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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
433/503

第70話 耐えられなくなった左膝(3)

「On Your Marks……」

 スタートの時を告げる低い声がスタジアムを包み込んだ時、ヴァージンは進むべき道から1秒だけ目を反らし、無意識に正面スタンドを見つめた。あまりにも人が多すぎて、そこにいるはずの姉フローラの姿をはっきりと見ることはできなかったが、それでもそのどこかで彼女を応援しているという確信だけは、張り詰めた緊張感の中に漂っていた。

(私は、お姉ちゃんの前で世界記録を出す……。トレーニングでは50秒を切れたんだから……)

 最速女王は、普段のスタート前と変わることなく落ち着いていた。そして、正面を向き、心でうなずいた。

(よし……)

 号砲が鳴り、すぐ右からプロメイヤの肌がヴァージンの視界に映った。ヴァージンの意識するラップ68秒よりもわずかに速いペースで、コーナーの内側に躍り出ようとヴァージンより前に出ようとする。オリンピックで敗れたという悔しさが、それから10ヵ月も経った今でも腕の動きににじみ出ていた。

 だが、プロメイヤの胸から少しずつ、別のライバルの姿が映り始めていた。コーナーを回っているときには、ほとんどプロメイヤが死角になって見ることができなかったが、プロメイヤのストライドの間から、そのプロメイヤを上回るようなペースで前に出ようとしているライバルがいるということだけは分かった。

(カリナさんか……、それとも私の知らない強敵が出ているか……)

 ヴァージンは、ラップ68秒のペースを意識したまま直線に入ろうとした。そこでついに、プロメイヤの先にカリナのサーモンピンクの髪を見たのだった。カリナが、直線に入るなりプロメイヤを軽くかわし、一気に先頭に立つ。ヴァージンは、その目でカリナのペースを確かめた。

(ラップ67秒どころじゃない……。カリナさん、66.7秒か、66.8秒で走っている……)

 アムスブルグでメリナが見せた、中距離走のフォームでは、ラップ67秒に迫るような走りだった。だが、室内と室外の違いはあるにしても、カリナがそれをさらに上回るペースを見せていた。カリナの息遣いは、メリナの見せたもの以上に速く、ゆったりと息遣いをする長距離走スタイルとは完全に決別したかのような動きだった。

(カリナさんは、今まで前に出たライバルを追うようなスタイルだったはず……。でも、今日は目の前にライバルを出さないような走り方をしている……。作戦も走り方も、何もかも変えてきた……)

 それでもヴァージンは、ラップ68秒から無理にペースを上げようとはしなかった。2周目、3周目からペースを上げればどういうことになるか、長年の経験で分かっていた。

 だが、彼女はそれと引き換えに嫌な予感を感じ始めていた。

(プロメイヤさんは、カリナさんのペースに刺激されるか、されないか……)

 ヴァージンよりもはるかに経験の浅いプロメイヤは、これまでヴァージンを意識するレース展開を狙ってきていた。それよりもはるかにペースの速いライバルを前にしたとき、プロメイヤの意識する対象が変わる可能性もある。そうなったとき、ヴァージンとそれほど公式の自己ベストが変わらず、スパートの力もあるプロメイヤが、カリナ以上の脅威になるのだった。

(プロメイヤさんが、どう出てくるか。それによっては、ペースを上げるのを前倒しにするかも知れない……)

 ラップ68秒をわずかに切るようなペースで、プロメイヤは走り続けていた。これまでのところは、特に目立ったペースアップもなさそうだ。それどころか、時折振り向いて、ヴァージンのペースを確認するのだった。

 ヴァージンの目に映るプロメイヤの表情は、いずれ始めなければならないスパートを待つかのようだった。


 上位陣がそのままペースを変えることなく、レースは残り2000mの勝負に突入した。ヴァージンの3000m通過タイムが、すぐ横の記録計に目をやる限り8分30秒。プロメイヤこそ、ヴァージンよりも2秒上回るタイムだが、その時カリナは既にコーナーの出口に差し掛かっていた。

(3000mで10秒近く差が付いている……。60mから70mぐらいの差……)

 ここまで先頭のライバルに離されたことは、ヴァージンにとって久しぶりだった。同じ長距離走の走り方を見せながらも、先行逃げ切り型と言われていたメリアムやウォーレットのいた頃には、スパート前に大差をつけられることはあった。だが、二人とも既に表舞台にはいない。ここ数年は、ヴァージンを含めてラップ68秒前後で先頭集団がペースを作ることが多くなっていた。

 スパートまで、残り2周。トラックで軽く弾む「フィールドファルコン」が、照準をカリナに合わせたかのように、ヴァージンの両足に激しい力を届けている。

(いつもより早い段階から勝負をしないといけないか……)

 その時ヴァージンは、先日トレーニング中に出した、非公式ながらの自己ベストを思い出した。その時は、スパートに入る直前、ラップ68秒よりも少しだけ速いペースで走っており、11分18秒台という4000mの通過タイムを考えてもそうしているのは間違いなかった。

(4000mを11分20秒に通過したら、50秒を切るのは難しい……。だから、どこかで少しだけ速めよう)

 ヴァージンが心の中でそう誓った時、15m近く前を行くプロメイヤの腕の振りが突然大きくなった。それは、ペースアップするサインだった。3400mを過ぎたあたりで、プロメイヤがついにカリナを意識し出したのだ。

(私も……、プロメイヤさんの後を追うしかない……!少しタイミングを早めるなら、大丈夫……!)

 残り4周、ヴァージンのシューズがやや強くトラックを蹴り上げた。それまでラップ68秒を守っていたテンポが、やや短くなる。相変わらずラップ66.6秒ほどのペースでリードを広げているカリナを、ヴァージンとプロメイヤが、ともにラップ67秒を切るようなペースで追いかけていく。

(後は、カリナさんにどれだけパワーが残っているか……。ずっと中距離走の走りを見せているカリナさんが、そう簡単に私の世界記録を破れるとは思えない……)

 レース前に、ヴァージンに向けてトレーニング中の自己ベストをはっきりと告げたカリナが、ここからさらにペースを上げる可能性は残されている。だが、ヴァージンの目にはカリナにそこまでの余裕はないように見えた。

 逆に、ヴァージンの足は全く疲れておらず、「フィールドファルコン」の誇る戦闘力に比例するかのように余裕を見せていた。このところトレーニング後に気になっていた左膝も、全く重くなっていない。

(おそらく、勝負しなきゃいけないのは、カリナさんじゃなくてプロメイヤさん……)

 ヴァージンとカリナの間に広がっていた差が、4000mが近くなるにつれほとんど変わらなくなっていた。そして、体感で11分19秒より少し前で4000mを駆け抜けたヴァージンのスパートが始まった。

(カリナさんとの差が70m近く……。プロメイヤさんとは12m……。プロメイヤさんとの差は、あと600mはほぼ変わらない……。それまでに、カリナさんにできるだけ迫っておきたい)

 ラップ65秒にまで高まったヴァージンのペースが、先頭を行くカリナとの差を少しずつ詰めていった。逆にカリナは、残り1000mから特にペースを変えることはなかった。

 ヴァージンは、コーナーに差し掛かった時にカリナの姿を確かめたが、前に出ればその時は食らいつくような、普段と同じような表情を見せている。そして、カリナの全身に次の攻撃を仕掛けるだけの余裕は、ほぼなかった。

(いつも通りのスパートを見せれば、カリナさんには間違いなく勝てる!勿論、プロメイヤさんにだって!)

 4200mから、ヴァージンはさらにスピードを上げ、ラップ61秒ほどのペースでトラックを駆け抜けていった。その時、ヴァージンの目にライバルの背中が少しずつ迫ってくるのを感じた。

(プロメイヤさん……、苦しそう……)

 4400mを過ぎた直後のコーナーで、ヴァージンはプロメイヤの横に躍り出た。過去2戦は最後の1周までヴァージンの手が届かなかった相手だっただけに、予想外だった。

(カリナさんにつけられた差に、プロメイヤさんが自分の走りを失ってしまった……)

 今となっては極端に早いペースアップでない限り、最後に失速することのないヴァージンも、デビューして間もない頃は早い段階から先頭を意識しすぎて、気が付けばスパートが全く伸びないことがあった。ヴァージンがプロメイヤの横顔を見る限り、それはかつてのヴァージンと同じだった。

(あとは、カリナさんと……、13分50秒という壁……!)

 ヴァージンがやや遠くで見た記録計が12分47秒を告げたとき、最後の1周を告げる鐘が鳴り響いた。そこでカリナがかすかにペースを上げるのが分かった。

(カリナさんは、本気で世界記録を狙っている……!)

 その瞬間、「フィールドファルコン」からこれまでにないほど強いパワーが全身に溢れていた。まだ40m以上先を行くカリナに立ち向かう、強い意思だった。

(トップスピード……!)

 残り1周のラインのやや手前で、ヴァージンは一気にペースを上げた。トレーニングでも完全に習得した、ラップ55秒の風を全身で感じ、ヴァージンは「フィールドファルコン」の「翼」に乗って飛ぶような走りを見せる。

(カリナさんは、ラップ64秒を少し切るくらい……。大丈夫。私には、前に出るだけの力は残っている!)

 ヴァージンの全身が、カリナとの距離を一気に縮めていく。そして、最終コーナーを回ったとき、ヴァージンの手の届くところにカリナの背中が迫った。気配に気付いたカリナがヴァージンに振り向くが、その表情は険しかった。

(もう、私は記録との勝負に集中すればいい)

 残り50mでカリナの前に出たヴァージンは、トップスピードのままゴールに向けて走り続けた。早くもヴァージンは、13分50秒を切る新たな世界記録を確信していた。


 だが、あと3歩でゴールラインを駆け抜けようとしたとき、ヴァージンの左膝を強烈な痛みが襲った。

(……っ!)

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