度に、プロメイヤの姿が消えていく。ヴァージンは、決してペースを落とさなかったものの、この日は消える「ペースメーカー」を特に意識するのだった。
(最後は、自分と自分の勝負のはずなのに、プロメイヤさんを意識する……。それだけ、体の中に刻むタイムがプレッシャーになっているのかも知れない)
彼女は、それを適度なプレッシャーだと自らに言い聞かし、3人目の周回遅れの選手の前に出た。その瞬間、プロメイヤの腕が大きく振られる光景を、ヴァージンの目は捕らえた。
(まだ3000mなのに……!)
プロメイヤの腕の動きが大きくなることは、勝負を始まる瞬間だと、ヴァージンはこれまでの対戦で何度も思い知っている。だが、これほどまで早い地点で見せることはなかった。そして、数回腕を大きく振ったときには、プロメイヤのペースはラップ68秒を少し上回るところから、一気にラップ67秒ほどまで上がっていた。
ヴァージンを引き離しながらコーナーに差し掛かったプロメイヤが、軽く後ろを振り向く。その表情は、どこか勝ち誇ったような薄笑いにさえ見えた。
(プロメイヤさんも……、もしかしたら50秒の壁をクリアすれば神になれること、意識している……!)
たまたま見かけたスポーツニュースで、「50秒の壁」と「神」という二つのキーワードがセットになっていることを、ヴァージンは思い知った。ニュースに刺激されたのはヴァージンだけではなく、自己ベストが13分50秒に限りなく近い他のライバルも、同じように思えた。
(プロメイヤさんと……、勝負すべきか……)
このままでは、プロメイヤがかつてなく速いタイムでラスト1000mに入る。そうなれば、最後の1周は世界記録とプロメイヤの両方と戦い続けなければならない。少しでも早い段階で勝負すべき「相手」を一つにしなければ、普段を少し上回るプレッシャーが一気に増大していく可能性が高い。
それでも彼女は、一度首を横に振り、あえてプロメイヤのペースに合わせることを拒んだ。
(自分は、自分の闘いがある……!下手にペースを乱して、最後の1周でしぼんだら、何の意味もなくなる)
ヴァージンは、3000mを過ぎたあたりでラップ67.7秒ほどまでペースを上げたものの、それ以上のペースアップはラスト1000mまで取っておくことにした。逆に、プロメイヤはラップ67秒をやや上回るペースで走り続ける。
4000mのラインが近づくにつれ、二人の差は20mを明らかに超えるほどまでになっていた。
(プロメイヤさんにここまで離されるとは思わなかったけど……、ここからは世界記録に挑む私の本気を見せる1000m……!)
4000mのラインをプロメイヤが11分15秒で駆け抜けるのを見たヴァージンは、「フィールドファルコン」の底を力強くトラックに叩きつける。女王の脚が、「神」の壁を乗り越えようと跳び上がった。