第72話 世界記録の重み(1)
「11月に入って、ようやくタイムも戻ってきたようだな」
エクスパフォーマのトレーニングセンターに響いたマゼラウスの上機嫌な声に、ヴァージンは思わずマゼラウスに振り返った。5000mをまともに走れるようになって1カ月が経ったが、この1ヵ月でのタイムトライアルは、ほぼ14分台しか出せず、ヴァージンの自己ベストを考えれば「遅い」と思わざるを得ない記録だった。
「13分50秒10に……、近づいたのですか……」
思わず今の世界記録を口にしたヴァージンは、呼吸を整えながらマゼラウスの持つストップウォッチに歩み寄る。まずはそこに刻まれた数字を見て、彼女はほんのわずか息を止めた。
「13分54秒73。ケガをした後、お前のベストが57秒だったから、なかなかの進歩だ」
「もう少し遅いと思っていました……。スピードを感じられなかったように思えたので……」
「それは、ラップ55秒の世界を知るお前が、そのスピードを忘れていない証だ。むしろその方がいいと思う」
マゼラウスのうなずく姿を見て、ヴァージンもほぼ同時にうなずいた。マゼラウスは、ストップウォッチをしまいかけると、さらに言葉を続ける。
「あれだけのケガをやって、2ヵ月もトラックで走れなかったのに、いよいよ世界記録を狙えるところまで回復できたんだ。お前の生命力に脱帽するよ」
「私も、入院した直後に比べたら力を感じるようになりました……。タイム的には、あと少しですが……」
「とりあえず、インドアシーズンのスタート、1月には問題なくどこかのレースに出場できそうだ。しばらくは、それを目標にするが……、世界記録を狙うことよりも、まずはレースの感覚を取り戻すことに気を付けろ」
「分かりました」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に力強くうなずいた。だが、マゼラウスが数歩遠ざかり、ヴァージンもクールダウンに取り掛かると、ヴァージンは自らの心に言い聞かせるのだった。
(54秒じゃ……、プロメイヤさんの自己ベストにすら届いていない……。私は、こんな記録で満足したくない!)
5000mの自己ベストが13分台の女子選手は、ヴァージンを含めて5人出ている。数ヵ月前の世界競技会の後に出た雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」に、「女子5000mの進化は止まらない!次の世界記録は誰が叩き出すのか」と記事が書かれるほど、実力者揃いの世界になってしまっていた。世界記録を41回も叩き出しているヴァージンは、世界記録を誰よりも知っているとは言え、圧倒的に強いというわけではなかった。
(とりあえず、いま最大のライバルはプロメイヤさん。世界競技会で51秒08を出されている……。そして、いつ伸びてくるのが分からないのが、カリナさんとロイヤルホーンさん……、それにメリナさん……。ランニングフォームすら変えているライバルがいる以上、私だってそんな立ち止まっていられない……)
日の落ちるのが早くなった、トレーニングからの帰り道。大都会の喧騒の向こうに次々と走り去っていく車の洪水を見ながら、ヴァージンは立ち止まった。
(イリスさんから、私は勇気をもらった。それは間違いない。次は私が世界記録を見せなきゃいけない番……)
そのことを頭に思い浮かべたとき、ヴァージンは世界記録を叩き出したイリスの激走に言葉を重ねた。
(ナイトライダーさんがいるイリスさんにとっては、また違った意味合いを持つような気がするけど……、常に世界記録に立ち向かってきた私にとっては、世界記録は……、自分の進むべき道なのかな……)
ヴァージンは目を閉じ、これまで叩き出してきた数多くの世界記録を思い出し始めた。
(一つ一つは通過点のはずなんだけど……、それが次の目標になっている……。周りがみんなそう言ってるのもあるけど……、私はその進むべき道……、誰も通っていない道を走り続けるの……、すごく楽しい……)
気が付くと、ヴァージンの左膝に力が入っていた。
(いつまた痛み出すか分からない左膝も、今は走りたいと言っている……。みんなが待ち望んでいる、次の世界記録のために……)
12月になり、ヴァージンが33歳の誕生日を迎えたその日、復帰レースとなるフューマティック選手権の出場選手を代理人メドゥから告げられた。
「プロメイヤも、インドア5000mに初挑戦するみたいね。オメガ国内だし、前からヴァージンが出るレースにどこかで参加したいと言ってたくらいだから、当然と言えば当然だけど……」
「プロメイヤさんが、そんなこと言ってたんですか……。世界競技会に、私がいなかったから……」
「それもあるわね。どう、ヴァージン。プロメイヤに勝てる自信ある?」
メドゥは、やや小さな声でヴァージンに尋ねた。すると、ヴァージンはその言葉を待っていたかのように、自信たっぷりの声でメドゥに告げた。
「勝てるか勝てないかじゃなくて……、勝ちます。たしかに、私にとっては最大のライバルかも知れませんが、私にはプロメイヤさん以上に目標にしないといけない記録があるのですから……」
「世界記録……。ヴァージンは、まだ本調子じゃないのに、世界記録に目が行ってるのね……」
「勿論ですよ、メドゥさん。少しずつ、復帰後のベストは伸びていますから」
「そのことが、ヴァージンの負担になってなきゃいいけど……」
メドゥの、半ば苦笑いじみた声がヴァージンの耳に伝わる。そう言われた瞬間に、ヴァージンは左膝の痛みを心の中で思い出しては、まだ大丈夫だと自らに言い聞かせるのだった。
「メドゥさん、心配しないでください。5000mは普通に走れますから」
「そう言ってくれるのが、代理人として心強いけど……、逆に代理人だからこそ、ヴァージンのことを心配してしまうのよね……。もうしばらく、ヴァージンの体を気にしながら、出るレースを組み立てていくわ」
「分かりました」
マゼラウスこそトレーニングで何も言わないが、メドゥはヴァージンの膝の様子を気にしている。ヴァージンは、メドゥの言葉が終わってから何度かそのことを言葉に言い聞かせた。
(でも私は……、大丈夫だから……。もうすっかり治っているから……)
年が明け、ヴァージンの復帰戦となるフューマティック室内選手権の当日がやって来た。普段のように本番の4時間前に会場入りしたヴァージンのもとに、早速カメラが向けられた。特段インタビューなどはなかったものの、ケガから復帰した「最速女王」の姿を追おうという視線だけははっきりと感じられた。
(やっぱり、まだ私はこの競技で注目される存在……)
彼女は、心の中で強く思いながら、選手受付の前に立った。既にプロメイヤは受付を済ませている。こういう時には、ロッカールームでばったり出会う可能性が高く、今回もまた例外ではなかった。
「グランフィールド……。やっぱり、いつもと同じ時間に会場入りするようね」
「プロメイヤさん……、私はここで出会うとは思わなかったです。いつものように、サブトラックのどこかだと思っていました」
「そうね……。でも、出会ったついでだから……、レースの前だけど謝っておくわ」
そう言うと、プロメイヤはシューズまで履き替えて、ゆっくりとヴァージンに迫り、その前に立った。
「グランフィールドがケガでいなくなって、次は私が世界記録を更新するとか私が陸上部の前で言ったの、グランフィールドも聞いてるでしょ。アーヴィング・イリスから」
「聞いてます……。それも、病室にイリスさんが来たときに、直接言われました」
「アスリートとして、絶対言ってはいけない言葉だと……、時間を追うごとに分かってきた。女王のいない世界競技会が、あまりにもつまらなく感じたときは、本当にグランフィールドに申し訳ないことを言った気分に包まれていた」
そう言って、プロメイヤは、小さな声で「ごめん」といい、頭を下げた。
「プロメイヤさん。私……、そんなこと忘れてますから……、気にしなくて大丈夫です……」
「分かった……」
そう言うと、プロメイヤはゆっくりと頭を正面に戻し、それからまじまじとヴァージンの目を見つめた。
「ただ、アーヴィング・イリスは私のものだから。問題発言とは別だし、グランフィールドとも付き合っていそうな彼には、数日後に発言撤回って言ってるから……。この前も、デートしたぐらい、私は彼のことが好き」
「むしろ、イリスさんのほうがそのことを根に持っているように、私は話を聞きました」
「なるほどね……」
ヴァージンが、病室での出来事を説明しようとすると、プロメイヤはヴァージンに背を向け、ロッカールームを出ようと歩き出した。
「いずれ、アーヴィング・イリスに決めてもらわなきゃいけない。どちらが、将来のパートナーにふさわしいか」
そう言って、プロメイヤは姿を消した。この後のレースが、イリスを懸けたレースにもなりかねない予感が、ヴァージンを襲った。