第70話 耐えられなくなった左膝(1)
「ただいま。ヴァージンのほうが早かったのね」
「お帰り……。なんか、お姉ちゃんの表情が明るいけど、何かあったの?」
姉フローラがスタジアムに足を運ぶことになったオメガセントラルでのレースまで1週間をある日のこと、珍しくヴァージンより遅く帰ってきたフローラが何かを伝えそうな顔をしていたので、ヴァージンはリビングに入ってくるフローラをその目で追った。それから数秒後、研修用のカバンを置いたフローラが静かに口を開いた。
「実は、私の配属先が決まったの。看護師グループの副リーダーに採用するって前に言ったけど、それと並行して、アスリート専門看護チームのリーダーになったの」
「アスリート……専門……?なんか、私たちのものすごく身近なところに配属されてる気がする……」
「まぁ……、身内にトップアスリートがいる時点で、早くからここのポジションは決まっていたみたい」
「私で決めたわけ……」
ヴァージンは、フローラに苦笑いする。プロデビューして15年以上トラックを走り続けてきたが、病院の世話になったことはほとんどなく、アスリート専門の看護と言われても、他の選手から聞いた知識しかなかった。
「お姉ちゃん、私はほとんどケガとかしたことないから、そういうところってあまりよく分からない」
「そうなんだ……。選手がケガしたときに入る、主に整形外科を中心とした病棟で、アスリートの復帰を後押しするのがメインみたい。国立医療センターという名だけあって、今までに何人のトップ選手を看護したか分からないとか言っていたわ」
「つまり、有名選手は国立医療センターに入ってくるということ……」
「……と言うより、スポーツ専門の入院病棟がオメガでもそれほどなくて、復帰までサポートできるところだと、やっぱりここに集まってしまうのかな……」
フローラは少し首をかしげながら、ヴァージンにそう告げた。
「なるほど……。私も一歩間違えれば、お姉ちゃんのところに行ってしまう……。考えたくないけど」
「私だって、ヴァージンが入院するなんて考えたくない。できれば……、ずっとケガせず戦ってほしいもの」
ヴァージンにはフローラの笑う表情が、身内であるにも関わらず、病院の看護婦が現場で見せる微笑みを持った笑顔に見えた。これまでヴァージンはアメジスタに戻ったときに、何度かオフの表情のフローラと顔を合わせているが、ここまで看護婦の表情を浮かべたフローラを見たことがなかった。
(私は、なるべくならお姉ちゃんのお世話になりたくないな……)
ヴァージンは、フローラに何度かうなずきながら、心の中でそう言い聞かせた。
「オメガ国立医療センターのアスリート専門看護チームなんだ……」
翌日、トレーニングセンター近くのカフェでメドゥとテレビCM依頼について打ち合わせがあったので、ヴァージンはついでにと思い、フローラの配属先について告げた。
「メドゥさん、もしかしてお世話になったことがあるのですか……」
「それはもう……。あの膝の故障でお世話になったわ……」
メドゥは過去を思い出すかのように、ヴァージンにゆっくりとそう告げた。メドゥは7年前、フェネスでの世界競技会で、レース中にヴァージンの目の前で崩れ落ち、膝を故障して現役生活にピリオドを打ったのだった。
「サイアール共和国の病院には入らなかったんですね……」
「遠征先の病院に入るのは、余計な滞在費がかかるし……、やっぱりオメガに戻って治療したほうが、医療も進んでいるでしょ。だから、私は空港からそのままタクシーでオメガ国立医療センターに向かったわ」
メドゥは、そこで小さくうなずく。メドゥの時代にも、真っ先に選ばれるほどその病院は有名だったという事実に、ヴァージンは驚きを隠せなかった。
「……ということは、メドゥさんのライバルもそこに行ってたってことですか」
「そう。私のコーチもあの病院に入院したことがあるし、私がプロデビューした頃のトップ選手も、半分くらいはあの病院に入っている。オメガ国内ではそこしかない、というくらい有名ね」
「そういうところに、姉は勤めるわけですね……」
姉の勤務先が想像以上に有名だったことに、ヴァージンはやや声を低くして返すことしかできなかった。すると、メドゥは一度首を横に振ってからヴァージンに告げた。
「大丈夫。ここまで大きなケガなく戦い続けているヴァージンは、きっとあの病院の世話にならないから」
「私だって、姉にケガを見せたくないです」
ヴァージンは、やや力強くメドゥに言葉を返した。だが、二日続けて「悪魔の誘い」を聞いた彼女の身体は、その時が来ることを知らず知らずのうちに待っているのだった。
(お姉ちゃんの見ている特別なレースで、41回目の世界記録を出す……。できれば、50秒を切りたい!)
オメガセントラルでのレースが数日後に迫り、ヴァージンがマゼラウスの前で行う5000mのタイムトライアルも、レース前はこの日が最後となっていた。
4000mから一気にスパートを始めたとき、珍しくマゼラウスが後ろから大きな声を掛けた。
「11分18秒で4000m通過したぞ!今日は出るかも知れない!」
(4000mを11分18秒……!)
本番と違って、トラックの内側に記録計がなく、ヴァージンは体感で自らのタイムを刻むしかなかったが、その体感より2秒以上速いタイムを告げられた時、彼女の脚ははっきりとした確信に包まれた。
(いつものスパートを見せれば……、もしかしたら今日はトレーニングで50秒切りを出せるかも!)
ラップ65秒のペースから、4200mを過ぎたあたりでさらにギアを上げてラップ62秒ほどのペースまで駆け上がる。目の前にライバルとなる選手が誰も走っていない中でも、彼女の脳裏には13分50秒の壁を前に足踏みしている彼女自身がはっきりと見えていた。
(今日の私なら……、超えることができる……!)
両足に携える「フィールドファルコン」をトラックに力強く叩きつけ、最後の一周に入ったヴァージンが一気に加速する。ほぼ無風状態のトレーニングセンターでさえ、そのスピードがはっきりとした追い風になるのを彼女は感じた。体感的に、4600mの通過は12分54秒。ラスト1周をいつものラップ55秒で駆け抜ければ、昨年のオリンピックの直後から抱いていた夢を、形にすることができる。
「過去最高のタイム、出るかも知れないぞ!」
最後のコーナーを回った瞬間、もう一度マゼラウスの後押しする声がヴァージンの耳に響く。見えてきたゴールラインに向けて、彼女は体を前に傾け、力いっぱい駆け抜けた。
(届いた……か!)
ヴァージンは、思わず目を閉じ、レース直後と同じような荒い息を上げながら、今の彼女自身が出したタイムを気にし始めた。彼女の耳に届くマゼラウスの近づく音が、少しずつ大きくなる。クールダウンの動きをするヴァージンの目が、その音でゆっくりと開いていく。
その直後、ヴァージンはマゼラウスと目を合わせた。マゼラウスは、力強くうなずいた。
「13分49秒99。ヴァージン・グランフィールドの出した、過去最高のタイムだ」
「本当ですか……!トレーニングなのに、こんなタイムを出すなんて……、夢のようです」
これまで40回も世界記録を破っているヴァージンでさえ、トレーニングでは自らの世界記録に迫ることはあっても、トレーニングから世界記録を上回ることはほとんどなかった。とは言え、ここで出した記録は公式ではなく、あくまでも国際陸上機構が公認したレースで出したタイムでなければ世界記録とは認められないため、ヴァージンは素直に喜ぶことができなかった。
「あとは、本番でこの走りを見せられれば……、文字通り世界記録になりますね」
「そうだ。お前がその走りをできることを証明した以上、オメガセントラル選手権や世界競技会は期待ができる。今日の感覚を、忘れるなよ」
「分かりました!」
ヴァージンはうなずいた。このところ、走った後に感じる膝のかすかな痛みも、この日は全く感じなかった。
(トレーニングで世界記録を上回るタイムが出すなんて、何年ぶりだろう……)
その日、ヴァージンは勝ち誇ったような気持ちを抑えながら家に戻った。フローラは戻っておらず、49秒台を出せたことを誰にも言えないまま、彼女はリビングの椅子に座ったまま天井を見上げた。
(それでも、私がさっきストップウォッチで見た数字は間違いじゃない……。コーチのボタンを押す手が少しズレていれば別だけど……、そんなことを考えていたらトレーニングの記録を信じられなくなるんだし……)
ヴァージンの足は、「フィールドファルコン」を履いていないにもかかわらず、今にも本番のトラックを踏みたいという意思を全身に伝えていた。数日後に、同じ走りを見せたいと彼女自身の声で叫ぶかのように、彼女の全身ははっきりとした自信に包まれていた。