第72話 世界記録の重み(4)
「それにしても、アメジスタでトレーニングするアスリートなんて、私初めて見た……。お姉ちゃんも、見たことないでしょ」
マウンテンバイクの選手がアメジスタでトレーニングしようとしていることを聞いたその日、ヴァージンは姉フローラにもその話を投げかけた。フローラは、ヴァージンの質問に、少し考えるしぐさを見せ、静かに答えた。
「見たことない……。ヴァージンが昔から言ってるように、グリンシュタインにスポーツの施設が全くないし……、田舎のほうに行ったら行ったで、道路も開発されてないかも知れないのに……」
「そうだよね……。たしかに、イメージとしては荒れた地面でマウンテンバイクには適していそうだけど……」
そう言って、ヴァージンはため息をついた。
「きっと、その選手、一度はアメジスタに行ったんじゃないの。折り畳みの自転車を飛行機に乗せて」
「お姉ちゃんの言うように、それはあるかも知れない。それで、滞在中にいい場所を見つけた……」
「ありそうね。勉強のできないヴァージンの想像も、たまには当たってそう」
フローラが軽く笑うと、フローラのほうは解決したとばかりに他の話題に持っていこうとする。だが、ヴァージンは会話の切れ目でそっと席を立ち、この日はもうトレーニングをしないにもかかわらず、クローゼットを静かに開けた。
(私は……、やっぱりアメジスタのことを何も勉強せずに出てきてしまった……)
クローゼットの中には、エクスパフォーマから届くアメジスタカラーのレーシングトップスがいくつも掛けられていた。それが、世界一貧しいとされるアメジスタを背負って走り続けていることの、何よりの証だった。
(私は……、アメジスタを背負っている……。なのに、今ものすごく恥ずかしい……)
そう思った瞬間、彼女はクローゼットから目を背け、ゆっくりとパソコンへと向かった。それから「アメジスタ マウンテンバイク」という、あまりにも抽象的な言葉で検索を始めた。
(もしかして……)
検索結果の最も上に出てきたページには、「ホイールズの公式ブログ」とあった。ホイールズという名前を見た瞬間、ヴァージンはすぐに息を飲み込んで、出てきたページを恐る恐る下に動かしていった。
(ホイールズさん……、マウンテンバイクでもの凄く有名な選手……。世界中にファンを抱えていて、マウンテンバイクの大会でもほとんど負けないくらい強いアスリートって、聞いたことがある……)
ヘンリオール・ホイールズ。29歳になるその選手は、大会で優勝し続けているのもさることながら、世界中のあらゆる国をマウンテンバイクで駆け抜けることも、半ば趣味としているようだ。一番上には、ヴァージンもこの4月に向かうセルティブでのツーリングが書かれていたが、そのすぐ下に「アメジスタ」の文字を見つけ、ヴァージンはそこで後ろを振り向いた。
「お姉ちゃん、さっき言ってたマウンテンバイクの話、このブログみたい」
「ヴァージン、もう見つけたんだ……。アメジスタでトレーニングしてた人」
「まぁね。アメジスタのことを思い出したら、すぐに検索ワードが思い浮かんだの」
フローラに向かって、ヴァージンはなるべく笑顔を作った。数十秒後、フローラがパソコンの前にやって来るのを待って、ヴァージンは見ていたページをスクロールさせた。
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アメジスタの自然は 僕たちに希望の光を照らしてくれた
アメジスタ。オメガからはるか西にある、この国の名前を聞いたことはあるだろうか。
おそらく、陸上ファンの中には知っているという人も結構いるはずだ。女子長距離のワールドレコードファイター、ヴァージン・グランフィールドの生まれた国がそこだ。
彼女に勇気づけられたからだろうか、首都グリンシュタインでは今、世界の名だたるスタジアムにも匹敵する壮大な陸上競技場が建設されている。以前は、古い建物が所狭しに立ち並んでいるが、そこに暮らしていた人々が少しずつ高層マンションに入るようになるなど、街は一気に近代化の道を歩んでいるようだ。
そんな変わりゆく街中を走るのも楽しかったが、アメジスタはグリンシュタインから離れれば離れるほど、マウンテンバイクのトレーニングには最高だ。林業のために切り開いたと思われる山道を、マウンテンバイクで上り下りするとき、よその国では決して感じることのない心地よい風を受ける。何より、アメジスタの空気に人の手がほとんど入っておらず、人間が人間らしく、人間の本当の力を出せそうな予感さえ抱かせる。
アメジスタを背負って世界と戦い続けるヴァージン・グランフィールドが次々と世界記録を打ち立てるのも、幼い頃からこの空気の元で育ったからと思いたくなる。いや、彼女だけではない。アメジスタは、あらゆるトレーニングをするのに、最適な場所なのだ。
今度、コーチを連れて、4日間ぐらいアメジスタで合宿をしようと思っている。残念ながら宿泊施設はなく、その間キャンプ生活になりそうだが、そうしてまでもここでトレーニングする価値があると思う。
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「ホイールズが、アメジスタを褒めている……。たしかに、こっちより空気がきれいだとは思っていたけど……」
「お姉ちゃんと同じです……。映っているところは、トレイルランニングとは別の景色だけど……、ずっとオメガでの生活を送っていて、私が忘れかけたアメジスタの空気を……、思い出せてくれる……。それに……」
ヴァージンは、そう言いながらフローラと顔を見合わせた。フローラは、ヴァージンが何を言おうとしているのか、心ではっきりと分かっている様子だった。
「アメジスタは、アスリートの国になる……!もうその時は、近いかも知れない!」
「それ分かる……。それこそが、ヴァージンの夢じゃない……!」
「そう……!荒れ果てたスタジアムを見て、アメジスタに希望を届けたいと思って走り続けて……、やっと新しいスタジアムが作られるようになったのに、ホイールズさんがどんな協議でもアメジスタを勧めてくれて……、私の夢が実現に向けて一気に動き出したような感じ!」
ヴァージンは、パソコンに振り向き、もう一度ホイールズの残していった言葉をその目で追った。
(アメジスタは、あらゆるトレーニングをするのに、最適な場所……)
ヴァージンは一度うなずき、それからフローラに向き直った。それを待っていたように、フローラは微笑みながら、ヴァージンの肩にそっと手を乗せた。
「アメジスタからアスリートは出ない、って言われていた時代を終わらせたのは、他でもない、ヴァージンだと思う。ヴァージンがいなかったら、もしかしたらホイールズもここに来なかったかもしれない……。その意味で、ヴァージンがアメジスタのイメージを作ったのだから……」
「ホント、そう思う。お姉ちゃんの言う通り」
セルティブのラガシャに旅立つ2週間前には、ヴァージンはタイムトライアルで13分50秒台を2回出せるようになり、自らの世界記録――13分50秒10――と、誰も破ったことのない大台の壁に立ち向かうための準備は整いつつあった。
「まさか、ケガから1年も経たずにここまで戻ってくるとは思わなかった。前にも言ったと思うが、お前の生命力がとてつもないよ」
「ありがとうございます。私は……、世界記録と戦い続けなきゃいけないですから……、止まってられません」
「まぁな……。ただ、私も小耳に挟んだのだが、今度のレースでも新たな強敵が出てくる可能性があるということは、知っておかなきゃいけない」
「新たな強敵……。ロイヤルホーンさんのように、他の種目からやって来るとかですか」
ヴァージンがそう尋ねると、マゼラウスは小さくうなずいた。
「そう。お前も、一度は名前を聞いたことがあるだろう。セルティブのイザベラ・ウィンスター」
「……あります。女子1500mの世界記録を持っていたと思います」
ヴァージンは、その名前を聞いた瞬間、思わず体を震わせた。女子5000mのレースが始まるとき、誰もがヴァージンに注目するように、女子1500mが始まるときに注目されるのがウィンスターだと、ヴァージンがテレビでレースを見る時でさえはっきりと分かっていたからだ。
「そのウィンスターが、もう一つのメインを作りたいと言って、地元のレースで試しに走るそうだ。それも、1500mを走った後に……」
「たしか、ラガシャ選手権だと、同じ日だったはずです……。それだけでも大変に思えます……」
「ウィンスターは、それをやってしまうかもしれないアスリートなのかも知れない。だから、気を付けたほうがいい」
「分かりました」
5000mの女王、ヴァージンの落ち着いた声は、新たなライバルの登場を楽しんでいるようにさえ響いた。