第70話 耐えられなくなった左膝(2)
オメガセントラル選手権のレース当日を迎えた。朝、ヴァージンが目覚めると、リビングにはフローラが待っていた。テーブルの上には、前日の夜にはなかった花瓶が置かれており、そこには一凛の赤い花が差してあった。
「今日は、私の前でヴァージンが記録に打ち勝つ日だから、テーブルの上にグラジオラスの花を用意したわ」
「グラジオラス……。たしか、花言葉が『勝利』とかいう花ですよね……」
「よく知ってるじゃない、ヴァージン。アメジスタには売ってなかったけど、昨日帰りにフラワーショップに行ったら、たまたま店の奥に飾ってあって、妹がアスリートですって言ったら1輪だけ売ってくれた」
フローラがうなずきながらそう言うと、ヴァージンはフローラから花のほうに視線を動かし、力強く咲く花をその目に焼き付けた。
「お姉ちゃんがそこまでして買ってきた花……、なんかいつも以上に記録を出せそうな気がする。私はなかなかフラワーショップに行くことはないけど、お姉ちゃんはよく行くんでしょ」
「あまり行かないかな……。私は、自然に咲いている花に目をやるけど、オメガセントラルは人工的に植えられたものしか街中になかったから、どうしてもフラワーショップしか行く場所がなかったの」
「なるほど……。でも、お姉ちゃん、この日にこんな花を見せるなんてセンスある」
ヴァージンがそう言うと、フローラはそっと笑ってみせた。
「そう言ってもらえて、嬉しい。あとは、今日、私の前でヴァージンがどれだけの記録を出してくれるかね」
「出せるって。ここまでパワーもらえたんだもの」
そう言うと、ヴァージンはクローゼットに向かい、この日使うものを取り出した。レーシングトップスと、トレーニングウェア、薄手のパーカーと、慣れた手つきで彼女はバッグの中にそれらを入れていく。その様子を見ていたフローラが、ヴァージンの真横で中腰になりながら尋ねる。
「ヴァージン、朝ごはん食べたらもう行くの……?たしか、レースは14時半とか書いてあったような気がする」
「レース当日は6時間前とか2時間前とか、レースから何時間で効率よく動くのが、アスリート。私は、そのスケジュールで、スタジアムに入る時間も決めちゃっている。スタジアムに行ってすぐ戦うことになったら、空気や気候に慣れないわけだし、気持ちも落ち着かなくなる」
「そうなのね……。ヴァージン、勝負の日は目が違うって父さんが言っていたけど、冗談じゃなかったんだ」
フローラが軽く笑う中、ヴァージンはその言葉をいつジョージに言ったかを思い出すことができなかった。それから一呼吸置いて、ヴァージンはフローラを見ながらそっと告げた。
「私は遅くても、10時半には着きたい。一緒に行くならその時間だし、その時間だったら、男子100mとか有名選手の出ている種目も見ることができる。お姉ちゃんの持っているチケット、1日中使えるわけだし」
「そうね……。私の持っている指定席は、開門からいても何も問題がないものね」
ヴァージンは、ここでフローラの手に持っているチケットに目をやった。南1列72という番号がチケットの端に書いてあった。オメガセントラルのスタジアムで南1列目ということは、ゴールのすぐ目の前だった。
「それにしても、お姉ちゃんの持っているチケット、一番いいところのような気がする……」
「ヴァージンも気付いたのね……。ヴァージンを応援したくて、つい奮発しちゃった。オメガに来たばかりで、これから責任のある仕事を任せられるんだから、こんな時ぐらいいいかなと思って……」
「お姉ちゃんの意外な側面を見たような気がする……。だったら、今日は声が嗄れるくらい応援していいから」
「分かった。楽しんでくる」
フローラは、その後1時間もしないうちにヴァージンよりも早くスタジアムに向かった。ヴァージンがスタジアムに着くと、予定通り競技が始まっており、ゴールした瞬間や記録を出した瞬間に大きく盛り上がるのが、彼女の耳にもはっきりと聞こえてきた。
(初めてこの場所に行くフローラも、客席で盛り上がっているのかな……。でも、前にビルシェイドさんが初めてスタジアムに行った時、5000m以外はほとんど黙って見ていたような気がする……)
様々な娯楽施設やイベントのあるオメガで、数ヵ月過ごしてきたフローラは、6日間しかオメガに滞在しなかったアメジスタの青年ビルシェイドと違い、楽しみ方も分かっているはずだ。しかも、病室で祈るようにしてオリンピックを見ていたと聞いている。それでも、初めてとなる臨場感に飲み込まれていないかが、スタジアムに入った瞬間気になるのだった。
(でも、今日はお姉ちゃんを気にし過ぎて上がっちゃうわけにもいかない……)
何度か首を横に振りながら、ヴァージンはゆっくりとした足取りで選手受付へと向かった。そこに書かれていた、女子5000m出場選手一覧を見た瞬間に、ヴァージンはその目を疑った。
(世界競技会まで2ヵ月ぐらいしかないのに、ライバルになりそうな選手が二人いる……)
ヴァージンは、軽く瞬きをして、再び選手一覧に目をやった。そこにはプロメイヤとカリナの名前がはっきりと見えた。プロメイヤは、まだオメガスポーツ大学の学生ということもあり、オメガ国内で行われる国際レースに出場することが多いと分かっているが、カリナは予想外だった。
(カリナさんは、おそらくランニングフォームを変えた後、初めてアウトドアレースに出るはず……。今までをはるかに上回るタイムを出してくるかもしれない……。そうなったら……、面白くなってくる!)
ヴァージンは、ロッカールームに向かう間、心臓の鼓動が少しだけ速くなっていくのを感じた。ただでさえ姉フローラが見ている特別なレースであるにもかかわらず、トレーニングで13分50秒を切った直後の自信、そしてより戦闘意欲の湧くメンバーで臨むことが、ヴァージンの脳裏で楽しさを増幅させているのだった。
ロッカールームで着替えを済ませると、ヴァージンはいつものようにサブトラックへと向かった。だが、メインスタジアムを出たとき、ちょうど彼女の目にトラックの外周を歩くフローラの姿が飛び込んできた。
「お姉ちゃん……、こんなところで何してるの……」
「ヴァージン。やっぱり、仕事柄、医務室とか気になっちゃって……。さっきも、男子100mでゴール直前に転倒した選手がいて、救護が出たから……、こういう場所では医療も活躍するのかなって」
「そうね……。アスリートはケガと隣り合わせだから、スタジアムには救護室もあれば、専門の外科医もいたりする。でも、選手専用エリアにあることが多いから、一般だと入れないけどね……」
「そうなんだ……」
手短に説明したヴァージンに、フローラは静かにうなずく。だが、すぐにフローラがヴァージンから目を反らした。その目の先には、選手専用エリアに向かう、明らかに選手には見えない男性の姿があった。
「うちの医療センターが、このレースのスポーツドクターをやっているみたい……。うちのロゴが見えた」
「お姉ちゃんの……、医療センターがやってるんだ……」
そのようなことを、これまで一度も気にしてこなかったヴァージンは、全く違う目線で見つめるフローラをただ見つめるしかなかった。
「そうね。うちは、大きい医療施設だから、大会でのドクターも積極的にやっていると聞いた。私は看護師グループに入っていて、ほとんど交流はないけど、それでも医療と看護は切っても切れない関係だから」
「たしかに……、切れないですね……」
ヴァージンがそう呟くと、フローラは思い出したように一歩後ろに下がった。
「ごめんね、トレーニングの邪魔をして。時間になったら、客席に戻って応援するから」
「分かった。お姉ちゃんを、スタートラインから探すから」
そう言うと、ヴァージンはフローラにうなずいて、やや小走りにサブトラックへと向かった。
やがて、勝負の時が近づいてきた。
メインスタジアムの集合場所に向かうと、ヴァージンよりも先にカリナが集合していて、サーモンピンクの髪をスタジアムに流れる風になびかせていた。
「グランフィールド、久しぶり」
「カリナさん、お久しぶりです。オリンピック以来ですね」
「たしか、そう。でも、1年前の私は、もうここにいないから」
ヴァージンの目から見えるカリナの体つきは、全く変わっていない。だが、声のトーンが落ち着いていることは、この短い間でさえ気付いた。最初出会った時は、姉メリナと真逆の元気そうな少女という印象だったが、24歳になったカリナが少しずつ大人の女性に近づいている印象を受けた。
ヴァージンがその話し方を気にする中で、カリナは静かに告げた。
「私は、この1年でフォームを変えた。グランフィールド、私のトレーニングでの非公式ベスト、聞きたい?」
「私も言わなきゃいけないのでなければ、ぜひ聞きたいです」
「分かった。トレーニングの自己ベストは……、13分50秒04。世界記録より上だから」
カリナがそう言い放った瞬間、ヴァージンの背後で息を飲み込む音が聞こえた。声からして、プロメイヤだった。ほぼ同じくして、ヴァージンもカリナを細い目で見た。
(カリナさんは……、より強くなっている。私は、本気のスピードを見せつけるしかない)