第73話 神と挑戦者(1)
5月にエントリーしていたリングフォレストでの出場種目を変更するようメドゥに告げられた数日後、ヴァージンはマゼラウスとのトレーニングに臨んだ。すると、トレーニングセンターの入口で待っていたマゼラウスが、ヴァージンを呼び止め、顎に手を当てながら彼女に尋ねた。
「この前メドゥから連絡があったと思うが、リングフォレストを5000mに変更というのは大丈夫か」
「大丈夫です……。少しでも足に違和感があれば、レース自体をセーブしないといけないと、前々から言われてましたし……」
ヴァージンが何事もなかったかのようにマゼラウスに告げると、マゼラウスが逆に心配そうな表情を浮かべた。
「あれは、私がメドゥに軽く提案したもので、その後メドゥが本気でお前に言い渡すなんて思わなかった……。メドゥは、お前の左膝のこと、相当心配しているようだ。私はどちらかと言うと、そこまで心配はしてない」
「そうですか……」
ヴァージンが軽くうなずくと、マゼラウスが話を切り出すように彼女に告げる。
「正直に考えを聞かせて欲しい。5000mで13分50秒を切る夢、それと3年ぶりに10000mの世界記録を更新する夢……。お前はどちらの夢を追い求めたいか」
「コーチ。おそらく今は、その選択肢を天秤にかけることも難しいかも知れません……。50秒切り一択です」
「レースの予定を告げられて、気持ちが5000mに向かっているわけじゃないだろうな」
「それは違います。あと0コンマ01……、ここまで来たら自分の脚で叩き出したいです。壁を打ち破れるところまで、私は戻ってきたのですから……」
「なるほど。10000mをやる気はないんだな」
「いえ。10000mはもう2年くらい走っていませんが、5000mの世界記録を破り続けているのですから、10000mの世界記録だって、感覚さえ取り戻せればまた破れると思っています……。何と言っても、世界記録に立ち向かってきた私が、大きな壁を前に逃げ出すなんてありえないと思っています」
ヴァージンは、そうマゼラウスに告げると大きくうなずいた。するとマゼラウスも静かに首を縦に振った。
「左膝も完全に治っていないお前に、その意思があるのなら……、私だって見てみたい。女子5000mで、お前が初めての13分50秒の壁を破って、未知の世界の扉を開けるのを……」
「必ず、その扉を開いてみせます」
ヴァージンの力強い言葉に、マゼラウスの表情もいつの間にか和らいでいた。その日は大会から間もないこともあり、5000mのタイムトライアルこそ行わなかったが、ゆったり走るはずのトレーニングで普段のラップ68秒をつい出してしまうほど、ヴァージンの体に宿った意思は強かった。
そして、その強い意思はリングフォレスト選手権の1週間前にはっきりとした形で現れるのだった。
「今日が、私の前ではリングフォレスト前最後のタイムトライアルだ。そこで50秒を切れるように、お前の出せる限りの力を見せて欲しい。ただ、足に負担は掛けるなよ」
「分かりました」
その日のトレーニングの終盤、あとは5000mのタイムトライアルというところで、マゼラウスがヴァージンにいつになく優しい口調で告げる。彼女は、小さくうなずくと同時に、走り慣れたトレーニングセンターのトラックを見つめる。トラックの踏み心地は普段と何一つ変わっていないものの、この日はトラックの表面からもヴァージンに記録を出してほしいと言わんばかりに、かすかな熱をあふれ出していた。
(膝も全く気にならないし、ケガをする前の状態に戻っているような気がする……。今日こそ、トレーニングで最高のタイムを出せるかも知れない……)
「On Your Marks……」
ヴァージンの耳に、マゼラウスの低い声が響く。彼女が小さくうなずいた瞬間、マゼラウスが声で号砲を告げ、それに押されるようにして彼女は走り出した。
(ラップ68秒……、時々ラップ67.8秒くらいに上げて、ラスト1000mの勝負につなげる……。これがうまく行けば、きっと……、きっと50秒を切ることができるはず……!)
最初のコーナーでラップ68秒に上げた後は、決してそれ以上ペースを上げることなく、これまでヴァージン自身が慣れ親しんだ走りを見せる。中距離走のペースでレースを引っ張っていくライバルが増えているが、トレーニングだからこそ、そういったライバルのことを気にする必要はない。気が付くと彼女は、ペースだけを意識しながら、無我夢中に走っていた。
(ラップ68秒で走り続けても、膝が全く重くならない……。ケガをする前に戻っている……)
膝が痛くなるようなことは少なくなっても、ケガをする前のように4000mまで全く膝を意識することなく走れることはそれほど多くなかった。だが、この日のヴァージンは、それが過去の出来事であるかのように、快調にトラックを駆け抜けていく。2000mで5分40秒よりやや早いペースで駆け抜けた時には、早くも彼女の中ではベストタイムが出せそうという予感が漂い始めていた。
400mごとにその姿を見せるマゼラウスでさえ、普段であれば「その調子!」としか声を掛けないところ、この日は「50秒切り出せるぞ!」と普段以上に大きな声援を送っていた。公式の記録にはならないものの、世界最速の女子アスリート、ヴァージンがまた新たな記録を叩き出す空気は整いつつあった。
(4000mを11分18秒とか、19秒とかで通過できれば……、50秒は切れるはず……)
ヴァージンは、11分18秒台後半で4000mのラインを蹴り上げたように思えた。だが、これまで高い声でヴァージンに告げていたマゼラウスが、この時だけやや低い声になって「19秒!」と叫んだのだ。
(19秒いってるか……。ペースを上げるしかない!)
ヴァージンは、「フィールドファルコン」の底をトラックに力強く叩きつけ、ラップ65秒までペースを上げた。ここでも膝は少しも重くならないどころか、トラックの上を軽々と「飛んで」いるかのような感触さえ覚えた。
(あと2周で、いつも通りの走りができれば、過去最高の記録を出せるはず……!)
4200mを過ぎる直前にラップ62秒ペースまで上げたヴァージンは、早くもトップスピードの時の歩幅を体の中に思い浮かべていた。残された時間を考えれば、ラップ55秒を落とさずに走り切れば13分50秒の壁を破ることができるはずだ。
「53……、54……、55……!」
マゼラウスの力強い声がヴァージンの耳に響く。12分54秒を告げた直後に4600mを駆け抜けると、ヴァージンはわずか数歩でラップ55秒のペースまで駆け上がっていった。レースを含めても、ここまで短い時間でのトップスピードはほとんどなかった。
(スピードを感じる……。そして、今まで出せなかったタイムを……、全身で狙っているような気がする……!)
ヴァージンの力強い脚と、「フィールドファルコン」の勇猛な「翼」が、未知の記録との勝負に挑み始めた。最後のコーナーを、全くペースを落とすことなく回りきり、最後の直線に入ると体を前に傾けながら目指すべき場所へと飛び込んでいった。
次の瞬間、ヴァージンの耳にマゼラウスの叫ぶような声が届いた。決して悲鳴ではなく、力強さがより増しているようなその叫びで、ヴァージンは全てを悟った。
「13分49秒37!いった、いったぞ……!」
「49秒37……。もっとギリギリで50秒を破ったと思っていました……!」
呼吸を整えながらマゼラウスの前に向かうヴァージンは、思わず早口で言った。そして、まだ呼吸が整わないうちから声で笑っていた。走り終えても、彼女の膝が重くなり出すようなことはなかった。
ヴァージンがマゼラウスの前に立つと、マゼラウスがヴァージンの肩を強く叩き、その後彼女の背中を二回、三回と叩く。マゼラウスの表情も、これまで見たことがないほど喜んでいた。
「トレーニングで49秒37はすごい……!ホントすごいタイムとしか言いようがない……。本番で、ライバルを追い抜かなければならないことを考えても、本番での50秒切りは間違いない……!」
「コーチ……。私だってそう思います……。走っているときに、いつになくケガをする前の感覚を思い出しましたけど……、思っていた以上のタイムだったと思います」
ヴァージンは、自らの足に宿ったパワーを感じながら、何度もうなずいた。出せる限りの力で走り抜けたトラックでさえ、ヴァージンの過去最高のタイムを喜んでいるようにさえ思えた。
「これで、リングフォレストでの記録更新は間違いなさそうだな」
「勿論です。私は……、今だったら絶対いける、と思っています!」
ヴァージンはそう言いながら、左足で強くトラックを踏んだ。急にペースを変えた後に発症することの多いジャンパー膝も、この時だけは全く気にならなかった。
(もう33歳だけど……、私は今までと同じくらいのペースで記録が出せそうな気がする……)
世界記録を誰よりも知る女王は、心の中で雄叫びを上げた。