第71話 私は、絶対トラックに戻るから!(4)
本格的にトレーニングに復帰することを告げた二日後、ヴァージンは久しぶりにエクスパフォーマのトレーニングセンターに向かった。すると、そこにはマゼラウスが先に来ていた。
「お前のことだろうから、私と約束した2時間前には入るだろうと思ったが、時間を含めて思った通りだ」
「コーチ。久しぶりにここでトレーニングできるので、朝から気持ちが少しだけ高ぶっています。今日はよろしくお願いします」
「無理はしないようにな」
そう言って、マゼラウスはヴァージンの肩を叩き、それから足元を見た。
「やはり、お前のことだから『フィールドファルコン』を履いてきたな……」
「私にとって、最高のギアですから。リハビリ中も、なるべく履くようにしていました」
すると、マゼラウスは軽く頭を撫でて、わずかの間唸った。それから、ヴァージンのシューズから目を離し、彼女の目を見つめながら言った。
「シューズが足の痛みを過度に抑えているとタグミ医師から言われていたが、お前はそれを受け入れた上で、このシューズを使うんだな」
「はい」
ヴァージンは静かにうなずき、それから右足を無意識に上げた。
「私は、思ったのです。シューズが痛みを抑えていることと、シューズが合っていないこととはまた別です。無理したら痛みがぶり返してしまいますが、『フィールドファルコン』が一番足に合っている以上、まだこのギアで戦い続けたいです」
「分かった。お前の足のことは、お前が一番分かっているからな。ただ、走っていて辛いと思ったら、途中で止まる勇気も必要だ」
「はい」
ヴァージンがうなずくと、マゼラウスは一息ついて言葉を続けた。
「まぁ、シューズはともかくとしてだ……。私も、具体的なトレーニングメニューをあれからずっと考えている。だが、お前の出来栄えを見ない限り、どの程度のトレーニングがベストかどうかも分からない。だから、今日だけはお前のできる限りのペースで、5000mを1回走ってもいいと思っている。お前はどうだ」
「5000mを走っていいんですか!」
ヴァージンが聞き返すと、マゼラウスは首を小さく縦に振った。
「今日だけだ。この2ヵ月ほどの間、そのいつもの距離を走れたことはあるか」
「……5000mは、家のランニングマシンでしか走っていませんけど、何とか走れる感じです」
「なるほどな。ただ、それだけでも左膝に負担がかかりやすい。だから今日は、400mインターバルとか、これからのリハビリでもやることになるようなメニューは、やや少なめにしようか」
「分かりました。なら、私は満足のいくタイムで5000mを走り切ることを目標にします」
ヴァージンがマゼラウスにうなずいたその時だった。トレーニングセンターのドアが静かに開き、その中からヴァージンの見慣れた青年が姿を見せたのだった。
(イリスさん……。もしかして、年齢的にオメガスポーツ大学を卒業して……、エクスパフォーマとスポンサー契約を結んだのかな……。スポンサー契約を結んでいない限り、ここでトレーニングはできないわけだし……)
「どうしたんだ、ヴァージン。いつにも増してトレーニングセンターが懐かしく思ったのか」
「そうじゃないです。遠くで、私が前に小学校で授業をした時の……」
「あぁ、アーヴィング・イリスか……。彼は、この前の世界競技会の男子100mで2位になったほどの逸材だな」
マゼラウスも、ヴァージンの目の動きに合わせて後ろを振り向いた。ちょうどその時、ヴァージンとイリスの目線が一直線になり、イリスのほうがヴァージンに向けて驚いた表情を浮かべた。
「彼も、神と言っていいヴェイヨン・ナイトライダーさえいなければ、22歳にして世界の頂点だ。だが、ナイトライダーが圧倒的過ぎて……、彼には到底及ばない存在だ」
(ナイトライダーさん……。たしかに、桁違いの存在だ……)
「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」の新しいモデルアスリートとなったナイトライダーとは、イベントで一度目を合わせている。その時は同時にイリスのことまでは意識しなかったものの、そのイリスが神の足元まで来ていることを知ったいま、ヴァージンはイリスの横に、ナイトライダーの姿を思い浮かべるのだった。
「イリスさんがそこまで成長していることには違いないです。まだ22歳だし、これからも十分成長します……」
ヴァージンとマゼラウスがそのような会話を続ける中、当のイリスは二人に背を向け、そのまま敷地の外ではなく、トレーニング風景の見えるスタンドへと向かった。
(もしかして、私のトレーニングを見るということ……?)
軽くストレッチとアップを行った後、トレーニングを始めて1時間も経たないうちにヴァージンはスタートラインに立った。久しぶりに、トラックの上で5000mを走ろうとする瞬間が、少しずつ迫ってきていた。
「どうだ、ヴァージン。今は特に膝とか痛んでないか」
「大丈夫です。1ヵ月前くらいのような、走るとすぐ出てくるような痛みはないです」
「なら大丈夫だ。ただ、無理をするな。痛くなったら、止まるんだ」
「分かりました」
ヴァージンは、マゼラウスに力強くうなずいた。そして、2ヵ月ぶりとなるトラックの空気を吸い込んだ。
(私は……、今の自分ができるベストを尽くす……。それが、次の世界記録への一番の近道だから)
号砲を持つマゼラウスの手が高く上がった。ヴァージンは、心の中で一度うなずいた。
(よし……)
号砲が鳴ると同時に、ヴァージンはトラックの上を力強く駆け始めた。2ヵ月前まで当たり前だったように、次のコーナーでラップ68秒のペースまで上げ、コーナーが終わって直線に入ると、そのペースで走りのリズムを作った。ストライドもテンポも、2ヵ月前と全く変わることなく、最速女王の脚がトラックを舞う。
(大丈夫だ……。ラップ68秒で走っても、膝が何とも思わない……!)
「フィールドファルコン」の圧倒的なエアーで膝の痛みを和らげているということすら忘れるほど、2周目に入ったヴァージンは軽快なペースで駆け続ける。コーナーに入ってもペースを落とすことなく、ただ本番で見せていた通りの走りを、彼女はトラックの中で見せ続けていた。
だが、2000mを過ぎてすぐのコーナーに差し掛かったとき、ヴァージンは膝から足首に向かって何かが落ちるような衝撃を覚えた。
(まずい……。やっぱり、痛んできた……!)
ほぼ同時に、マゼラウスの息を飲み込む音がヴァージンの耳を貫き、それを合図に彼女の足はトラックの上で止まってしまった。できる限りのクールダウンをしようとするが、再び膝の痛みを覚えると、彼女は芝生の上に座り、膝を伸ばした。痛みの再発した左膝を押さえながら、彼女は下を向いた。
(もっと走りたいのに……!世界記録だって狙えるペースだったのに……!)
ヴァージンは、声にならない声でそう叫んだ。そこにようやく、マゼラウスが駆け寄ってきた。
「大丈夫か、ヴァージン!また膝を痛めたか」
「はい……。あの時のような痛みではないですが……、なんか膝に衝撃を覚えたので、やめました……」
そう言い終わると、ヴァージンは芝生に向けて力なく息を吐いた。彼女の目から見えるマゼラウスのさらに後ろに、イリスが見つめていることも、この時には分かっていた。
「無理をしてしまったか……。2000mまでは、今までのお前を見ているような感じだったが……」
「コーチ……。やっぱりまだ、本気で5000mまでは走れないです……。でも、手ごたえは掴めたと思います」
ヴァージンはそう言いながら、途中で止めてしまったタイムトライアルを振り返った。ラップ68秒で走り続けることを、彼女は全く忘れていなかったのだ。
「たしかに、2ヵ月のブランクがあっても、元の通りに走れているのは、実力が落ちていない証拠だ。だからこそ、走り切れなかったとは言え、自信を持っていいと思う。あとは、どれだけ距離を伸ばせるかだ」
マゼラウスは、そこで言葉を止め、少しの間考えるしぐさを浮かべた。ヴァージンは、その様子をじっと見つめながら、マゼラウスの心の内を探ろうとした。
「これで、おおよその復帰メニューは決まったな。5000mを目指すのではなく、お前で出すことができるラップ68秒で、少しずつ距離を伸ばしていこう。お前が、5000mや10000mを目標にしたいのは分かるが、十分に5000mまで走れるようになるまで、距離はこちらで決める。いいな」
「はい」
「あとは、スパートの感覚を取り戻すための400mインターバルを1000mくらいまで伸ばすことを考えている。ラップ68秒で走って2000mまでは走れるのだから、トップスピードで1000mはなんとかなるだろう。いいな」
マゼラウスが念を押すと、ヴァージンは再びうなずいた。その頃には、ヴァージンの膝を襲っていた痛みはすっかり消え、彼女はマゼラウスの手を使わなくても芝生から立ち上がることができた。
そして彼女は、走るはずだったトラックの上に立ち、進むべき方向を見つめた。足に従える「フィールドファルコン」も、そして彼女の右足も、無意識のうちにレースを続けようとしていた。
(やっぱり、私はトラックを見ると本気で走ってしまう……。ペースを落としたら、5000mを走り切れたかも知れないけど……、トラックの上で生きる私にはその選択肢が見つからない……)
ヴァージンはトラックの上で深呼吸をし、それからイリスのいるはずのスタンドに目をやった。だが、その時にはもう、イリスの姿はそこにはなかった。
(久しぶりに、イリスさんと話がしたかったのに……。イリスさんも忙しいのかな……)
ヴァージンは、首を横に振りながらトラックの上を歩き始めた。だが、一度目に焼き付けた「さらに成長した」イリスの姿を忘れるには、その動作だけでは不十分だった。