第73話 神と挑戦者(2)
ヴァージンがトレーニングで5000m過去最高となるタイムを叩き出したその日は、姉のフローラも嬉しそうな表情を浮かべて家に戻ってきた。
「ヴァージン、すごく嬉しい出来事があるけど言っていい?」
「お姉ちゃん、私も今日……、嬉しい出来事があったんだけど……、どっちが先に言う?」
ヴァージンが、リビングに入ってきたフローラに向かって驚いたように振り向くと、フローラはヴァージンにうなずいた。それから一言、ヴァージンにこう告げたのだった。
「ヴァージンがそこまではしゃいでるってことは、きっと記録でしょ。目指していた13分50秒を破ったとか」
「お姉ちゃん、よく分かる……。今日、13分49秒37出した。トレーニングだから公式の記録じゃないけど」
「もう何年ヴァージンのこと見てると思う?それ以外でヴァージンが嬉しくなったこと、ほとんどない」
「たしかに……」
フローラに向かって軽く首を横に振りながら、ヴァージンはかすかに笑った。それからゆっくりと首を元に戻すと、今度はフローラの目を見つめながら尋ねた。
「ところで、お姉ちゃんもどういう嬉しいことがあったの?」
「そうね……。この歳になって、初めて彼氏ができたの。脳神経外科の担当医が、私を見て一目ぼれした」
「そうなんだ……。お姉ちゃん、人のことを大事に思っていそうなのに……。もっと早く結婚していいくらい」
ヴァージンがそっと言葉を返すと、フローラはかすかに笑った。38歳になるまで、一度も恋愛の話を聞かなかったというだけあって、ヴァージンは意外そうな目でフローラを見つめるしかなかった。
「きっと、アメジスタではそんなこと考える余裕もなかったのかな……、って。ヤグ熱の時は大変だったけど、その前から病院で診なきゃいけない患者さんは多かったし、休憩時間に病院の屋上でプロポーズするような余裕もなかった。その点、オメガの病院は私たちの負担もちゃんと考えていて、あまり長い時間の残業をしないような雰囲気になってる」
「たしかに、お姉ちゃんの言う通り……。アメジスタは、突然子供ができていて、お父さんが誰か分からなくなることも結構あるから……、デートの文化って根付いてないのかも知れない」
ヴァージンの脳裏には、オメガに移る前、グリンシュタインの乱立した建物のはざまで暮らす人々の姿を思い浮かべていた。通りからは見ることもできないような場所で、隠れて女性を襲っては、望んでもいない子供を女性の体に作ってしまうシーンを、彼女は何度か見たことがあるのだった。
(今、アメジスタはそういった人々にも現代的な高層マンションを作っているはずだから……、もしかしたらこのような状況も変わってくるのかも知れない……)
ヴァージンがそう心の中で言い聞かせたとき、フローラが小さくため息をつくのが分かった。
「そう考えると、ヴァージンの最初の彼……、アルデモードだっけ、アメジスタで出会った彼というだけでも、アメジスタ人としてもの凄く幸せなのかも知れない」
「そうかな……。あの人は……、私をアスリートにするための後押しをしてくれた人で……、アメジスタにいた頃よりもオメガに移ってからのほうが世話になったと思う……」
「でも、お互いアメジスタ人で、デートの文化も根付いていないのに、最後は大聖堂で素敵な結婚式を挙げたんでしょ。それだけでも、私は羨ましいと思うけどな」
フローラは、笑いながらヴァージンに返した。それから、ようやくバッグを持ってフローラの部屋に向かった。
ヴァージンは、フローラの後ろ姿を目で追うだけだった。
(そう言えば、私はもう3年くらい一人だ……。そろそろ、また結婚生活に戻りたいような気がする……)
お互いが考えもしなかった別れ方でバツイチになったヴァージンは、フローラに聞こえないようにため息をついた。そして、話題を切り替えようとテレビをつけた。
ヴァージンがよく見るからか、この日もテレビをつけた瞬間に画面に出てきたのはスポーツニュースだった。ところが、画面の右側にヴァージンの顔が映っているのを見て、思わず画面に食い入るように見た。
――今日、アフラリでは陸上のスタイン選手権が行われましたが、セルティブのウィンスターが女子5000m2戦目にして、早くも13分52秒08と、世界記録にあと2秒と迫るタイムを叩き出しました。5000m初優勝を狙った、地元アフラリのロイヤルホーンは、自己ベストとなる13分55秒台を叩き出しましたが及びませんでした。
(ウィンスターさん……、早速5000mで自己ベスト。この前、私と走ったときには最後失速していたのに……、今のレースを見る限り、最後までラップ62秒ぐらいで走っていた……)
ロイヤルホーンをあっさりと抜き去るウィンスターの姿に、ヴァージンは一度どころか、二度息を飲み込んだ。それがウィンスターの本気であることをはっきりと感じるしかなかった。
(これで、自己ベストが私、プロメイヤさんに続いて3位……。50秒台で走り切るライバルが増えてきたどころか、どんどん私の世界記録に迫られているような気がする……)
ヴァージンが現実を思い知った瞬間、これまでテレビの画面の右側で固まっていたヴァージンやプロメイヤの顔が大きくなり、ウィンスターやロイヤルホーンの横に並んだ。そして、キャスターがこう続けたのだった。
――ほぼ毎年のように現れる、女子5000mの注目選手。6人が自己ベスト13分50秒台で、ランニングフォームを見る限り、誰が最初に13分50秒の壁を切るか読めなくなってきました。こちら、アメジスタのグランフィールドがその壁に最も近いところにいますが、彼女の世界記録を更新するタイムは年々短くなってきており、逆に未知の実力を持っていそうなウィンスターがあっさりと抜き去る可能性もあります。
「そんなのは、絶対嫌……」
ヴァージンは、テレビに向かって思わず言葉を漏らした。すると、その声を聞いたフローラが、隣の部屋からリビングを覗き込んだ。そして、ヴァージンと目を合わせるなり、再び部屋の中に顔を戻した。
(それに、私は今日、49秒37を出した。長距離走の女王は……、まだ私なんだから!)
ヴァージンの指は、いよいよテレビのリモコンのチャンネルボタンにかかった。すると、テレビから流れる声が、さらにこう告げたのだった。
――13分50秒の壁。これを破った選手は、新しい時代の神になれると思います。これだけ50秒台の選手がいる中で、一人だけ50秒の壁を突き破れたのですから、神に値するでしょう。そして個人的には、もしこの壁さえもグランフィールド選手が破るのだとすれば、彼女はもう「女王」という言葉すら似合わない存在になるでしょう。
(神……、かぁ……)
ヴァージンの耳に新たな称号が響いたとき、彼女は静かにため息をついた。スポーツニュースのキャスターの個人的な意見とは言え、この言葉が広まることによって、スタジアムに向かうたびに神呼ばわりされるかも知れないのだった。
(神と呼ばれるような存在は……、男子100mのナイトライダーさんとか……)
現役のアスリートで「神」の称号を手に入れた人物としてヴァージンが真っ先に思いついたのが、ヴェイヨン・ナイトライダーだった。二度レースを見に行ったイリスにとっての宿敵と言える存在で、男子100mでは9秒52の世界記録を誇る存在だ。これまで出場したほぼ全てのレースで勝利を重ねるなど、圧倒的と言える存在で、彼に対しては2年ほど前から「神」の称号が一般的になっているのだった。
(来週のリングフォレスト、オメガ国内でのレースだから……、もしかしたらイリスさんと一緒に走るかも知れない……)
ヴァージンは、テレビをつけっぱなしにして、メールを開いた。トレーニング中の自己ベストを更新したことで、逆に彼女はメールを見ることを忘れてしまっていた。「ウィンスターに勝てるさ!」などと励ますような件名が並んでいる中で、ヴァージンは差出人に「イリス」の名前を見つけた。そして、そこには案の定と思える件名が書いてあった。
――いよいよナイトライダーさんと直接対決です
(いよいよ、その時が来たか……)
ヴァージンは、かすかにうなずきながら、イリスの決意が短くまとめられたメールを読んだ。そこに、「決勝は私のレースの後なので、私も見に行きます」と返信した。
(イリスさんがナイトライダーさんに勝てたら……、私、どれだけ喜ぼう……。神を打ち破ったイリスさん……、考えるだけでもものすごくカッコよく思えてくる……)
ヴァージンは、タイム次第で自らが「神」と呼ばれる可能性があることすらも置き去りにして、今はただ一人「神」と呼ばれる存在が破られることばかりを気にしていた。