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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
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第71話 私は、絶対トラックに戻るから!(3)

「長い遠征だった……」

 オメガから外に出ていないにもかかわらず、2週間ぶりに家に戻ったヴァージンは、すぐにパソコンを開き、入院中見ることのできなかったメールボックスを開いた。そこには千件近くのメッセージが未読で残っていた。


――膝の故障で入院したというニュースを見て、ショックを受けました。けれど、グランフィールド選手は故障に負けることなく、また素晴らしい走りを見せてくれると信じて、立ち直っています。頑張ってください。

――早くケガを治して、次の世界記録にチャレンジしてください!待ってます!


(……みんな、本当にありがとう……)

 まだトレーニングセンターに戻ることはできないので、一人一人のメッセージに返信する時間は十分にあった。だが、一日中パソコンに向き合うという習慣のないヴァージンは、言葉にならない気持ちだけで応えた。

(私は、必ずトラックに戻る……。絶対戻る!次の世界記録を、みんなに見せたい……!)

 ヴァージンは、そこでパソコンの前から立ち上がった。まだ家の外を走ることはできないが、数年前に買ったランニングマシンで少しずつペースを上げながらリハビリをすることができるのだった。

(痛くなったら、すぐに休むようにって……、退院の時に病院から言われたような気がする……。それに、痛くなくなっても体の組織が不完全な状態は続いているって、医者も言ってたような気がする……)

 走りたい気持ちだけは、ヴァージンの心の中にこの時もあった。だが、退院したその日に、彼女が病院からアドバイスされたことを忘れることはなかった。復帰のためにできることを、彼女は続けるしかなかった。

(これからやろうとしているのは、体を作ることではなく……、鍛え上げた体を衰えさせないため……)

 ランニングマシンのスピードをまずは歩く程度に合わせ、ヴァージンは歩き心地を確かめた。病院の中を歩く感触とはまた違うものの、時速6kmほどのペースであれば全く問題なく10分ほど歩くことができた。

(次は、少しペースを上げようか……)

 病室では、時速8kmまでしか上げることのできなかった彼女は、それよりも少し速めの自足9kmのペースまで上げた。400mトラックに直すと2分45秒ほどかかってしまい、彼女の勝負する世界には到底及ばないものの、なるべくゆったりとしたフォームで走り続けた。

 だが、そのペースで10分走り終えた後、ランニングマシンを止めたヴァージンは左膝が少し重くなっているように感じた。

(やっぱり……、膝が痛む。まだ9kmに上げるのは早かったかな……)

 早足と、明らかに走っている状態との差を、ヴァージンは感じずにはいられなかった。痛みが出てきた以上、この日のリハビリはここで終わりにしなければならなかったが、これ以降彼女は毎日のように、少しずつペースを上げては膝が痛まないか確かめるようになった。


 8月。毎年開催される世界最高峰のレース、世界競技会の時期がやって来ても、ヴァージンは自宅からほとんど出ることがなかった。退院時点では、開催地であるアブラニア国のジェリューに行けると思っていたが、経過観察でタグミ医師に厳しいと言われ、ヴァージンは現地に行くことすらも断念しなければならなかった。

 それでも、彼女は長距離のレースが気になって、思わずテレビをつけたのだった。

(そろそろ、女子5000mの決勝……。この1年で、何人ものライバルが中距離走のフォームを手に入れているけど、このフォームでみんながどれだけのタイムを出せるか見てみたい)

 ヴァージンが不在であっても、その世界記録に近づいているライバルが何人も出場しており、スタジアムの中は盛り上がっている様子だった。時には客席と同じ目線で、そして時には選手を間近から見るような目線で伝え続ける画面は、ソファに座りながらレースを見つめるヴァージンにとって、異次元の世界と言ってもよかった。

(号砲が鳴る……)

 「On Your Marks」の声で反射的に立ち上がりかけたヴァージンは、軽く首を横に振って、もう一度座った。陸上選手の本能だけは忘れていなかった。

 スタート直前のカメラは、プロメイヤに向いていた。

(やっぱり、私の出ていないレースで注目されるのは、一昨年の世界競技会で私を破ったプロメイヤさん……)

 号砲とともに、15人の「ライバル」が一斉に飛び出した。一緒に走っているわけではないにもかかわらず、ヴァージンもまたカメラワークに吸い込まれるように、臨場感を持ってレースを見続けていた。

(カリナさんが、ラップ67秒より少し速いペース……。その後ろに、メリナさんとプロメイヤさんだ……)

 テレビの画像では遠近があるので、普段から体で感じるようなスピードははっきりと分からない。だが、トラックのコーナーやところどころ引かれたレーンを頼りに、ヴァージンは出場選手のペースを確かめるのだった。そして、1周を過ぎたあたりで早くも、ラップ68秒よりも速いペースで走っていることを、画面左上に表示されるタイムで思い知るのだった。

(長距離走のはずの5000mが、少しずつ中距離走になっている……。68秒ペースで走っているのが、ロイヤルホーンさんだけ……。半年以上前にコーチの言ってたことが、現実になっている……)

 中距離走のフォームを意識し始めた、自己ベスト13分台のライバルとは、ヴァージンは今年に入って一度ずつ戦っている。その時は、ヴァージンの前に出たライバルは多くても二人だった。それが3人になったところで、ヴァージン自身のペースが乱されることはないものの、普段以上に手強いレースになる雰囲気が漂うことだけは間違いなかった。

(いずれ、私は序盤から何人ものライバルを追いかけることになる……。このレースのように)


 ヴァージンがあれこれ思い続けているうちに、レースも終盤戦に入った。3800mを過ぎたあたりでカリナがペースを上げ、それを見たプロメイヤが大きく腕を振り、まずメリナをその後ろに追いやった。ラップ67.7秒ほどのペースだったプロメイヤが、瞬く間にラップ65秒ほどのペースまで駆け上がるが、40mほどの差をつけたカリナとの距離は、まだ縮まりそうもない。

(でも、プロメイヤさんは、私とほぼ同じくらいのスパートが武器。こんなペースで終わるわけがない)

 ヴァージンが予感した通り、残り2周に入ってプロメイヤがさらにペースを上げる。ラップ62秒を少し切るほどのスピードで、カリナとの差を縮めていく。カリナの振り返る表情が一瞬だけカメラに映ったが、トップの二人が並んだ時、まだ余力があるのはプロメイヤのほうだった。

 そして、二人のペースもさることながら、ヴァージンは時折画面左上のタイムに目をやっていた。

(あとは、どれだけのタイムで走り切るか……。私のようなラップ55秒で走ることさえなければ、きっと世界記録は守られるはずだけど……)

 ヴァージンが祈るような言葉を心に刻んだ時、画面の向こうから最後の1周を告げる鐘が激しく鳴り響いた。そこで、プロメイヤがさらにペースを上げた。

(ラップ57秒を少し上回っている……!)

 プロメイヤがラスト1周のラインを通過したのが12分53秒。そこに57秒を足せば、13分50秒になる。ヴァージンは、息を飲み込みながら二人の「ライバル」を追い続けていた。バックストレッチに入ったところでプロメイヤがカリナを捕らえ、圧倒的なスパートで追い抜かす。だが、そこで大きく外に飛び出し過ぎて、タイムを少しロスしているようにヴァージンには見えた。

(私の記録は大丈夫かもしれない……。でも、プロメイヤさんが自己ベストを更新するのは、もう間違いない)

 ラップ57秒ペースを保ったまま、プロメイヤは一気にゴールまで駆け抜けた。画面左上で止まったタイムは、「13分51秒08」と表示されていた。

(なんとか……、世界記録は守りきった。でも、私とプロメイヤさんの自己ベストは、また1秒に縮まった……)

 ヴァージンは、衝動的に立ち上がった。そして、テレビから目を反らし、トレーニング用品が入っているクローゼットに向かった。


「私は……、いい加減、本気で走りたい!このままじゃ、プロメイヤさんやメリナさんに……、抜かれてしまう!」

 室内用シューズから、慣れた手つきで「フィールドファルコン」に履き替えたヴァージンは、外に飛び出した。そして、一周がほぼ400mになっている家の外周道路を、これまでのリハビリ生活で走ったこともないペースで飛び出していった。

(ラップ68秒……。これで走り続けない限り、今の女子5000mでは置いて行かれてしまう)

 気が付くと、彼女はラップ68秒で角を曲がっていた。そして、そのペースを保ったまま1周を駆け抜け、そこで走るのをやめた。

(大丈夫……。痛みは出てこない……)

 最初にカテーテルを入れられてから、もうすぐ2ヵ月。膝の組織はほぼ回復しているようにヴァージンには思えた。そして、その足でメドゥに電話を入れた。リハビリの成果、そしてこれからトレーニングに復帰することを伝えるために。

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