第72話 世界記録の重み(6)
ラガシャ選手権の女子5000mも、3000mを過ぎた。ラップ68秒を守ったまま、前を行くウィンスターを追い抜くタイミングを見計らうヴァージン。2100m付近で先頭に立ったウィンスターとの差は、この時点で20mほどに広がっていた。長身の体を支えるウィンスターの長い足が、ヴァージンよりもやや広いストライドでトラックを駆け続ける。このままウィンスターがラップ66.5秒のペースで走り続ければ、4000mで40m前後の差になることは、ヴァージンの目にも分かっていた。
(足が長い分だけ、後ろから見えると走りに余裕が見える……。このままペースが落ちなかったら、少し早めに勝負を仕掛けたほうがいいかも……)
3400mを過ぎ、3800mを過ぎた頃、二人の差は35mほどにまで広がっていた。ラインを駆け抜けるのも、ウィンスターのほうが5~6秒は早くなっている。ラップを重ねるたびに、ヴァージンの様子見ムードはしぼみ、3800m過ぎのコーナーで彼女はその足をトラックに力強く叩きつけた。
(行くしかない……!)
ヴァージンは、背の高いウィンスターを睨むように見つめ、一気にラップ65秒のペースまで駆け上がる。久しぶりに現れた「新たな強敵」に立ち向かうべく、「フィールドファルコン」の力強い「翼」が飛ぶようにトラックで羽ばたく。
その気配を感じたウィンスターが、4000mの手前で後ろを振り返り、明らかにペースアップしたヴァージンとの距離を確かめる。それから、ウィンスターもヴァージンに合わせるようにラップ65秒までペースアップした。
(ウィンスターさんも……、中距離フォームからスパートを見せてきた……!)
ウィンスターの4000m通過タイムが、ヴァージンの感覚で11分13秒ほど。ヴァージンのようなスパートを見せなくても、ラップ60秒まで上げられれば、ヴァージンの世界記録を上回ってしまうほどだった。
(ウィンスターさんに……、世界記録を譲るわけにはいかない……。ウィンスターさんが、1500mでどれほどの素晴らしい記録を持っていようが……、長距離のレースでは、女王は私なんだから!)
4200mの手前で、ヴァージンはさらにペースを上げ、ラップ62秒ほどでウィンスターへと迫る。ヴァージンの息遣いが大きく聞こえるようになったからか、ウィンスターが二回、三回と後ろを振り向いて、その度に大きく腕を振る。だが、ヴァージンの目には、ウィンスターの後ろ姿から余裕が消えているように見えた。
(きっと……、ここからペースを上げていかない……。これなら、最終ラップに入ってすぐに抜けるはず!)
何度か後ろを振り返るウィンスターの息は、ヴァージンを追い抜いた時点とは全く変わり、完全に上がっていた。ラップ64秒ほどまで上げたはずのペースは、ラスト1周の鐘が鳴り響く時には少しずつ沈み始めていた。
それをはっきりと見た瞬間、ヴァージンは右足を一気に踏み込んで、スピードを上げていく。これまで、強敵を相手に何度も見せつけてきたラップ55秒のトップスピードで、ヴァージンがウィンスターを捕らえる。
(今の私は……、もっと大きな勝負をしなきゃいけない……!)
ヴァージンは、残されたわずか300mほどの空間を、大きな目標に向かって一気に突き進む。全くペースを緩めることなく、次々とトラックを蹴り上げていく。「フィールドファルコン」の圧倒的な戦闘力とともに、ヴァージンは絶対に打ち破りたい記録に立ち向かった。
(13分50秒を……、切ってみせる……!)
ヴァージンは、はっきりと手ごたえ感じながら、運命のゴールへと飛び込んでいった。
13分50秒01 WR
「5……」
ヴァージンは、勢いよく記録計に振り向き、そこに刻まれた数字を鋭く見つめた。そして、呆然となった。普段であれば、「WR」の文字まではっきりと確かめるはずが、この日は違った。手ごたえとしては、「50秒の壁」を破れたと感じていただけに、告げられた真実を「最速女王」は信じることができなかった。
すると、ヴァージンの目の前から光が遮られ、疲れ切った表情のウィンスターがヴァージンの前に現れた。
「グランフィールド、おめでとう。また世界記録を出すなんて……、ますます尊敬するわ」
「ありがとうございます」
ヴァージンは、我に返ってウィンスターに挨拶を交わした。大記録を達成することはできなかったとしても、42回目の世界記録を手にしたことを、ヴァージンはウィンスターの一言で確信したのだった。
「今日は……、完全に私の負けだった……。1500mから5時間ぐらいで5000mに出たら、最後無理がたたったわ」
「そうですか……。もし、1500mがなかったら……、ウィンスターさんは勝てそうでしたか」
ヴァージンが、軽く笑うようにそう返すと、ウィンスターは首を横に振った。
「それは、おそらく違う。あのペースで走り切ったとしても、13分53秒か、よくて52秒台がやっと。女王のあなたには全く及ばないし……、あのスパートを見せつけられたら、私も少し怯えてしまう……。そういう意味も込めて、私はあなたを尊敬しているのよ」
「なるほど……。でも、ウィンスターさん。5000mで最初からあのタイムを出せる時点で、私は……、ウィンスターさんを強敵だと思います……。ウィンスターさんが私を女王だと尊敬するように、私だってウィンスターさんを、今までで最も強いライバルだと思います」
「ありがとう」
ウィンスターは、はっきりとうなずいてヴァージンに微笑んだ。この日は13分57秒23のタイムに沈んだウィンスターが、今すぐにでもヴァージンと肩を並べる存在になりたいと、叫んでいるかのように―――。
その後、トラックの中にマイクスタンドが置かれ、ヴァージンはメディアのインタビューに応じた。ヴァージンがマイクスタンドの前に立つと、すぐにインタビュワーが話し始めた。
「グランフィールド選手、復帰後初めてとなる世界記録達成、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「グランフィールド選手と言えば、走るたびに次の世界記録へのビクトリーロードを自ら作り上げていく。スタジアムの観客や、メディアで観戦する全ての人にそう思わせるだけあって、ケガの一報が入ったときには、私たちも震えあがりました。世界が驚き、そして心配の声が上がる中で、グランフィールド選手はそのケガを乗り越え、もう一度世界記録を出そうと思っていましたか」
「勿論です。私のいない世界競技会を見てそう思いましたし、さらには入院していた時から、復帰して世界記録を狙いたいと思っていました」
ヴァージンは、マイクの前ではっきりとうなずいた。オメガ国立医療センターでほとんど身動きできなかったこと、トレーニングセンターでのトレーニングを止められたこと、普段と違って事あるたびにメドゥに体の状態を聞かれ続けたこと。そういった、ケガをして変わったことをヴァージンは一つずつ思い出そうとした。
「そのような中で、今日の記録は13分50秒01。もう、誰もが待っています。5が4に変わる瞬間を。それは、グランフィールド選手にとっていつになると思いますか」
「次のレースで……、必ず。私は、いつでもその壁を破れる準備ができています」
少しだけ笑みを浮かべながら、インタビュワーに応えるヴァージンに、集まった記者たちも驚きの声を上げるばかりだった。その不思議な空気に包まれながら、インタビュワーはヴァージンに最後の質問を投げかけた。
「さて、最後になりますが……、個人的に一度は聞きたかったんです。42回もレコードブレイクを成し遂げたグランフィールド選手にとって、世界記録とはどういう存在でしょうか」
(やっぱり、この質問が来た……)
この半年ほど、ヴァージンが何度か考え続けた世界記録の意味。これまで彼女は、身内以外にはっきりと口にすることはなかったが、再び世界記録を更新し続ける身に戻った今、どうしてもファンに伝えておきたかった。
ヴァージンは小さくうなずき、マイクに想いを乗せた。
「私にとって世界記録とは、次の世界を照らし出す光だと思うのです。世界で誰よりも速く走れる私に、次の向かう場所を教えてくれる存在で……、私はどんなレースでも、常にその光を追い続けているのです」
そう言い切った瞬間、記者たちからさらに大きな声が響いた。だが、その大きな声が、驚きからわずか数秒で悲鳴に近いものに変わっていくことに、当の本人がはっきりと気付いた。
(左膝が……、急に痛くなってきた……!)
マイクから口を離し、ヴァージンは再び痛み出した左膝を両手で押さえた。小さな声で「すいません」と告げ、ヴァージンは後ろを向いてしゃがむ。すぐに係員が駆けつけてきたが、インタビューを映していたカメラクルーの数人までもが、彼女のもとに近づいてくるのだった。
(もしかすると……、ここまでニュースに出てしまうかも知れない……)
ヴァージンの抱いた嫌な予感は、ものの見事に的中してしまった。オメガに戻ってきたその夜、ヴァージンのもとにメドゥから電話がかかってきたが、世界記録を達成した直後にもかかわらず、メドゥの声は低かった。
「あと一歩で、13分50秒を切れるところまで来たのだから、できればヴァージンには達成して欲しい。でも、インタビューで痛み出すのなら、まだ無理はできないのかも知れない」
「大丈夫ですよ、メドゥさん。あの痛みも5分くらいで治まりましたし。予定通り、次は10000mの記録更新に入りたいです」
「ヴァージン、いい……?」
メドゥのさらに低くなった声に、ヴァージンは「はい」と返すしかなくなった。
「まだ、ヴァージンには10000mに挑むのは無理があると思う。できれば、5000mの大記録を打ち立ててから、10000mに戻ったほうがいいような気がする……。私だけじゃなくて、マゼラウスも同じ意見よ」
「……ですね」
メドゥの鋭い言葉が、ヴァージンの左膝に痛みとは異なる刺激を感じさせた。まだ完治したわけではない体が実際に映像に乗ってしまった以上、ヴァージンにはどうすることもできなかった。10000mでエントリーしていた5月のリングフォレストのレースを、5000mに種目変更して出場する選択肢がせいぜいだった。
電話を切った後、ヴァージンは床に目をやり、そっとため息をついた。
(もしかしたら、私に残された時間はそう長くないのかも知れない……)
それは、また一人強敵が増えたライバルと、いつまでも挑み続けたい世界記録と、時折痛みが襲う左膝の三つと戦い続けなければならないことを、ヴァージンが初めて悟った瞬間だった。
クイーンアスリート、ヴァージン・グランフィールドの「終わり」を告げる時計の針は、回り始めていた。