第70話 耐えられなくなった左膝(7)
普段の数倍もの感覚がする時間が流れた後、入院2日目もようやく夜を迎えた。就寝・消灯は夜9時なので、ヴァージンは退屈なまま明るい室内で残り数時間を過ごさねばならなかった。
(1日で1歩も走らなかったの、何年ぶりだろう……)
時間さえあれば、トレーニングセンターのトラックで自主トレーニングをしたり、自宅を囲んでいるほぼトラックと同じサイズの道路を走ったりしていた。そのことが、ケガを進行させてしまった可能性はあるものの、走るということを彼女は体で覚えてきた。だが、ウォーキングマシンで歩くことしかできないこの部屋では、輝かしい記録さえもかすんでいく。
(私が走れない間に……、プロメイヤさんやロイヤルホーンさん、それにカリナさんに先を越されてしまう……)
ヴァージンは、眩しい天井の中にライバルの姿を思い浮かべた。いま、女子5000mで自己ベスト13分台を叩き出すようなライバルは、故障とは全くの無縁で、ヴァージンよりもはるかに年齢が低かった。それだけに、入院からリハビリに至るまでの期間で先を越される可能性は、往々にしてあった。
ヴァージンは、天井に向かって大きくため息をついた。
(私、今までにないくらい絶望しているような気がする……。何度、絶望から立ち直っても……、すぐにそれを超えるような絶望が訪れてしまう……。どうしたら、私から絶望が消えるんだろう……)
記録が伸びずアカデミー追放の宣告を受けたこと、アメジスタの国籍を貫き通したためにオリンピックに出られなかったこと、アメジスタの債務問題でレースに出場できなかったこと、ウォーレットに大幅に世界記録を破られたこと。代理人に別れを告げられ、やっと手にしたパートナーを失い、祖国が疫病に見舞われ、もう何も起こらないと信じていたところで、アスリートの生命を脅かすようなケガがやってきた。
(私の走りは、アメジスタのみんなに……、いや、世界中の人々に希望を与えるって思われているのに……)
ヴァージンは、「希望」という言葉を何度口にしたか分からないほど使ってきた。そう言ってきた彼女自身が、なかなか光を掴めずにいた。
(これまでは絶望が襲ってきても、私の脚で絶望を跳ね返してきた。でも……、今度ばかりはダメかも……)
その時だった。まだ就寝時間になっていないにもかかわらずスライドドアが開き、その向こうから見覚えのあるシルエットが見えた。
「グランフィールドさん。大丈夫ですか……」
「イリス……、さん……」
病室の眩い照明に照らされるように、たくましい茶髪に、鍛え抜かれた両足を見せる青年、アーヴィング・イリスがゆっくりと入ってきた。イリスは、ヴァージンがこれまでに見たことがないほど震えていた。
「左膝を痛めて、ここの病院に入っていることがニュースになって、居ても立ってもいられなくなりました。陸上選手なのに、膝を痛めたなんて……、その言葉を聞くだけでも悲しくて、グランフィールドさんの顔が……、見たくなったんです」
「イリスさん。私は……、少しだけ歩けます」
そう言いながら、ヴァージンは朝と同じように腕の力で起き上がった。この時は、左膝の痛みもほとんど起こることがなく、まるでイリスの魔術にでもかかったかのような空気が流れていた。
「実は、僕もあの場所にいたんです」
「イリスさんも、あの場所にいたんですね……」
「はい。大学のプロメイヤ先輩が出ているので、部で応援していたんですが……、ゴールの目の前でよろけるグランフィールドさんを見たとき、僕は悲鳴を上げました……。あの瞬間、スタジアムの空気が少しずつ凍り付くような感じでした……。でも、その時は、グランフィールドさんはそんなどころじゃなかったんですよね……」
「イリスさん。あの時は、何が起こったのか全く分からなくて……、記録計に目をやった後は、救護室でドクターと向き合うまで全く覚えていません……。膝ばかり気にしていました」
「なるほどね……」
イリスが、ヴァージンのベッドの脇で中腰になった。起き上がったヴァージンの目とほぼ同じ高さに顔を合わせ、入ってきた時以上に心配そうな表情を浮かべていた。
「でも、あの後僕の前に戻ってきたプロメイヤ先輩は、すごく悲しいことを言いました。僕は許せませんでした。グランフィールドさんに伝えて、気を悪くしなきゃいいんですけど……」
「プロメイヤさんが、何と言ったんですか……」
ヴァージンが尋ねると、イリスは小さく首を横に振って彼女に告げた。
「グランフィールドが故障したから、これで世界一は私になる。世界記録を更新し続けるのも、私になる。だから、グランフィールドじゃなくて私と一緒になれば、私とあなたで、もっともっと幸せな未来が待っている……」
「そんなこと、プロメイヤさんが言ったんだ……」
ヴァージンは、イリスの告げた言葉に何も返せなかった。久しぶりにイリスと正面で向き合っていたのに、イリスの表情さえもプロメイヤの本気の顔に変わっていきそうだった。
「ライバルのケガを笑うようなアスリートなんて、僕は最低だと思うんです。いくら同じ大学で、後輩の僕に興味があるからって言っても、世界中で有名な……、長距離の女王に泥を塗るようなライバルは許したくないです」
「イリスさん……。それは、本人に言ったのですか」
「言ってないです……。言おうとしましたが……、同期にやめろって言われました。僕なんかよりもずっと実力のある先輩に楯突いたら、大学のキャンパスにも入れなくなりそうだからって」
イリスは、ここで少しだけ目線を下に傾けた。するとヴァージンは、静かに首を横に振った。
「昔の私だったら、そう言われた瞬間にプロメイヤさんに言葉で戦っています。でも、この世界に入って……、トラックの外では自分がどれだけ無力か分かりました……。この足以外で、私は戦えるものがないのですから」
「プロメイヤ先輩に……、あんなこと言われたんですよ」
「そうじゃないです、イリスさん。トラックの外で戦えないからこそ、トラックでプロメイヤさんを打ち負かすんです。自分の実力を見せつけるんです。それをできるのが、私たちアスリートです」
ヴァージンがそう答えると、イリスははっとしたようなしぐさを見せた。
「これが、経験の差というものなのかも知れませんね……」
「経験の差というより……、競技に集中したいという、私の本能です。今もそうです」
ヴァージンは、イリスにはっきりとうなずいた。
「昨日入院して、今まで私はずっと落ち込んでいたのですが……、プロメイヤさんにあんなこと言われて、そんなことも忘れそうです。一気に火が付きました。回復して、走りたいって」
「グランフィールドさん……。なんか、僕が来たことで……、思った以上に回復したように思えます」
イリスがそう答えると、ヴァージンはベッドの上からイリスに腕を伸ばし始めた。足が不自由だと分かっていながらも、思わず両足を床に着けたくなるような衝動に駆られた。
「イリスさん……、こちらこそ本当にありがとう。元気が出てきました」
二人が抱きしめあった時、広い病室が遊園地のメリーゴーランドに変わったかのように、二人だけの特別な空気がその中を回っていた。
「グランフィールドさんは、僕にとっていつまでも先生で、僕が追い付かなきゃいけないアスリートの大先輩ですから……」
翌日の朝、朝食が済ませたヴァージンのもとに、フローラがやって来た。
「ヴァージンに、嬉しい知らせを届けに来たの」
「お姉ちゃん、昨日は来なかったから心配してたけど……、今日は嬉しいニュースなんだ……」
ヴァージンはベッドから起き上がった。左膝の筋肉を少し使っても、全く痛みを感じなかった。
「ヴァージンのケガ、たぶん手術にはならないし、ステロイド剤とかの注射を打つこともなさそう。1週間だけ様子を見てからになるけど、運動器カテーテルを使って治療できるって」
「手術しないんだ……。重症に近いとか言ってたから、ずっと入院するのかと思ってた」
「入院期間が長ければ長いほど、ヴァージンの筋力が落ちていくじゃない……。有名選手だからって特別扱いをするつもりはないけれど、アスリート専門看護のポリシーとして、手術だったり、長い期間治療しなければいけなくなったりして身体能力を回復できなくなるより、短い時間で復帰できるようにするにはどうすればいいか動いているの」
フローラがそう告げると、ヴァージンは大きく口を開いたまま強くうなずいた。
「ありがとう……。できるだけ短いルートでトラックに立てるようになるってこと、お姉ちゃん、信じてるから」
同じ屋根の下で育った姉妹の手と手が触れ合った。それは、新たな絶望から立ち直ろうと決めたヴァージンの行く手を照らす、力強い光だった。