表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の長距離アスリート 誕生の瞬間
44/503

第8話 思いがけない再会(4)

 10月に入り、昼間の暑さも収まってくると、ヴァージンのトレーニングもいよいよ大会を見据えたものとなった。5000mを一日に3回走るほか、400mを10周など、先の世界競技会直前の練習メニューに匹敵するほどの走りこみを行った。

 だが、未だに公になっていないものの、理解者アルデモードからの支援の手が、ヴァージンが日々トレーニングをする上での精神的な支えになったのか、きつい練習でも極端にタイムが落ち込むわけではなく、世界競技会以来、安定して14分台で5000mを走り終えるようになっていた。

「よし、大会まであと4日だ。明日からは、極端にきついトレーニングは抜きにして、本番に向けて最終調整を行おう」

「はい」

 マゼラウスの満足げな声に、ヴァージンも首を大きく縦に振った。


 その日、ヴァージンがワンルームマンションに戻ると、差出人がアルデモードと書かれたはがきが届いていた。書類入りの封筒ではないことが気にはなったが、ヴァージンはその場で文面を読むことはせず、いつものように部屋に戻ってから読むことにした。

(話がうまくまとまったのかな……)

 部屋のドアに鍵をかけたと同時に、ヴァージンははがきを裏返した。


 ――サウザンドシティでの大会の会場で、大事な話がある。それまで待っててほしい。幸運を祈る。


(……!)

 ヴァージンは、はがきの内容以前に、殴り書きの文字に足が竦むようだった。アメジスタで初めて見たアルデモードの字は、凛々しい外見の彼を思わせるような丁寧な字で、それがこの日までずっと続いていた。だが、ここに書かれてあった文章は、明らかに別人のもののように見えた。

(宛名の字と、全然違う……。どうしちゃったんだろう……)

 ヴァージンはじっとはがきを見つめたまま、しばらく考え込んだ。すると、殴り書きで書かれた文章の下に、ほぼ全面修正液で消されたような跡があった。その下に何と書かれてあったか、ヴァージンは確かめることすらできなかった。

(何か、オメガ・アイロンで問題が起きたのかもしれない)

 ヴァージンはやや首を傾けながら、はがきをきれいな字の面に戻して机の上に置き、何事もなかったかのようにカバンの中のトレーニングウェアを洗濯機に放り込んだ。


 4日後、今年最後の勝負となるサウザンドシティでの大会が始まった。

 今回もリングフォレストでの大会と同様に予選がなく、15時から女子5000mの決勝が行われる。ヴァージンとマゼラウスは、12時には会場に入り、100m走や400m走などが行われているトラックを横に、早くからトレーニングを始めていた。

「そう言えば……、今回のライバルの顔ぶれ、知らないままここに来ちゃったんですけど」

 ヴァージンが思い出したかのように口を開き、マゼラウスに尋ねた。

「受付でもらわなかったのか」

「はい……。ちょっと早く来すぎて、受付で戸惑っていたりしてたので……、つい……」

「そうか。ただ、一つ分かってることがある」

「えっ……」

 ヴァージンは、マゼラウスが縦に大きく首を振るので、思わず首を向き直した。

「グラティシモは、この大会を回避したみたいだ。先週のデゴバの大会で優勝し、2週も続けて本番は厳しい、と言ってフェルナンドコーチが本人に回避を申し出たようだ」

「そうなんですか……。せっかくのオメガ国内での大会なのに……」

 この国が故郷ではないヴァージンは、そう言い終えて軽くため息をつく。アメジスタでの大会が物理的に不可能なことも、彼女を軽く落胆させる一因ともなった。

 だが、そのため息をかき消すかのように、マゼラウスはそっと言葉を投げかけた。

「そう言えば、大会などを見てて思ったんだが、君はシュープリマ・シェターラと仲がいいようだが……」

「シェターラさんと……。はい、ジュニア大会のときに知り合って、それからライバルのようになってます」

「それが……、1週間ぐらい前の新聞に、復帰するとか書いてあったようだ」

「本当ですか!?」

 思わず息を飲み込むヴァージンは、首を左右に軽く動かし、見慣れたライバルの姿を確認しかけた。だが、そこまで早くシェターラが会場入りするはずもなく、目に映るアスリートの姿は、誰一人としてヴァージンと同じトラックを走るようなものではなかった。

「そう、本当だ。右太腿の筋断裂から、ようやくトレーニングを再開できたみたいだ」

「それは何よりです。イクリプスのプロジェクトから、全く勝負してなかったので、早く勝負したいです」

「そうか……。だが、そう思わない方がいいぞ」

 マゼラウスは、不意にヴァージンに釘を刺した。何かの勝負が決したかのような歓声が鳴りやむと、ヴァージンの周囲は少しだけ凍りついたような雰囲気に包まれた。

「ヴァージンはもう、シェターラの相手ではない。見る限りな」

「タイムとか、ですか?」

 シェターラの自己ベストは一昨年3月の14分47秒23から伸びていない。それは、ヴァージン自身も何度か本人と会っている中で分かっていた。

「勿論。今のヴァージンは、本番で舞い上がりさえしなければ、シェターラの自己ベストを余裕で上回る。そこは自信を持っていいと思うんだ」

「はい」

 ゆっくりとうなずくヴァージンに、マゼラウスの目がやや細くなる。

「それに、シェターラは何ヵ月もトレーニングから離れた。そんな彼女を、敵だとは思うな。ヴァージン・グランフィールドの挑むべき標的は、メドゥや、ここにはいないがグラティシモだ」

「分かりました」


 その時、遠くの方で黒いショートトップに包まれたシェターラの姿を、ヴァージンははっきりと捉えた。話しかけることはできそうにないが、表情は生き生きとしている。

 ヴァージンは、それでも右手の拳をギュッと握りしめて、そっとシェターラの表情を思い返してみた。初めて出会った時、ヴァージンを本物のアスリートだと告げたときの顔。イクリプスのプロジェクトで、お互い負けないと決めたときの闘志に満ちた顔。そして、車いすの上で力なく首を振る、無念のライバルの姿……。

 その全てを、この日見せた久しぶりの本気の顔に重ね合わせた。そして、ヴァージンはこの日のシェターラとの勝負に、自分の全てをぶつけようとそう考えた。


 だが、その陰でヴァージンの頭の中を、シェターラに対する不安が巡っていた。

 そして、その不安が現実のものになってしまう時間まで、カウントダウンは始まっていた。


 ヴァージンが想定していた通り、その後1時間以内にメドゥやバルーナといった、ヴァージンよりもはるかに実力を備えているライバルがスタジアムに到着し、最終調整を行うヴァージンの横で余裕の表情を浮かべていた。世界競技会金メダリストと銅メダリストに、ほんのわずかな時間挟まれたヴァージンの闘志は燃え上がる。

 そして、係員に誘導され、スタートラインに立つ。世界記録まで6秒と迫るタイムを出してから、初めてとなる勝負のフィールド。

(絶対に、最高のタイムを出す……)

 ヴァージンは、メドゥとバルーナの表情を軽く見つめた。

「On Your Marks……」

 透き通った空気が、16人の長距離走者を包む。始まりのときだ。

(前に!)

 号砲とともに、ヴァージンはこの2ヵ月近く積み重ねてきたように、一気に前へと体の重心を傾ける。練習と違い、ポジションを取るのが難しい本番でも、ヴァージンはためらわずに前へと出る。これまでの大会で、ライバルたちに序盤から開けられていた穴は、もはやほとんどなかった。

 400mを通り過ぎた時点で5人となった先頭集団の中に、ヴァージンは食らいつくように入り込んだ。そして、わずかながらスピードを上げていくと、標的というべきメドゥやバルーナの背後にぴったりとくっついた。


 この時点で、先頭集団にシェターラの姿がなかったことを、ヴァージンは少しも感じなかった。

 ただひたすら、自分のポジションを守り、ラスト3周でタイムを伸ばす。わずか2ヵ月だが、体はその戦い方に慣れている。それを貫き通すのに精いっぱいだった。

 他のアスリートのことは気にしない。しかし、その目の前で事件は起こった。


 トップ集団をリードするメドゥのペースが若干落ちるのを、ヴァージンは感じた。それを勝機とみたヴァージンは、外側から二人のライバルを抜き去ろうと、トラックの外側に重心を傾け、一気にスパートをかけた。

(……っ!)

 トラックの中に逃れ、右膝を伸ばして苦しむライバルの姿が、前に飛び出たヴァージンの目に焼き付いた。茶髪に黒のショートトップを纏ったその女性こそ、シェターラだった。

(うそ……)

 まだ完全に回復しきっていない、右大腿筋。無理を押して、今年最後となるレースに出たライバルの苦しそうな表情は、あまりにも無残だった。レース前、ヴァージンの脳裏にかすかによぎっていた不安が、無心に走っていたはずのヴァージンの心に響いてしまう。

 勝負に出たはずの足の力が緩んでいることすら、気が付くまでに10秒はかかっていた。ヴァージンのパフォーマンスの衰えに乗じ、ヴァージンのすぐ後ろで走っていたライバルがヴァージンを内側から追い越し、メドゥやバルーナ目がけて走り去る。4位にじりじりと引き離されて、ヴァージンは初めて首を力強く振った。

(抜かれたっ!)

 ヴァージンはそこから懸命にスパートをかける。だが、一度力を緩めたヴァージンが、アカデミーで立て続けに出していた好タイムに届くわけもなかった。懸命にメドゥとバルーナを追いかけるも、ついに3位を追い抜くことすらできず、5000mを走りきってしまった。

(また……、表彰台に上がれなかった……)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ