第72話 世界記録の重み(3)
(次の目標は……、もう世界記録の更新しかない!)
復帰レースとなった室内選手権で、プロメイヤに辛勝したヴァージンは、翌日にはトレーニングセンターのトラックで自主的にタイムトライアルを始めていた。前日のレースを上回るスピードを体で感じてはいたものの、5000mを走り終えてストップウォッチを止めたとき、そこには前日のインドアよりも悪いタイムが刻まれていた。
(本番翌日……。なかなか……、うまくはいかないか……)
本番の翌日は軽めのトレーニングに徹するのが、長年のプロ生活で身に付けた習慣だが、この時のヴァージンは、次に切り替えたいという意思が行動にまで出ていた。それでも、体は正直だった。
ヴァージンは、ストップウォッチから目を反らし、ふとスタンドを見た。そこに、金髪が午後の日差しに照らされている、何度も見慣れた女性の姿があった。
(メドゥさんだ……。コーチがいないのに、メドゥさんだけここに来るのも珍しい……)
ヴァージンの足が、自然とメドゥに向かう。すると、ヴァージンが動き出すよりも早く、メドゥがスタンドから立ち上がり、柵から身を乗り出して大きく手を振るしぐさを見せる。だが、その表情は決して明るくなく、ヴァージンが近づくとそのまま「スタンドに来て欲しい」とばかりに手招いたのだ。
(メドゥさん……、たまたまここに来たわけじゃなさそう……)
ヴァージンは、脇にある階段を駆け上がり、スタンドに向かう。すると、メドゥは真っ先にヴァージンの左膝に目をやった。
「大丈夫、ヴァージン……。本番の次の日なのに、今日も全力で走って……」
「大丈夫ですよ、メドゥさん……。昨日も全く痛みが出てきていませんし……、たぶんメドゥさんが気にしなくても、私は全力で走れそうな気がします」
「ヴァージンは、特に心配してる様子、ないようね……」
そう言って、メドゥは腕を組み、再びヴァージンの左膝に軽く目をやった。それからメドゥは、ヴァージンの表情を見つめるようにして、そっと口を開いた。
「タグミ医師から、私とマゼラウスのところに手紙が来たのよ……。ヴァージンの回復が思わしくないって」
「この前の……、検査でですか……?」
ヴァージンが最後にオメガ国立医療センターに行ったのは、今から1ヵ月前。その時は特段何も言われなかっただけに、コーチと代理人にだけに「本人」の状態を告げることに違和感すら覚えた。
「そこまで悪くなってるわけじゃないんだけど……、トレーニングを再開してから、細かい血管の数が増えたり減ったりしているみたいなのよね……。無理だと思ったら止まる、というのはヴァージンは分かっているはずだけど……、支える側も膝の状態を見たほうがいいって言ってた」
「そうなんですか……。その場では分からないくらい、細かい血管なのかも知れませんね……」
ヴァージンは、小さくため息をついた。そこに、メドゥが言葉を重ねる。
「だから、もう少し無理をしない方がいいのかも知れない……。ヴァージンが、走っても痛くならないって言ってるから、支える私もそれを信じたいけど……、本当に何かあったら、メニューを変えるとか、レースを一つ二つキャンセルするとか、しないといけないと思う……。マゼラウスにも、昨日そう伝えた」
「……分かりました」
ヴァージンがうなずくと、メドゥはバッグからファイルを取り出した。ヴァージンもその目で何度か見たことがある、レースエントリー用のファイルだ。
「とりあえず、アウトドアシーズンはヴァージンを信じる。4月に、このラガシャ選手権。ここは5000mでもうエントリーしているわ。5月がリングフォレスト、7月がケトルシティだけど……、ヴァージンは夏に入って10000m走れそう?」
「走りたいです。プロトエインオリンピックから、もう1年半出てないですし……、5000mと並んで10000mの記録更新も私のライフワークと言っていいくらいです」
「なるほど……。昨日のレースで、ヴァージンは自信を付けたようね……。ケガをする前と同じく、二つの世界記録を追い続けている……。それはそれで、いいことだと思うけどね……」
「メドゥさん。厳密には、三つです。5000、5000のインドア、10000……。全て、私の脚で叩き出しました」
そこまで言って、ヴァージンはようやく緊張がほどけたように笑った。だが、目の前にいるメドゥは全く笑うような表情を見せない。
「ヴァージンがそう言うんだったら……、真ん中のリングフォレストだけ10000mで申し込んでおくわ。でも、10000mが厳しそうなら、しばらく目標を一つにした方がいい。最終的には、ラガシャ選手権の時に決めるわ」
「分かりました」
ヴァージンが静かにうなずくと、メドゥも少しだけ表情を緩めた。そして、最後にこう告げた。
「私は、ヴァージンの体を信じるから」
レース翌日こそ記録は出なかったが、ヴァージンは翌日からもトレーニングセンターのトラックを毎日走り続け、少しずつ記録を伸ばしていった。3月に入ったある日のこと、タイムトライアルを終えたヴァージンのもとに、マゼラウスがゆっくりと近づいてきた。
(顔が笑っていない……。また、悪い記録を出してしまったのかも……)
ヴァージンが恐る恐るマゼラウスを見つめると、マゼラウスがヴァージンの前に立った瞬間にそっと笑った。
「51秒07。ここ数ヵ月では一番いいタイムだったな。プロメイヤの自己ベストも上回っている」
「コーチ。今日は、あまりスパートが決まらなかったような気がしましたが……、タイムは良かったのですね」
「そうだ。途中、ラップ68秒から少し速くなった分、最後に厳しくなったのかも知れんが……、まぁ、本番でも少しペースを崩して記録を出すようなお前だから、特に心配はしないが……。逆に、お前の目には、世界記録がどれくらい見えているんだ」
(どれくらい……、見えてる……)
ヴァージンは、そう思った瞬間に、再び頭に「進むべき道」という言葉を思い浮かべた。彼女が「世界記録とは何か」という問いに対する答えを見つけようとしたとき、その場で思いついた言葉だった。
ヴァージンは、首を一度だけ横に振って、マゼラウスに答えた。
「レースで走っているときは、必ず見えています。13分50秒10で走った自分が、うっすらと……、まるで光のように見えています……。私が、いつも追いつきたい光です」
「なるほどな……。お前と付き合って、もう17年目だが……、ここまで詩的な言葉を返されたのは初めてだ」
「ありがとうございます……」
ヴァージンが軽く頭を下げると、数秒の間を置いてマゼラウスが再び口を開いた。
「で、ちょっと話は変わるんだが……。お前に聞きたいことがあってな……。アスリートの中でも、きっとお前にしか分からないことだ」
「私にしか分からないこと……。何ですか」
「アメジスタでおすすめの観光スポットはどこだか、教えて欲しい」
ヴァージンは、マゼラウスの口からその質問が告げられる間、彼の姿を呆然と眺めていた。話の流れから、世界記録のことからは話がそれないと思っていただけに、ヴァージンは唐突な質問に驚きを隠せなかった。
「コーチも、アメジスタに行くんですか……。おそらく、私の実家に面接しに行った時だけじゃないですか」
「それが、私じゃないんだ。ちょっと最近、コーチ仲間で集まったときに、マウンテンバイクの選手から、アメジスタでトレーニングがしたいと切り出されてな……、せっかくアメジスタに行くのだから、アメジスタを誰よりも知るお前から情報を聞き出したいと言われたんだ」
「そうなんですね……」
陸上に限らず、現役のアスリートでアメジスタ出身の人間は、ヴァージンだけと言っても過言ではなく、マゼラウスも「ここはヴァージンに答えて欲しい」というような表情をまじまじと浮かべていた。
(どうしよう……)
次の瞬間、ヴァージンの脳裏に思い浮かんだのは、グリンシュタインの建物が密集する風景と大聖堂しかなかった。マウンテンバイクのトレーニングをするとすれば、市街地から遠く離れた山岳地帯の可能性が極めて高いが、その周辺の観光地を彼女は何一つ知らなかった。
(中等学校で、何も勉強してこなかったのが、今になって辛く感じる……)
そのうちに、体育以外の成績で父ジョージに怒られていた過去が思い浮かんでしまい、ヴァージンはそこで考えるのをやめた。
「ちょっと、観光地の近くには住んでなかったので分からないです……。アメジスタ生まれなのに、こんなことも知らなくてすいません……」
「そうか……。なら、しょうがない。こちらで調べるしかないようだな……」
そう言って、マゼラウスはうなずき、静かにその場から立ち去った。後には、何も答えられなかったアメジスタ人が一人、残されたのだった。