第70話 耐えられなくなった左膝(4)
(あと少しなのに……!)
膝の中で何かが破裂したような感触が、突然ヴァージンを襲う。5000mを駆け抜けることだけに集中してきたはずの彼女の意識が、突然膝の痛みという別次元の思考に切り替わった。右足をトラックに叩きつけても、次の左足を前に出す勇気はなかった。ゴールラインを睨みつけるヴァージンのペースがガクッと落ち、もはや彼女はレースを続けているか分からなくなっていた。
(痛い……。痛い……っ!)
それでも、ヴァージンは何とか左足で軽くトラックを叩きつけ、続いて最後の右足を全ての力を使って前に出し、ゴールに飛び込んだ。そこで崩れるように倒れこんだ。
13分50秒10 WR
(50秒10……)
ヴァージンは、その目で世界記録を1秒も見つめることができなかった。レースを終えたという意識すらなかった。係員に抱えられながら芝生の上に移されて、そこでようやくその身に何が起きたか、彼女は気付いた。
(左膝で、何かが切れているような気がする……。筋をやってしまったかも知れない……)
トレーニングでタイムトライアルを終えた直後に、ヴァージンが時折感じていた左膝前方の痛みは、時間が経てば忘れてしまうほどの小さな痛みだった。だが、この日は膝の中で何かが爆発でも起こしたかのように、普段の何百倍もの痛みが襲っていた。
(甘く見ていた……。もっと早い段階で、誰かに言えばよかったのに……)
いつまでも芝生から起き上がることのできないヴァージンに、「WR」の文字を見たときの歓声を上回るほどの心配の声がスタジアムに響いた。ヴァージンと2秒差で駆け抜けたカリナや、最後に失速したプロメイヤからも「大丈夫か」と声を掛けられたような気はしたが、それ以上に観客の声が悲鳴に変わるのを彼女は感じた。
――大丈夫かよ、ヴァージン!
――せっかく世界記録を更新したのに、世界競技会をケガで出られないなんて考えたくないよ!
――嘘だって言ってくれよ……!長距離界のスーパースターなんだからさ!
(そうは言っても……。痛みは変わらない……。さっきからずっと痛い……)
ヴァージンは、両手を使って体を起き上がらせた。だが、その手でさえ、すぐに左膝の痛みをかばうかのように動き出し、芝生の上で膝を抱えたまま動けなくなってしまった。
(起き上がれない……。ここまで痛むのは……、生まれて初めてかも知れない……!)
ヴァージンは、どよめくスタンドを一目見た。ちょうどその時、フローラが客席から身を乗り出して、懸命に叫んでいる姿が目に映った。どよめきに紛れて聞こえなかったが、口の動きははっきりと「ヴァージン!ヴァージン!」と叫んでいるように見えた。
(お姉ちゃん……。こんな姿を見せることになっちゃうなんて……、思わなかった……)
ヴァージンはほんの1秒だけ下を向き、それから再びスタンドに目をやった。だが、そのわずか1秒の間に、客席からフローラの姿が消えていた。
(お姉ちゃん……?もしかして、お姉ちゃん……、ここまで来てしまったり……)
ヴァージンは一度首を横に振った。彼女がサブトラックに向かう時、フローラがスタジアムの医療体制をいろいろ観察していたことや、オメガ国立医療センターの職員がスポーツドクターとしてスタジアムにやって来る場面をはっきりと見ていたことを考えれば、フローラが使命感から医務室に向かう可能性も否定できなかった。
(どうしよう……。せっかくレースに来てくれたお姉ちゃんに、迷惑を掛けてしまう……)
そうヴァージンが思った時、再び左膝から痛みが湧き上がってきた。両手で左膝を押さえたまま、彼女はどうすることもできなかった。
「大丈夫ですか。ここから歩けますか?もし歩けないようでしたら、ドクターのいる医務室にお連れします」
出場選手全員が5000mを駆け抜けた直後、係員がヴァージンの正面で中腰になり、その肩を二度、三度と叩いた。ヴァージンは、細々とした声で「医務室にお願いします」と言うことしかできなかった。
ヴァージンは、担架に乗せられて医務室まで運ばれた。これまで数多くのレースを経験してきたトップアスリートであっても、スタジアムの天井をここまでまじまじと見たのは初めてだった。
「グランフィールド選手に、左膝のアイシングを」
既に症状が伝えられているのか、それとも大会でよくある光景なのか、ヴァージンが腰掛けられた椅子の横には氷袋がいくつか置いてあり、彼女が座った直後からドクターが付きっ切りで左膝に氷袋を当てる。レースの前から分かっていた通り、ドクターの名札にはオメガ国立医療センターのロゴが輝いていた。
だが、オメガ国内でトップクラスの病院が大会の医務を担当しているとは言え、激しい痛みに覆われたヴァージンの左膝は、気休め程度の気持ちよさしか感じられなかった。
(アイシングをしても……、ほとんど気持ちよくならない……。本当に、故障したかも知れない……)
あまりの痛みに、ヴァージンは時折目をつぶるしかなかった。それから再び目を開くと、彼女の看護をしていた医師が「頑張れ」と声を掛けていた。
(目をつぶったのに……、心配そうな表情一つ見せない……。病院って、こんなところなのかも知れない……)
全く効かないアイシングの中で、ヴァージンは次第に医師の表情に集中しようと思い始めた。いつまでも左膝を気にしているわけにはいかなかった。だが、数分ごとに氷袋を変えるとき、どうしても彼女の左膝は悲鳴を上げ、反射的に両手で痛みを覆ってしまうのだった。
医務室に運ばれて30分は経っただろうか、先程メインスタジアムの外で見たスポーツドクターがヴァージンの前に座り、左膝から氷袋を外した。そして、真剣そうな表情を浮かべたまま、ヴァージンに告げた。
「グランフィールドさん……。ここまで痛みが引かないということは、最悪の場合、重度のジャンパー膝になってしまったかも知れませんね……」
「ジャンパー膝……、ですか……」
ヴァージンは、ドクターから告げられた可能性、すぐに答えた。走高跳をはじめとした跳躍系の陸上選手や、バスケットボールなどジャンプをすることの多い選手から、名前だけは聞いたことがある。だが、これまで故障と無縁だったヴァージンは、ジャンパー膝がどういう症状なのかあまりよく分からなかった。
「ということは、私、どうなってしまうんですか……」
ヴァージンは、恐る恐るドクターに尋ねた。すると、ドクターが彼女の膝を軽く見てから、静かに告げた。
「いま、立って歩けますか……?そうであれば、じきに落ち着くとは思いますが」
「いえ……、立つと……、なんかスジが伸びて……、そこからまだ痛みを覚えます……」
ヴァージンはそっと立とうとしたが、その動作だけで左膝に痛みが走る。走るどころか、歩くこともできなそうだ。
「なるほど……。もしかしたら、ジャンパー膝ではなく疲労骨折を起こしている可能性もあるかもしれませんので、このまま救急車で病院に行き、MRI検査を受けたほうがいいかも知れませんね」
「病院……。もしかして、そちらの病院ですか……」
聞くまでもなく、ヴァージンは分かっていた。彼女は、ここから歩いて20分もかからないような場所にあるオメガ国立医療センターに連れて行かれ、フローラの職場にしばらく滞在することになるのだった。
(完全にお姉ちゃんに迷惑を掛けてしまう……。しかも、お姉ちゃんはたしか、アスリート専門看護チーム……。こんな形で、お姉ちゃんに会うって分かったら、お姉ちゃんも悲しむかもしれない……)
膝の痛みに夢中になって、ヴァージンの目から涙が一粒流れ落ちたことに気が付くまで、普段の倍以上の時間がかかった。何としても姉の職場に行きたくない、と言おうとしても、その声に力はなかった。
「大丈夫ですよ、グランフィールドさん。必ずまた、この場所に戻ってきて……、世界があっと驚くような走りができるよう、病院はサポートしますから。絶望から立ち直った選手、うちでも多く看てますので」
「ありがとうございます。治るって、信じます……」
ヴァージンの声にすら、力はなかった。やがて救急車がスタジアムに到着し、再び担架に乗せられたヴァージンは救急車の中に閉じ込められた。レーシングトップスのままの彼女にピンク色のブランケットが掛けられ、救急車で同行する看護スタッフが先程よりも大きな氷袋を痛みの残る膝に押し当てる。そして、けたたましいサイレンの音とともに、オメガセントラルの幹線道路をタクシーよりもはるかに速いスピードで駆け抜けていった。
(私……、これからどうなるんだろう……)
救急車の天井に次々と映し出される、高層ビルの窓の形は、トラックの上で「生きて」きたと言っていいヴァージンにとってはあまりにも無機質で、別世界を思わせるような光景と言ってよかった。