第8話 思いがけない再会(5)
あと一歩……。あと一歩が足りない。
メドゥやバルーナから離されること、わずか30m。3位に滑り込んだチュータニアのモニカ・ウォーレットから離されること、わずか30cm。たったそれだけの差でも、上ることができなかった表彰台を、ヴァージンは見つめ、すぐに首を横に振った。
だが、ゆっくりとトラックからメインスタンドに体を向けたヴァージンのもとに駆け寄ったマゼラウスの表情は、信じられないほど明るかった。
「よくやったじゃないか!」
「えっ……。4位なのに……」
汗だくになったショートトップを右手で軽くつまんで、ヴァージンはマゼラウスを見る。それでも、彼の表情は変わらない。一瞬、気を緩めてしまったことを言われるはずが、全く予想外の展開になっていた。
「何言ってるんだ!パーソナルベストじゃないか!」
「パーソナルベスト……!うそ……!」
ヴァージンは記録を聞かずにトラックの外に出てしまっていた。その記録こそ、14分38秒49という、公式の大会では一度も出すことのできなかったタイムだった。
グラティシモ相手に非公式で行われたタイムには及ばないが、大会での自己ベストを3秒以上更新したヴァージンの額に、思わず嬉し涙が流れた。
「38秒……。そこまで悔やむほどのタイムじゃ……、なかった!」
「だろ。もっと自信持っていいんだからな」
「はいっ!」
西に傾き始めた陽の光に眩しく照らされたヴァージンの顔は、はっきりとうなずいた。そして、思わず両腕を広げて、マゼラウスに一歩、また一歩と近づいた。
そして、マゼラウスの腕もヴァージンをギュッと抱きしめた。大会で走り終えたヴァージンが、マゼラウスに抱きしめられたのは、1年以上続くアカデミーでの生活で、初めてのことだった。
モヤモヤしていた気持ちが吹き飛んだように、ヴァージンはロッカールームに向かう。メドゥやバルーナは表彰や記者たちの取材に答えているのか、まだ戻ってきてはいない。5000mを走り終えたと思われるライバルたちが何人か点々といるだけの、寂しいロッカールームだった。
(そう言えば……)
その中に、シェターラの姿はなかった。最後の1周、3位に滑り込んだウォーレットを懸命に追いかけながら走っていてあまりよく見えなかったが、この時点でシェターラはトラックの外に出ていたはずだった。ここにいないとなると、彼女の向かった先は……。
ヴァージンは自己記録を更新した喜びから突然現実に戻されたかのように、いそいそとショートトップを脱ぎ、黒いジャケットに着替えた。その時には、もう不安しか残っていなかった。
そして、ロッカールームを出た。
「あ、いたいた!」
(……えっ!)
ヴァージンは、ロッカールームの入口で立ち止まり、その聞き慣れた声のする方に思わず振り向いた。ここは出場選手しか立ち入れないはずの場所のはずだが、その声はヴァージンの耳にはっきりと響き渡る。すると、出口の先で茶髪を揺らしながら、一人の青年が立っていた。目と目が合った瞬間、ヴァージンにはその青年がアルデモードだと分かった。
ヴァージンは勢いよくアルデモードの方に走り出し、彼の目の前に立つと大きく口を開いた。
「アルデモードさん……!」
「残念だったね。あと少しで表彰台だったのに」
「ひょっとして、見てくれてたんですか……!」
「勿論さ!今日はたまたま休めたんで、何とかヴァージンの活躍を見に来ようと思ったんだよ」
「それは嬉しいです!」
とは言え、アルデモードがサウザンドシティのスタジアムに足を運ぶことは、既にハガキで伝えられており、アルデモードの言葉を聞く限り、どこかおかしいことにヴァージンはすぐに気が付いた。
そして、その違和感はすぐに膨らみ始めた。
「ヴァージン。それはそうと、嫌な予感がするんだ……」
「嫌な予感……。もしかして、スポンサー契約のことですか?」
「そう……。実は……」
アルデモードはそこまで言うと、ヴァージンの耳元に口を近づけて、周囲の誰にも聞こえないようにそっとヴァージンに伝えた。
「私を、嫌ってる人がいる……?」
「そう。少なくとも、何人かはいるんだけど、特にまずいのが専務のヒューレットだ」
「ヒューレット……さん?その人が、私のスポンサーになることを反対してるんですか?」
「そうとは言えないんだけど……。絶対今日、こっちに来るはずなんだ」
そう言って、アルデモードは左右に目線を動かした。だが、彼の目が細くなるようなことはなかった。そして、ヴァージンのほうに向き直ると、アルデモードは再び口を開いた。
「ここだけの話にして欲しいんだけど、ヒューレットは、僕が書いた手紙を全部修正液で消したんだ……」
「本当に……?」
ヴァージンは、ハガキの文面があまりにも汚いことを、今更になって思い出し、思わず身を引いた。
「仕事の帰りに出そうと思って、カバンの中に目立たないように入れてたんだ。でも、最後に書いてあったヴァージンの文字がヒューレットの目に留まって……、取り上げられたんだよ」
「じゃ……、じゃあ……、本当はどういうことが書いてあったの?」
ヴァージンは声が裏返り、さらに一歩引き下がった。恐れすらも含まれた目でアルデモードの表情を見ると、彼の瞳に涙を溜めているのがはっきりと分かった。
「君への支援は……、できないって……」
(できない……)
ヴァージンの足は、外周道路一面に広がるアスファルトを感じなくなるほど震えていた。年4000リアのスポンサー料が、真っ白になったヴァージンの頭の中で次々と舞い上がっていた。
(そんな……!うまく行ってるって……!)
「……っ、……っ!」
「どうしたんだよ、ヴァージン。僕の方が後悔したいぐらいだよ……!」
「そうだけど……、やっぱり……私じゃ無理なのかなって……」
ヴァージンの瞳から、大粒の涙が一滴だけ流れ、アルファルトの上に力なく落ちていった。
「そんなことないって……。あのね……、ちょっと……」
「どうして……」
理由を言おうとしたアルデモードの口は震え、何故オメガ・アイロンがヴァージンへの支援を土壇場で断ったのかについて、何も語れなかった。ただ、ヴァージンの涙を精一杯の心で受け止めることしかできなかった。
しかし、ヴァージンとアルデモードは、すぐに空気の変化を感じた。異様な緊張感が、二人の方に近づいてくるのがはっきりと分かる。ヴァージンは泣き止み、すぐさまその緊張感の漂う空間にその目を細めた。
「お前が、ヴァージン・グランフィールドか?」
「……はい」
ヴァージンが重く返事をするその先に立っていたのは、陸上競技の場にふさわしくない、黒のスーツに包まれた、白髪の男性だった。見た目の年齢は50歳以上で、ヴァージンにはこの男性の名前がすぐに思い浮かんだ。
「私は、こいつの勤めるオメガ・アイロンの専務取締役、ヒューレット。今日は、お前だけに話があって、ここに来たんだが……」
ヒューレットは、そう告げながらもゆっくりとヴァージンの方に近づいていく。彼もまた何かスポーツに取り組んでいたようで、体格がいかつい。
やがて、ヒューレットはヴァージンの手が届くところで立ち止まり、長身の体でヴァージンを見下ろした。
(怖い……)
ヴァージンは、反射的に足を引いた。その瞬間、ヒューレットの鋭い右腕がヴァージンに伸び、黒のジャケットをえぐるように掴んだ。
「……っ!」
胸倉を掴まれたヴァージンは全身を震わせたが、腕の力が強いヒューレットにはかなわない。そのままヒューレットの体すれすれまで引き寄せられてしまった。
「お前への支援がなくなって、悔しいか?」
「離して……!」
「離してじゃない!こいつが、お前への支援を発表してから、メールが何十件も届いてるんだ……!」
ヒューレットの腕の力は、ますます強くなっていく。その横で、左手の拳が握られており、このまま殴るようにヴァージンには映った。
ヴァージンは、苦し紛れに目を閉じた。見ることのできない恐ろしい口は、すぐにこう続けた。
「メールの内容か?……世界一貧しいアメジスタ人のスポンサーになるのか、とな!」
「ふざけないでよ!」
ヴァージンは再び目を開き、ヒューレットの目をまじまじと見つめた。
「私は……、アメジスタで生まれて……、アメジスタで強くなって……、貧しいこの国を背負っ……」
「黙れ!この野蛮なアメジスタ人め……!」
「……っ!」
ヒューレットは左手をゆっくりと持ち上げ、ヴァージンの右頬をおもむろに殴った。左手とは言え、その力はあまりにも強く、ヴァージンは激しい耳鳴りと共に、殴られた頬を右手で押さえた。
だが、次の瞬間、ヴァージンの目にもう一つ、力強い腕が飛び込んできた。
「手を出すなっ!」
その腕は、ヴァージンにはあまりにも熱く見えた。もう一度殴ろうとしていたヒューレットの左手を止め、続けてヴァージンの胸倉を掴んでいた右腕を振りほどいた。
(コーチ……!)
ようやく自由になったヴァージンは、すぐにその腕の先にあるマゼラウスの顔を見て、はっきりとうなずいた。彼の目はヴァージンからもはっきりと分かるように血走っていた。
「夢に向かって挑み続けるアスリートに手を出すなど、許さないっ!」
「何だお前っ!」
ヒューレットの目は、マゼラウスを睨みつけた。ヒューレットの唸るような声がその場に響き渡り、一度緩んだ緊張感を再び高めていた。
「私は、ベルク・マゼラウス。ヴァージンの育て親だ!」