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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
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第72話 世界記録の重み(2)

 フューマティックの室内競技場には、ヴァージンの復帰を待っていた数多くのファンが詰めかけていた。サブトラックからメインスタジアムに入った瞬間、800mの決勝が行われているさなかにも関わらず、選手入場口の周辺から「おかえり!」などと大きな歓声が上がるほどだった。

(ケガでレースに出られなかった7ヵ月……。一方ずつベストに近づいてきた私の姿を、いま見せる時……)

 自己ベストを見る限り、ライバルになりそうな選手はプロメイヤの他にはいない。だが、プロメイヤは意識的にヴァージンの近くにいようとはせず、点呼の際も呼ばれたらすぐに客席に目を反らすほどだった。

(もしかしたらプロメイヤさん、心のどこかで「今日は勝てる」と思っていそう……。でも、私だって、プロメイヤさんに負けてなんかいられないのだから……)

 プロメイヤの背中を見ながら、ヴァージンはゆっくりと右の拳を握りしめた。久しぶりに勝負の舞台に立った「フィールドファルコン」が、今にも戦いたいとヴァージンの足元から力強く叫んでいた。

(私は勝つ……。記録を出す……。そのために、今日ここにやって来たのだから)

 やがて、女子5000mに出場する13人の選手がスタートラインへと向かった。そこでも、一番内側でスタートを待つプロメイヤが、内側から3人目に立ったヴァージンとは一切目を合わせなかった。絶えず正面だけを向き、心の中でヴァージンの走りを意識しているかのように、ヴァージンの目には映った。

「On Your Marks……」

 久しぶりに耳にした、スタート間際を告げる低い声が、ヴァージンの集中力を際立たせる。進むべき200mトラックを見つめながら、ヴァージンは静かに息を吸い込んだ。

(よし……)


 号砲が鳴った瞬間、ヴァージンは一気に400m68秒ペースまで加速を始めた。すると、その気配を感じたのか、プロメイヤがそれを上回るスタートダッシュを見せる。プロメイヤが、ほんのわずかにヴァージンよりも前に出てレースを引っ張る立場になった。

(プロメイヤさんは……、いつものように400mを67.7秒ぐらいのペースで走っている……)

 ヴァージンの知る限り、プロメイヤにとってこの日が初めての室内選手権となる。トラックのサイズがアウトドアと異なり、コーナーの数も倍になるからか、プロメイヤがコーナーを曲がるときにややペースを落としているのがやや目立つものの、ヴァージンと同じペースまで落ちることはなかった。逆に、普段と同じようにじりじりと引き離されていくヴァージンのほうが、自らのペースに対し敏感になるのだった。

(トレーニングでも、ケガする前のようにラップ68秒を無意識で出せなくなるときもある……。だからこそ、今回はいつもよりも意識しないといけない……)

 4周目に入ったときには、ヴァージンの体はラップ68秒よりも少し遅くなっていることを感じ始めていた。コーナーの数が多い分、意識できないほどのペースダウンはあるようだ。小刻みにペースを上げれば、体への負担になってくることは経験で分かっているが、それでもある程度のところでペースを戻さなければならなかった。

(コーチは、何度も言っていた……。今回は、レースの感覚を取り戻すことだと……。トレーニングと本番は、ライバルがいる分、全く違った世界なんだと……)

 2分51秒台で1000mを過ぎた瞬間に、ヴァージンは再びラップ68秒までペースを戻す。目の前を走るプロメイヤも、1000mを通過した時に記録計が2分50秒を告げてから1秒近く経っていたため、完全に400mあたり68秒を切るようなペースでは走れていない様子だ。

(ラスト1000mで、プロメイヤさんは私を意識したスパートを見せる……。だから、プロメイヤさんと勝負するときには、その前にできるだけ離されてはいけない……)

 ヴァージンにとって、1秒以内の差は半ば想定内と言ってよかった。ラスト1000mでつけられた3秒ほどの差をヴァージンのスパートで抜き返すのが、ヴァージンにとっての勝ち方だった。


 やがて、周回遅れの選手が出始め、ヴァージンもプロメイヤもそれを追い抜きながらのレースとなった。3000mで2秒と少しの差をプロメイヤにつけられたと分かったときには、ヴァージンの足に携える「フィールドファルコン」から早くも激しいパワーを感じ始めていた。

(でも……、今日はまだ無理しないでおこう……。ここにいるライバルはプロメイヤさんだけだし……、もしかしたら、プロメイヤさんを抜ければ室内記録を出せるかも知れない……)

 ここまで脳裏に思い浮かべたとき、ヴァージンははっとした。スタートラインに立ってからできるだけ意識しないでおこうと決めた「世界記録」の4文字を、レースの中盤で彼女ははっきりと意識し始めていた。

(たとえ、復帰戦だとしても……、やっぱり私が勝負したいのは、今までの自分だということをレースで忘れることはできない……!)

 これまで41回の世界記録を叩き出したその脚は、3800mのラインを過ぎた直後から無意識のうちにペースを上げていった。そして、4000mをプロメイヤが11分22秒ほどのタイムで通過し、腕を大きく振った瞬間、15mほどの差を追いかけるヴァージンも、400m65秒のペースまで駆け上がっていった。

(最低でもプロメイヤさんに……、残り5周で追いつく……!)

 前を行くプロメイヤのペースは、ヴァージンと全く同じか、それよりもやや遅い程度。これまでヴァージンが見せつけられたように、スパートの第一段階ではほとんど差が縮まらない。普段よりも短い間隔で訪れるコーナーで、その差がわずかながら縮まったように見えても、コーナーから出る段階ではまた元に戻っているのだった。

(まだまだ……。私のスパートは、これで終わりじゃない!)

 4200mを過ぎる直前に、ヴァージンはさらにペースを上げた。400m62秒のペースへと、一気に加速する。プロメイヤも、400m63秒ほどのペースでヴァージンから逃げており、ここでもまたわずかの差しか縮まらない。4400mで10m以上の差をつけられており、4600m付近でプロメイヤが大きく腕を振ったときでさえ、二人の間にはまだ10m弱の差があった。

(プロメイヤさんが……、トップスピードを見せる……)

 ヴァージンのトップスピードには及ばないものの、これまでプロメイヤは400m57秒ほどのラストスパートを見せている。400mの間、腕を大きく振り続けるその走りには、ヴァージンでさえ一度は圧倒されたものだった。

(私だって……、いま出せる限りの走りでぶつかっていきたい……!)

 ヴァージンは、右足でトラックを力強く蹴り上げ、一気にペースを上げた。この日もトラックの上を「飛ぶ」ような動きを見せる「フィールドファルコン」の力強い翼が、逃げるプロメイヤに立ち向かっていく。

(いつものラップ55秒……、出したい……!)

 ヴァージンの繰り出してきたトップスピードを、復帰後のトレーニングでも何度かは取り戻している。スタジアムを流れる風がない室内ではスピードを出しにくいが、コーナーを二つクリアした直後の直線で、ヴァージンはようやく400m55秒のペースに達した。そして、ラスト1周の鐘が鳴り響いたとき、大きく振られたプロメイヤの腕に届くか届かないかほどのところまでヴァージンは迫った。

(プロメイヤさんは、全く疲れたような表情じゃない……。懸命に逃げている……!)

 ヴァージンの目に時折飛び込んでくるプロメイヤの横顔が、ヴァージンを退けた最初のレースのように本気の表情を見せていた。ヴァージンが迫っていることを分かっていながらも、プロメイヤはそれを全く気にすることなく、大きく腕を振り続けているようだった。

(でも……、このペースなら……、抜けるかも知れない!)

 高い戦闘力を誇る「フィールドファルコン」が、力強い走りを見せるプロメイヤに外から立ち向かっていった。コーナーでは斜め後ろに付くのがやっとだったが、次の直線で並んだ。プロメイヤもまた勝利を諦めることなく、ヴァージンを内側に寄せまいと懸命に腕を振る。それでもヴァージンは、最後のコーナーでプロメイヤを引き離し、直線に入った瞬間に体一つ分前に出た。

(これが……、勝負に挑むという感覚……。レースで勝つという瞬間……!)

 ゴールラインに飛び込んだヴァージンは、13分58秒73と決して室内記録を叩き出せたわけではないにも関わらず、何か重要なものを手にした感覚に包まれていた。わずかの差で敗れたプロメイヤに声を掛けられ、その後も次々とライバルから声を掛けられるにつれ、ヴァージンは少しずつ掴んだものを確信したのだった。

(私は、いるべき場所の雰囲気を、やっと思い出したような気がする……!)

 室内世界記録こそ出せなかったものの、ヴァージンは記録計に向かって大きくうなずき、「私には、次がある」と小声でスタジアムに言い聞かせた。

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