第71話 私は、絶対トラックに戻るから!(2)
カテーテル治療を終えたヴァージンを整形外科の待合スペースで待っていたのは、マゼラウスとメドゥだった。ヴァージンは、見慣れた二人を前に、しばらく椅子に腰かけることができなかった。
「ヴァージン、すっかり歩けるようになったな」
「おかげさまで、ほぼ普通に歩けるようになりました。それにしても、何も連絡もしていないのに、コーチやメドゥさんが来てくれるなんて思わなかったです……」
「病院から、私のところにも結構連絡あるわよ。代理人の私も、ヴァージンの状況を知らせないと……って思っている空気が、どうも病院にはあるみたい」
そう言うとメドゥは、病院から電話がかかってくるたびに取っていたメモをヴァージンに渡した。そのメモには、ヴァージンのその日の回復具合、体調、表情などが事細かに書かれていた。
(メドゥさん……、私が感じているよりもずっと詳しく私のことをメモってる……)
ヴァージンは、浮かべそうになった涙をこらえて、数ページだけじっくり見た後にメモをメドゥに返した。
「しばらくレースに出られない私のことを……、メドゥさんやコーチがここまで気にしてくれていて……、本当にありがたいです……」
「勿論だ。お前は……、私にとってもメドゥにとっても、世界中にとっても、大事なアスリートだからな。私たちには、お前を早くベストな状態に持っていく使命がある」
「ありがとうございます……」
ヴァージンは、マゼラウスの声に静かにうなずいた。すると、ほぼ同時に診察室のドアが開き、声が掛かった。
「グランフィールドさん、カテーテルの検査が終わりましたので、こちらにお入りください」
ヴァージンは、その声に誘われるままにスッと立ち上がり、そのまま普段歩く歩幅で診察室へと向かった。後からマゼラウスやメドゥが一緒に付いていったが、彼女は何の助けも借りることなく入っていった。
「先程も治療室でお伝えしました通り、グランフィールドさんは血管が増えすぎています」
ヴァージンたちが診察室の椅子に座ると、タグミ医師はカテーテルの中から撮影した画像をモニターに映し、血管が薄く数多く並んでいる部分にカーソルを動かした。ヴァージンの目から見ても、そのあたりだけ血管がはっきりとしていないことが分かった。
「膝蓋腱のあたりで血管が無数に増えすぎて、ほとんど分からない状態になっています。血管から痛みの物質が漏れてしまっているので、トレーニング後に痛むことがあったのでしょう。これはもう、典型的な血管の異常発生になります」
「なるほど、痛みの物質が溢れ出ていたんですね……。ということは、さっきのカテーテル治療は、その血管を少なくしていたわけですね」
「そういうことになります。血の流れを良くして、血管の膨張をもたらすような物質をスムーズに流すことが、今回行った治療の目的になります。ただ、先程も申し上げました通り、1回だけだとまた血管が増え始めてしまいますので、今後も継続的に治療と検査に来て頂く必要があります。エコーを使って痛みの程度を確認して、痛みが残っているようでしたら、またカテーテル治療をすることになります」
タグミ医師は、ヴァージンにそう伝えると、やや体の向きを変えて、マゼラウスやメドゥも見つめながら、静かに話を続けた。
「さて、グランフィールドさんのこの先ですが……、すぐに良くなるというわけではなさそうです。最初に診察した医師から、限りなく重症に近い中等症とありましたので、治療の効果がはっきりと出てくるまで、早くて2週間、遅いと1ヵ月くらいかかります」
「先生。その間は、トレーニングとかどうなるのでしょうか」
ちょうど話が途切れたところで、メドゥがタグミ医師に尋ねる。すると、医師は首を横に振った。
「痛みが引いてきたあたりで、軽く走り出すのでしたら大丈夫です。ただ、今までのように1日に10km、20kmも走るような無理をすれば、すぐにというわけではないですが、再発のリスクは高まるでしょう」
「痛みが引いても、とおっしゃったのは、どういうことでしょうか……」
「痛みが引くときは、痛みの物質が外に漏れなくなる時なのです。そうなって初めて、膝の中で組織細胞が修復されるわけです。なので、トレーニングをして痛みが出たら、そこで止めないとまた元に戻ってしまうのです」
「なるほど、そうだったんですか……」
メドゥが重く返事をするのが、ヴァージンの目に映った。ヴァージンは、咄嗟にタグミ医師に聞き返す。
「私が本気で走れるのは……、今からどれくらい先になりますか」
「1ヵ月、プラス1ヵ月で、おそらく2ヵ月後と見たほうがいいでしょう。ただ、その場合でも、グランフィールドさんのコーチを含めてお伝えしなければならないのは、復帰後もメニューの見直しは必要だということです」
「はい……」
マゼラウスが、これまで聞いたこともないほどの低い声で答えた。すると、タグミ医師はマゼラウスの顔色を伺いながら、静かに言葉を続けた。
「タイムトライアルといった、本番さながらのペースで走るトレーニングを毎日続けてきたかと思います。ただ、少しずつ蓄積していった血管の疲労を、シューズが無理して押さえていたというくらいですので、あまりグランフィールドさんには合っていないメニューだったのかも知れません」
(私は、今まで全くそんなことを思わなかったのに……)
タグミ医師の言葉を聞きながら、ヴァージンはやや目線を下ろした。「フィールドファルコン」を履かなくなって既に1週間が過ぎているが、スリッパを履いたままの彼女は、今でも足元を気にするのだった。
「なので、5000mや10000mを本気で走るのは数日おき、あるいはそれ以上にしたほうがよいでしょう。本番で力を出せるように、それ以外のトレーニング、例えば短距離のスパート練習を増やすなど、部分的に本番を意識したメニューを取り入れるといいかも知れません」
「私はそれで大丈夫だが……、ヴァージンは大丈夫か」
マゼラウスに尋ねられたヴァージンは、首を重く縦に振った。
「私たちも、グランフィールドさんがどれほどの実力を持っているアスリートか知っての上で、このようなアドバイスをしなければならないのは、本当に辛いことなのです。ですが、今は少し我慢したほうがいいと思います。完全に治して、また記録に挑戦すればいいと思うのです。その方が、長く選手を続けられますよ」
(私は……、まだトラックを去りたくない……)
ヴァージンは、タグミ医師の言葉が終わった瞬間、無意識のうちにメドゥに目をやった。ちょうどメドゥも、ヴァージンのほうを向いて考え事をしていた。
(メドゥさんも、35歳でトラックを去った……。私は、記録が伸びる限り引退を考えるつもりはないけれど……、その記録は今までの、ずっと本気で走り続けたトレーニングで築き上げたものであることに間違いはない……)
体では首を縦に振ったヴァージンだったが、彼女にとってこれからも続く「ブランク」は、少し長かった。
その後、ヴァージンは看護師に連れられて病室に戻った。マゼラウスとメドゥも、一緒に病室まで付いてきた。
「ちょっと、今シーズンの残りのレースは無理そうね……」
「メドゥさん……。それは、受け入れなければいけませんね」
2ヵ月は本気で走れないとなれば、その間はトラックに立つこともできない。そのことが分かったヴァージンは、メドゥの言葉に力なく首を振るだけだった。
「ヴァージン、気持ちが落ち込むのは分かる。でも、こういう時だからこそ1日でも早く本気で走れるよう、ベストを尽くさなきゃいけないと、私は思う」
メドゥは、ヴァージンの肩を軽く叩いた。今までほとんど膝の違和感ばかりを抱いていたヴァージンの神経は、ようやく人間のぬくもりを感じた。
「今まで、どんなショックも乗り越えてきたヴァージンだから……。今度もまた、素晴らしい記録でヴァージンのショックを過去に吹き飛ばすの、私は信じてるわ」
「私も……、走れるようになったら、本気で走りたいです……。でも……、できれば今も走りたいんです……」
すると、マゼラウスが彼女の目の前で首を横に振った。
「気持ちは分かるが……、少しだけ待て。今、ズルズル完治が延びていったら、お前の唯一と言っていい相手との勝負もできなくなってしまうからな」
「世界記録……」
ヴァージンは、そう呟いて静かにうなずいた。それから、メドゥやマゼラウスに向かって、軽く頭を下げた。
「すいません……。現実を、ずっと受け入れられなくて……」
「今からでも遅くはないわ。きっと、少し休めばまた元通りの体になるから」
「分かりました」
ヴァージンは、そう言うなり天井を見上げた。止まっていた「時計」の針が動き出すのが、彼女にだけ見えたような気がした。