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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
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第70話 耐えられなくなった左膝(5)

 32年半の人生で初めてとなるMRI検査は、ヴァージンにとって何もかも未知のものだった。突然真っ暗な空間に閉じ込められ、時折光の帯のようなものが動き、それが痛めた左膝へと向かっていく。決して息苦しくはなかったが、体の中に何か異物が通っているのではないかと思うほどに、中の空気は特殊だった。

「お疲れ様でした。これでMRIは終了ですので、検査結果が出るまで検査室6Aの前でお待ちいただきます」

 病院に着いてから乗り続けている車いすに再び乗せられたヴァージンは、そのまま病院の職員に何も話すことなく指示された場所に向かった。検査室の前までやって来ると、彼女が見慣れた二人の姿が飛び込んできた。

(コーチと……、メドゥさん……)

「大丈夫か、ヴァージン」

 長い間顔を合わせている間柄でも、マゼラウスが一度も見せたことないほどの心配そうな目でヴァージンを見つめている。マゼラウスは、アイシングを縛り付けられている彼女の左膝に触れることはなかったが、時折その部分を覗き込んだ。

「見た目は、全く変わっているように思えない……。ただ、痛そうにしているのに気付かなかった私も悪かった」

「コーチ……。なんか……、そういうこと、もうどうでもよくなってきました。誰が悪いかなんて気にしても、先には進まないですから……。これからどうなるんだろうとしか、今の私には思えないです」

 すると、マゼラウスの隣にいたメドゥがかすかに笑ったような表情を浮かべながら、ヴァージンに告げた。

「検査結果次第だけど……、こうやって普通に話せているということは、骨折じゃないと思う……。私も、引退と同時に入院したけど……、思ったよりも早く病院から出られて、その時にはもう歩けるくらいにまで回復していたわけだし……」

「そうだったんですね……。骨折だったら……、もっと痛いということなんですか……」

「そうね……。骨折だと、見た目だけですぐに分かるから」

 MRIの検査結果が出るまで、まだ時間がありそうだ。メドゥが、ヴァージンの足を見ながら何か過去のことを思い出しているように見えた。

「骨折の瞬間に、居合わせたことがあるんですか」

「そうね。私とほぼ同じ時期にデビューしたアザレアールという選手がいるんだけど、3年目でレース後に病院に運ばれたの。トラックの上で苦しそうに膝を押さえていて、『痛い、痛い』と叫んでいた。私が近寄って足を見たけど、見るからに関節の形が変わっていて……、その後は私が思った通りに疲労骨折だった」

「疲労骨折……。さっき、医務室でドクターがその可能性があるって言っていたような気がします」

「ヴァージン。疲労骨折はないと思うけど、なったら大変。骨を継ぎ接ぎして治したところで、数年はまともに走れない。アザレアールも、泣きながら引退したわ」

「そうなんですか……」

 ヴァージンは、メドゥの目をじっと見ているうちに、かすかな期待と大きな不安が同時に襲ってくるのを感じた。状況によっては、アザレアールと同じようにこのまま引退を余儀なくされてしまう可能性だってあった。


(嫌だ……。まだ走りたい……)


 その時、ヴァージンの耳元に靴の音が響いた。ここ数分、ほとんど人が通らないスポーツ整形外科フロアの廊下に響く靴の音が目立っていたので、彼女がふと顔を上げると、右からゆっくりと一人の女性が近づいてきた。

「お姉ちゃん……」

 歩いていたのは、紛れもなくフローラだった。家の中とは異なり、白い制服に身を包んでいる姿は、明らかに一人の医療センター職員のようだった。

 そして、ヴァージンの目の前で止まり、すぐに中腰になった。それから、すぐに口を開いた。

「心配したんだから、ヴァージン……。やっと顔が見られてよかった……」

「お姉ちゃん……。さっきまでスタジアムにいたのに、今日仕事なの……?」

「世界中で有名なトップアスリートが病棟に来るのに、私が休めるわけがない……。それに、病院から来てと言われなくたって、私は大切な妹を看るために行かなきゃいけないって……」

 ソフトな言葉でヴァージンに告げるフローラは、誰もを救いたいと行動する、一人の看護師の眼差しを浮かべていた。この病院の中にいる誰よりもヴァージンを知っていると分かっていても、フローラは決して感情的な表情を浮かべることはなかった。

「私のために……、来てくれたんだ……」

「そうね……。でも、私はすぐに言われた。身内の看護にはできる限り携わるなって。私は、身内であっても、そうでなくても平等に接するつもりだけど、病院からしてみれば身内の看護はどうしても他と区別されてしまうらしくて……。そこは、アメジスタでもオメガでも同じみたい」

「そうなんだ……。でも、お姉ちゃんはそれでも私のために病院に来たんでしょ……」

 ヴァージンは、じっとフローラの目を見て尋ねた。

「言っちゃえば、医療に携わる人間の本能。それどころか、私は医務室にも入ろうとしたんだから……。でも、選手専用エリアに、ここのロゴをつけずに入ろうとしても止められてしまって……、ヴァージンが救急車で運ばれる時だって、遠くから見つめることしかできなかった……」

「やっぱり、あの時、お姉ちゃんは救護室に向かってたんだ……。スタンドから急にいなくなったから……」

「勿論よ。あの時はもう、居ても立っても居られなかったんだから」

 そう言うと、フローラはゆっくりと腰を上げてヴァージンに微笑んだ。

「MRIの結果、悪くなければいいね……。私は、ヴァージンがすぐに治るって信じてるから」

「私だって、そう信じたいです」

「やっぱり、ヴァージンの使命感はケガしても失われないね……。じゃあ、これからも一人の家族として、毎日病室には行くから……。ヴァージンが回復する日を、私は楽しみにしている」

「ありがとう。お姉ちゃん……。私も、お姉ちゃんの言葉を聞いて元気出てきた」

 フローラは、ヴァージンの声にうなずいて、それからゆっくりと立ち上がった。


 それからしばらくして、ヴァージンは診察室に呼ばれた。一緒にいたマゼラウスとメドゥも、ヴァージンの後に付いて中に入り、医師の説明を受けることになった。

 医師はMRIで撮影した画像を画面上に映し出し、ヴァージンの体が正面を向くなり尋ねた。

「今も、左膝の前のほうは痛みますか?」

「はい……。アイシングはしていますが……、まだズキズキしているような気がします……」

「陸上のトレーニングでも、こういう痛みは出てきますか。走っているときとか、走り終えた後とか」

「最近、トレーニング後にたまに痛くなることがあります」

 ヴァージンが小さな声でそう答えると、医師は小さくうなずき、画像にレーザーポインタを当てながら告げた。

「分かりました。さて、MRIを見ましたが、これは典型的なジャンパー膝ですね。膝の前のほうにある膝蓋腱にたくさん血管が見えていますので、間違いなくジャンパー膝でしょう」

「やっぱり、ジャンパー膝でしたか……。名前は聞いたことあるのですが、どうしてそうなったのですか……」

 ヴァージンの目の前にいる医師は、彼女がそう答えても表情を変えることがなかった。これまでケガとはほぼ無縁のアスリートだと分かっていながらも、医師はゆっくりと説明を始めた。

「トレーニングのしすぎでしょうか。1日に平均して、だいたい何kmくらい走りますか」

「短くても10km、長い日ですと50kmぐらいは走ります。意識しないと、いつも本気で走ります」

「そうですか……。何十kmも本気で走り続けていますと、着地の回数も増えます。足を前に踏み出すたびに、この膝蓋腱のスジが引っ張られて、腱の中に小さな傷ができるわけですね。その傷を修復するために血管が増えて発症してしまったのです」

 ヴァージンは、何かを言おうとしたが言葉にならなかった。彼女の後ろから、マゼラウスが「まずかったかな」と小声で呟くのが聞こえた。医師は、その言葉を待ってからヴァージンに告げた。

「つまり、走っていることが問題だったのですか……」

「そうとは言えませんね。むしろ、トレーニングが今の体に合っていないでしょう」

「体に合っていない……。今まで、一度もそんなこと感じてないです……」

「そうですか。ただ、身体能力の高さで感じなかった可能性もありますし、そうでなくても、体に合っていないような負荷を、無理やり吸収していたと思うのですよ」

「無理やり……、吸収していた……」

 そう言うと、医師はヴァージンの足元を見つめた。そこで初めて、彼女は足下にスリッパを履かされていることに気付いた。

「病院に運ばれた時に履いていたシューズ……、おそらく競技用シューズだと思うのですが、反発力が高く、踏み出す時にほとんどパワーを使わなくて済むようなものだったのです。それが、膝の負担を無理に和らげてしまっていて、他のシューズを履いてトレーニングした場合よりも、発症が遅れたと思うのです」

(「フィールドファルコン」が……。たしかに、トラックを踏んでいる感触すら消していた……)

 足の力全てをスピードに変えるため、着地の際に余計な力を使わないようにする。それこそが「フィールドファルコン」の最大の特徴だったが、逆にそれが痛みの発見を遅らせてしまったのだった。

 ヴァージンは、足元を軽く見て、それから再び医師に顔を戻した。

「それで、私の症状はどれくらいなのでしょうか」

「そうですね。軽症のときに無理やり押さえ続けてしまったので、今の時点では限りなく重症に近い中等症ですね。手術になるかは、1週間ほど入院してから決めましょうか」

「入院ですか……」

 その二文字を聞いた瞬間、ヴァージンは小さくため息をついた。横に待機していた看護婦が、彼女の隣に再び車いすを用意した。

「症状が改善していれば、トラックに戻れる日もそう遠くはないですよ。膝蓋腱が断絶していたら、それこそ選手生命の危機ですからね」

「そうですか……」

 ヴァージンは医師から励まされるものの、その言葉に素直に首を縦に触れなかった。

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