表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
442/503

第71話 私は、絶対トラックに戻るから!(5)

「ヴァージン、大丈夫?2000mで痛みが再発したって聞いたけど……」

 代理人メドゥから電話がかかってきたのは、その日の夜だった。マゼラウスと夫婦関係になっている以上、その日のトレーニングの成果がすぐに代理人に伝わるのは、二人の結婚以来全く変わっていなかったが、この日のヴァージンは電話がかかってきた瞬間に、誰のどのような電話なのかが分かってしまった。

「少し痛みが出てきたので、2100mぐらいまで走って、そこでやめました。痛みはすぐに引きましたが……、なかなか元通りには戻らないです」

「そう……。病院の先生も、膝の組織が元通りになるまでどれくらいかかるか、エコーで検査するときじゃないと分からないって言ってたし……。でも、ランニングマシンでは5000m走れたのね」

「そうですね……。ただ、本物のトラックに立つと、昔の自分の走りを思い出してしまうんです……」

 ヴァージンの耳には、メドゥが小さくため息をつきながら、返す言葉を考えているように聞こえた。それから数秒の間を置いて、メドゥは言葉を返す。

「少し休めばまた元通りの体になるって、私が前に言った言葉を覚えてるでしょ」

「覚えています。でも、どこまで休めばいいか分からないですし……。あと0コンマ10で、13分50秒を切れるってところでずっと止まっているわけにはいかないんです……」

 ヴァージンは、やや低い声でメドゥに告げた。するとメドゥは、電話ごしに首を横に振る音を響かせた。

「そうだとしても、今は医者に従ったほうがいい。もしかすると、思っている以上に回復にてこずっているのかも知れないし……、それに2ヵ月ぶりのタイムトライアルでもラップが落ちなかったのだから、きっとトレーニングを少し抑えても大丈夫だと思う」

(メドゥさんも、そう言うか……。コーチと同じだ……)

 ヴァージンの目には、走るはずだったトレーニングセンターのトラックがうっすらと浮かんでいた。それを盾に、メドゥにさらに訴えようとした。だが、それは声にならなかった。

「いい、ヴァージン。私はスポーツエージェントの道を選んでまだ4年とか、5年とかだけど……、心に強く思っていることがあるのよ。それは、私と……、マゼラウスは……、ヴァージンと二人三脚で走り続けるしかないって言うこと。いくら私たちがヴァージンの早い回復のためにいろいろ考えたところで、ヴァージンが違う方向を向かってたら、私だっている意味がないじゃない」

「メドゥさん……」

 その声は、決して厳しくはなかった。だが、一人で暴走を繰り返すヴァージンを止めるには十分すぎる温かさを持っていた。

「私たちは、ヴァージンの勇ましさが、逆に心配なの。だから、無理はしないで……。上手く回復したら、来年のインドアシーズンから、またバンバンレースを入れるって、私たちは約束するから」

「分かりました……。早く元通りに戻りたいって、はしゃぎ過ぎました……」

 ヴァージンが、やや低い声でメドゥに告げると、その言葉を待っていたようにヴァージンに返した。

「分かったならそれで大丈夫。来年のインドア、今から一つエントリーしておくわ」

「ありがとうございます」


 ヴァージンは、翌日からもほぼ毎日のようにトレーニングセンターに通った。だが、一人でトレーニングするときには5000mを本気で走らず、なるべく本番の感覚だけを掴むようなトレーニングだけに集中した。また、マゼラウスを交えてのトレーニングでも、2000m、2400m、2800m……と徐々に周回を増やしながら、5000mで走るときのようなペースで膝が痛まないかを確かめるトレーニングへと切り替わっていった。

 そんなある日のこと、ヴァージンがトレーニングから戻り、トレーニングウェアを洗濯機に入れると、彼女はその足でメールチェックを始めた。相変わらず、メールのほとんどが回復を願う文面になっていたが、レースに復帰することを伝えていないため、レースが立て込んでいる時期と比べるとメールの数はやや落ち着いていた。

 だが、その中に見慣れたアドレスを見つけ、ヴァージンは目を止めた。

(イリスさんだ……)

 トレーニングに復帰した最初の日にたまたま目が合って、その日のトレーニングをスタンドから眺めていたイリスの表情を、ヴァージンは今でも思い出せるのだった。件名には「レースへのご招待」と書いてあったので、ヴァージンはそれを普段より強めにクリックした。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 グランフィールドさん、ケガのほうは少しよくなりましたか?

 僕は、卒業と同時にエクスパフォーマとスポンサー契約を結んだので、グランフィールドさんと同じ場所でトレーニングできるようになったのですが、時々グランフィールドさんがトレーニングしているのを見かけます。

 ただ、走れたはずの距離を走れず、それでもギリギリまで走ろうとしているグランフィールドさんから、ものすごい勇気をもらっているような気がします。こんな状況でも、前に進もうとしているの、たくましいです。


 そして、僕のほうはと言うと、世界競技会で2位です。

 でも、僕よりもはるか上にナイトライダーさんがいて……、グランフィールドさんのように注目されません。

 でも、僕の実力は徐々に上がっています。自分でもそう信じていますし、タイムでもそれは分かっています。

 なので、もしよかったら、オメガ国内になりますが、秋のオメガセントラルでのレースを見に来ませんか?

 前にグランフィールドさんに来てくれた時には、僕はトップ選手の中でオルブライト選手しか抜けなかったけれど、今度こそ、成長した僕の姿をグランフィールドさんに診て欲しいんです。

 トレーニングを休んでまで来てくださいってわけじゃないですけど……、来てくれると嬉しいです。


 そして、僕も早く、ケガを乗り越えたグランフィールドさんの次の世界記録を見たいです。


 アーヴィング・イリス


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(イリスさん……、ずっと私のことを気に掛けてくれたんだ……。トレーニングセンターで私の走る姿を見たの、この書き方だと一度だけじゃないみたいだし……)

 メールの文面から目を離したヴァージンは、右手に汗が溜まっているのをはっきりと感じた。そして、すぐにイリスに「レースに行きたいです」というタイトルの返信メールを書き始めた。

(イリスさんは、きっとプロのアスリートになっても、私の背中をずっと見ている……。私は、今は満足に走れないけれど、逆にイリスさんの背中を見ながら、昔の自分を取り戻していく時なのかも知れない……)

 ヴァージンは、パソコンの前で静かにうなずき、それから、イリスへの想いをメールに載せたのだった。


 ヴァージンがイリスへのメールを返してから1ヵ月で、イリスからは出場レースの予選と決勝の開始時刻を伝えられたり、ホームストレッチ側の特等席と言うべきチケットを送られたりするなど、ヴァージンがイリスの走りを見に来る前提で進んでいた。だが今回は、以前のように予選からスタジアムにいるようなことはせず、午前中はトレーニングセンターで軽くトレーニングをし、午後の決勝に合わせてスタジアムに向かうことに決めた。

(イリスさんは、もう世界競技会でも表彰台に上がれるほどの実力を持っている。だから、予選落ちはないはず)


 そして、ヴァージンはイリスの出場するレース当日の昼近くになってトレーニングセンターからオメガセントラルのスタジアムへと移動を始めた。時間的に、男子100mの予選は終わっているため、彼女は一応、予選の結果をネットで確かめることにした。

(イリスさん、全体で2位……。でも、今日はナイトライダーさんが出ていない……)

 ひとまず、イリスが決勝に残ったことを確認して、ヴァージンはスタジアムに向かった。そして、何の違和感もなくスタジアムの外周道路に足を踏み入れると、彼女はそこで大きなスタジアムに目をやり、足を止めた。

(ここが、私の帰ってこなければならない場所だ……。あと少し我慢すれば、私は戻れるはずだから……)

 スタジアムから出てくる観客の中は、突然スタジアムに現れたヴァージンに目線を向ける人もいたが、そのほとんどが「今日が復帰戦なのか」と尋ねたいような驚きに包まれており、ヴァージンが逆に戸惑うほどだった。

(とりあえず、私は特等席で、イリスさんの成長を見る……。それが、自分自身のモチベーションにつながる)

 イリスから渡されたチケットを握りしめ、ヴァージンは観客の受付に急いだ。受付の係員も、ヴァージンの姿に戸惑いを隠せなかったようで、念のため「今日は一般で」と一言添えた。


 そして、男子100mの最速を決めるレースは、ヴァージンが席に座った10分後に始まるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ