第71話 私は、絶対トラックに戻るから!(6)
オメガセントラル選手権、男子100m決勝。4レーンに立つ青年イリスの茶髪が、まだ日の高い秋の光に輝いている。たとえ「神」ナイトライダーが出場していないレースでも、ヴァージンもニュースで何度か見たことのある選手が、少なくともイリスの両隣でスタートの瞬間を待っていた。
(たしか、3レーンのジェラトールさんが、予選1位だった……。この前の世界競技会でもイリスさんとほとんど変わらないタイムの3位だった……。あとは、5レーンの……)
そこまで思い浮かべているうちに、スターターが選手たちに近づき、8人のファイナリストがスタートラインの手前に手をつく。ただひたすら前を向くイリスの目は、真剣を通り越して無の境地を感じていると言ってもいいほど落ち着いていた。
(頑張って……、イリスさんは、もっと伸びるはず……!私は、信じているから……)
ヴァージンは、イリスだけをじっと見つめながら、気が付かぬうちに祈っていた。わずか10秒前後の時間で勝負が決まる種目だけに、トラックの上で行われつつある「儀式」のどれ一つをとっても、瞬きすらできなかった。
そして、スタジアムにいる全ての者の心に食い入るように、号砲が響いた。
「イリスさん……っ!」
次にヴァージンが我に返ったのは、8本もの「光」がヴァージンの前に迫ってくる瞬間だった。スタートから一気に体を前に出したイリスが、ジェラトールや他のライバルを引き離していく。一瞬でトップスピードまで駆け上がっていく勇敢なスプリンターが、ヴァージンの前をより速く、より力強く駆けていく。
(過ぎていく時間の流れが……、前に100mを見たときよりもはるかに速い……!)
ヴァージンがイリスの姿を目で追うこともできないほどのスピードで、イリスがゴールのラインに挑んでいく。ここに来て、ようやくジェラトールがイリスの背中を捕らえかけたが、ほんのわずかイリスの足が先にゴールを駆け抜けたのだった。
(イリスさんが……、やっと優勝した……!)
ヴァージンは、短すぎる勝負を終えて一気にスピードを緩めるイリスに、息を飲み込むことしかできなかった。だが、その余韻もつかの間、わずか数秒でスタジアムの空気が震え上がった。ちょうど、ヴァージンが走り終えた後に何度も経験した、どこからともなく沸き起こる歓喜と全く同じだった。
(な……、何が起こった……。もしかして、イリスさん……)
9秒53 WR
ヴァージンが何度となく覗き込んだ記録計には、自分のタイム以外ではほとんど見たことのない2文字が輝いていた。男子100m――世界で最も速いスピードを発揮する陸上競技――で、世界の誰よりも早いタイムを、わずか22歳のイリスは出したのだった。
(追い風1.9m……。2.0を超えると記録にならないから、一番有利に働く風だった……。でも、たとえ風がなかったとしても、今日のイリスさんの走りは、完璧だった……。まるで、光が流れるのを見ていたかも知れない)
トラックの中では、世界記録を出したイリスを祝福するライバルたちが後を絶たなかった。同時に客席でも、これまでほとんど注目されることのなかったはずの選手が、ナイトライダーの持つ世界記録すらも破ったことへのざわめきが消えることがなかった。
(イリスさんも……、ワールドレコードの仲間入り……。私の背中を見て陸上選手になったイリスさんが、こんな存在になるなんて……、ものすごく嬉しい……)
声にならない声でイリスを祝福するヴァージンは、次第に涙をすするようになっていた。客席のざわめきが止むまで、ヴァージンは大切な「教え子」を優しく見つめ、心の中で何度も「おめでとう」と伝えた。
少なくとも11年前から勇気あるアスリートだったアーヴィング・イリスの熱い心は、ここに結果を生み出した。レースを終えた彼の笑顔は、スタジアムにいる全ての者の心に刻まれた。
ヴァージンは、男子100mの選手がロッカールームへと吸い込まれる段階で席を立ち、選手専用ゾーンから出てくるイリスを待った。突然の記者会見が舞い込んできたのだろうか、100mの選手が次々と会場を後にしても、イリスが出てくる気配はなく、30分ほど待ってようやくイリスが姿を現した。ヴァージンと同じように、イリスを選手受付の近くで待っている観客はいたが、イリスが出てくる瞬間、誰もが叫んでいた。
ヴァージンも、その声に負けないように、溜めていた気持ちを声に載せた。
「イリスさん……、すごく感動しました……!こんな瞬間に立ち会えるなんて、私、思ってもいませんでした!」
ヴァージンがそう言い終えた瞬間、左右を見渡しながら笑顔を向けるイリスが、ようやくヴァージンの姿に気付き、一度うなずいてゆっくりと彼女の元に近づいた。
「僕も……、100mを走り終えた後に何が起きたのかと思ったんです……。たしかに、今日のスタートは決まっていたとは思っていましたけど、最後まで世界記録なんて意識しなかったです……」
「私も……、自分のタイム以外で世界記録を見て、ここまで心を打たれたことはなかったです……。イリスさんが……、男子100mの新しい時代を作り出したと思うと……、一緒に私の遠い昔の記憶が蘇ってきます……」
14年半前、ネルスで初めての世界記録を叩き出したヴァージンもまた、何が起きたのか分からない中でメドゥに祝福の言葉を掛けられた。そして、そこから世界記録が代名詞と言うかのように、彼女は「最速女王」の道をひた走ってきた。そのヴァージンが陸上選手のスタートラインへと導いたイリスも、今日この「世界でたった一人しか存在することのできない別世界」に立ったのだった。
「僕も、いつかは世界記録を出したいと思っていました……。グランフィールドさんが、どんどん世界記録を塗り替えていくのを見て、僕も絶対にそういうアスリートになりたいって思いました……。でも、今日はナイトライダー選手がいなくて……、少しだけ落ち着いて走れたと思ったら……、その世界記録を抜いてしまって……」
「たしか、ナイトライダーさんの持っていた世界記録が、9秒54……。どんな状況であっても、0コンマ01でも……、世界記録を塗り替えたことに変わりはないですから……。それは、私だって自信を持って言えます」
13分台の壁など、「あと少しで超えられる」はずの記録に何度も跳ね返されてきたヴァージンは、イリスに優しく告げた。現役のアスリートの中で誰よりも、世界記録の重みを知る彼女の言葉は、イリスの心にはっきりと響いた。
「そうですね……。あと……、僕は……、今日……」
イリスがもう一歩ヴァージンに近づいてきた。レースの直後は浮かべることのなかった涙を、イリスは「先生」を前に静かに浮かべていた。
「イリスさん……」
ヴァージンは、言葉を詰まらせたイリスにそっと声を掛けた。イリスは2回、3回と何かを言おうとしては言葉にならず、5回目でようやく小さな声ながらヴァージンに伝えた。
「僕は、エクスパフォーマのトラックで、何度もグランフィールドさんのトレーニングを見てきました。グランフィールドさんが、こんな状態でも立ち上がろうとしているのに……、前に進もうとしているのに……、ナイトライダーさんに勝てないっていう僕の悩みは、ものすごくちっぽけだったって気付いたんです……。そう言ったって、優勝できるわけがなく……、立ち向かわない限りはいつになっても強くなれないんです。アスリートって、そんな人間なのです」
(イリスさん……)
出会った時から、イリスの言葉に勇気のかけらを感じ続けてきたヴァージンは、その言葉に思わず息を飲み込んだ。逆に、ヴァージンがイリスから何かを学んでいるかのようにさえ思えた。
「なんか……、イリスさんの言葉を聞いて……、私もまだ走り続けたいって思いました……。最初に出会った時から、何倍も、何十倍も強くなったイリスさんに、私も負けてはいけないと思いました……」
「僕は、グランフィールドさんを応援しています。これからは、次の世界記録をどっちが先に取るか勝負したいくらいです……!」
二人は、互いにうなずいた。性別も、種目も、そしてアスリートのキャリアも全く違うにもかかわらず、二人の目は全く同じ世界を向いていた。
ほとんど誰もが想像すらしていなかったイリスの快挙で、「神」と呼ばれるナイトライダーの心に火がついたのか、イリスの世界記録は1週間後、ヘンプシルのフィアテシモ選手権で再びナイトライダーに破られることになる。だが、そのこともまた、ヴァージンの心に火をつけた。
(今度は、私が世界記録に挑むとき……。できれば、復帰レースで世界記録を出したい……!)
まともに走れるようになってからは、病院に行くペースは月に1回ほどとなっていたが、これまでのところ病院からは何も言われなくなった。逆に、パフォーマンスは着実に元に戻っており、この頃にはラップ68秒からトップスピードに駆け上がっても、ヴァージンの左膝はほとんど痛まなくなっていた。あとは、世界記録にどれだけ食らいつけるかが、トレーニングの目標になっていた。
女王は、再びトラックに舞い降りる時を待っていた。