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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
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第72話 世界記録の重み(5)

 セルティブ王国、ラガシャのスタジアムに3年ぶりに足を踏み入れたヴァージンは、入口で大きく息を吸い込んだ。メディアの数は少なく、ヴァージンを追いかけるカメラクルーも少ない。

(おそらく、時間的に1500mのレースが終わったばかりで……、ウィンスターさんのレースを映しているのかな……。ウィンスターさん、セルティブの選手だし……)

 ヴァージンは、この日初めて対決することとなる「1500mの女王」の名を心の中に刻んだ。ウィンスターがこの日のレースに出場すると知ってから、ヴァージンは選手名鑑で軽く調べたが、前年の世界競技会までに1500mの世界記録を4回も更新しており、出場したほぼ全てのレースで負け知らずという結果だった。

(でも、私は5000mでアウトドア25回、インドア11回、10000mで5回の世界記録を手にしている……。相手は、わずか4回。それに、今まで私が勝ち続けてきた長距離で、負けるはずがない)

 ウィンスターの1500mでの連勝こそ、おそらくこの日も達成されただろうが、初めてとなる長距離での連勝記録を新人に破られるわけにはいかない。ヴァージンは、心の中でそう言い聞かせ、選手受付まで歩き続ける。

 だが、選手専用エリアまであと10mほどとなったとき、ヴァージンは自らの名を呼ぶ声に思わず足を止めた。

(聞いたことがない声だ……。しかも、選手専用エリアのほうから聞こえてくる……)

 ヴァージンが、その声がどこから伝わってきたのかを確かめようと、目を左右にやったとき、背が高く、黒髪を編み込んだ、肌の濃い女子選手がゆっくりと近づいてきた。それこそが、ヴァージンが選手名鑑で調べていた、特徴的な姿のアスリートだった。

 ヴァージンも、ウィンスターの近づいてくるほうに向かい、彼女の目の前で足を止めた。

「初めまして、イザベラ・ウィンスターさん」

「こちらこそ初めまして、ヴァージン・グランフィールド。子供の頃から、あなたの名前は知ってるわ」

「そうですか……。私も、ウィンスターさんのことを選手名鑑で見て、若さに驚きました。たしか、まだ23歳ですものね」

 そこまで口にして、ヴァージンはウィンスターの目を、見上げるようにして眺める。身長188cmはあるだろうか。ロイヤルホーンやメリナと比べても背が高く、細々とした体が圧倒的な背の高さでより引き締まって見える。

「その通り。たしか、グランフィールドが最初に世界記録を手にしたのは18歳よね」

「はい……。ウィンスターさんは、そこまで覚えているんですね」

「たまたま、テレビでレースを見ていて、18歳で世界記録を出せるんだって思ったわ。それ以来、誰よりも速くトラックを駆け抜けたいって強く思うようになって、今の私がいるのよ」

 ウィンスターはそう言うと、前髪を全て刈り上げ後ろで全て編み込んだツーブロックブレイズの髪をそっと撫でた。先程まで1500mのレースに出場していたとは思えないほど、彼女は余裕の表情をヴァージンに見せる。

「私だって、今までいろいろなライバルが現れて、その度に負けていられないって思っています。今日だって、1500mの世界記録を持ったウィンスターさんが出ると聞いて、やる気は十分です」

「私だって、2種目めの完全制覇を目指してやる気になってるわ。でも、グランフィールド。勝負の前に、これだけは伝えておくわ」

 そう言うと、ウィンスターがやや前かがみになって、ヴァージンに視線を合わせる。ライバルの顔が迫ってきたものの、ヴァージンは全く動かなかった。

「伝えておきたいことって、何ですか……」

 ヴァージンが、小さな声でそう聞き返すなり、ウィンスターはヴァージンに笑みを浮かべた。


「1500mの女王は私だけど、5000mの女王はグランフィールドだと思っている。あれだけのタイムを出し、あれだけの数の世界記録を叩き出すあなたは、誰もが憧れる存在なのだから。今日から同じトラックで戦うことになるけど、私は5000mでは、女王グランフィールドをリスペクトする。私が、女王を超える時までは……」


(珍しい初対面だ……)

 ウィンスターがゆっくりと歩き出した後も、ヴァージンは振り返りながら、ライバルの姿を目で追った。これまでメリナやプロメイヤと言った、初対面から敵対心を見せてきたライバルには強く印象付けられたが、逆にここまでヴァージンのことを徹底的に尊敬するライバルも珍しかった。

(ウィンスターさんの実力が全く分からないという不安はあるけれど、きょう一番のライバルにまで尊敬されると、少しだけ嬉しい……)

 ロッカールームで「フィールドファルコン」を取り出し、レーシングトップスに着替え、戦闘モードに切り替える時でさえ、ヴァージンはウィンスターの姿をしばらく忘れることができなかった。そして、その彼女と同じトラックに立って競い合う自らの姿を、何度も頭に思い浮かべた。

(私は、5000mで負けるわけにはいかない。最速女王は、私だから……)


 その後、サブトラックで最終調整に入ったヴァージンの前にウィンスターが現れることはなく、メインスタジアムの集合場所でようやく背の高いウィンスターが目に付くようになった。スタジアムの中で翻す横断幕も、ウィンスターの地元と言うこともあり、ヴァージンと同じくらい用意されている。

 スタートラインに移動するまでの間に、ヴァージンはウィンスターを何度か横目で見つめ、頭の中でレースを組み立てた。

(分かっているのは、ウィンスターさんが1500mを専門にしていること。前にも、メリアムさんが同じパターンだったけど、最初から前に出る代わりに、ある程度疲れるとペースが落ちてくる。ウィンスターさんが、今日のレースのために持久力をつけていれば話は別だけど、それでも強烈なラストスパートは考えにくいか……)

 ヴァージンは、普段通りラップ68秒を照準に合わせることにした。ウィンスターがどれほどのペースで踏み出すかを見るまでは動きようがなかった。ただ一つ、ヴァージンが思い浮かべなくても分かっていたことは、ウィンスターが中距離走のフォームで5000mを駆け抜けることだった。

 ヴァージンは、未知の存在との勝負を待ち続けた。そして、いよいよその時が来た。

「On Your Marks……」

(よし……)

 ヴァージンが、進むべきトラックを見つめながら軽く息をつく。それから1秒後、号砲が鳴り響いた。復帰後、時間を追うごとに感覚を取り戻してきたラップ68秒のペースまで、ヴァージンの足が一気に加速する。

(ウィンスターさんは、どう出てくる……)

 1500mから転向してきたメリアムと同じであれば、ウィンスターも序盤から一気に先頭に立ち、ヴァージンを引き離す。その展開を予想しながら、ヴァージンはコーナーを回る。だが、コーナーを曲がり終えても、前に出てくる様子はない。背後から照らされる光がかすかに遮られていることを考えれば、背の高いウィンスターがヴァージンのすぐ後ろについている可能性は高いが、まずはラップ68秒のヴァージンを様子見といったところか。

(意外と、1500mのようなペースでレースを引っ張ってはいかないか……。でも、これが様子見ではなく積極的に取っている作戦だとすれば……、ウィンスターさんはここに来るまでに、何度もペースを合わせているのかも)

 2周目に入って、バックストレッチで再び光が遮られた時、ヴァージンはウィンスターの作戦を確信した。そして、後ろを振り向かずに、ラップ68秒で走り続けることだけに神経を集中させる。やがて、ヴァージンについてきたライバルも3周、4周で脱落し、光を感じる限り、数m後ろにウィンスターがいるだけになった。

(ウィンスターさんも、初挑戦で勝ちたいはず……。私を尊敬していながら、それでも2種目制覇とか言っているのだから……。問題は、いつ私の前に姿を見せるか……)

 そして、ヴァージンが5分40秒を切るか切らないかのタイムで2000mを通過したその時、ヴァージンの背後から感じる風向きがはっきりと変わった。何度か、小さな空気のボールがヴァージンの背中を叩きつける。

(ウィンスターさんが……、動いた!)

 コーナーを曲がり切ったと同時に、ヴァージンの真横にウィンスターが並んだ。ウィンスターの体が、瞬間的にラップ65秒ほどのペースでヴァージンの真横を駆け抜け、あっさりと彼女の前に躍り出た。そして、そこから軽くペースを緩めるものの、ラップ66.5秒に落ち着いたままウィンスターがヴァージンを引き離す。

(ついに来たか……。残りが1500m2回になったくらいのところで……、ペースを上げるという計算だった)

 ウィンスターの息遣いは、ヴァージンが後ろから見るに中距離走と全く同じだった。これまで、カリナをはじめとした何人かのライバルが中距離走のフォームを身に付けているものの、元から中距離走で世界記録を出してきただけあって、ウィンスターのペースも、そしてフォームの力強さも全く異質だった。

(ウィンスターさんが、この後どう出るか……。それによって、私がいつからスパートをかけなきゃいけないかも変わってくる……)

 ヴァージンの世界記録の前に、新たな強敵がさらに一人増えたことを、彼女ははっきりと思い知った。

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