第69話 変化は始まっていた(6)
ロイヤルホーンが一足先にスパートを仕掛けた。地元アフラリの人々の声援が、その瞬間に一気に大きくなる。ヴァージンには、ロイヤルホーンがラップ68秒から一気に65秒ほどまでペースアップしたように見えた。
(残り1600mもあるのに……。私が残り1000mで勝負を仕掛けることを分かっていて、ここで勝負に出た)
10000mで残り1600mとなれば、十分終盤戦ということになる。これまで何度となく5000mを走っているヴァージンと、初めて5000mのレースに挑むロイヤルホーンでは、残された4周という時間の考え方が全く違っていることに、ヴァージンは目の前で思い知った。
ヴァージンの足元で、「フィールドファルコン」が大きなエアーとともに「戦いたい」と叫び出した。だが、ヴァージンは、これまで築いてきた記録を盾に、自らを落ち着かせた。
(大丈夫……。ここまでラップ68秒を守れている私なら、まだスパートを始めなくても、世界記録を破れる)
彼女の目には、ロイヤルホーンと、さらにその先にある世界記録13分50秒37――今のヴァージンが超えなければいけない存在――がはっきりと見えていた。少しずつロイヤルホーンとの距離が離されていくことは、勝負に挑むヴァージンにとって、想定の範囲内だ。
ロイヤルホーンに挑もうとする気持ちを抑えた1周半が過ぎ、ヴァージンは4000mのラインに差し掛かる。そのやや手前から、彼女はトラックを力強く蹴り上げた。
(11分20秒……!世界記録は、いま私の手の中にある……!)
まずは、ラップ65秒でロイヤルホーンのペースに合わせる。その瞬間、30m近く先を行くロイヤルホーンがかすかに後ろを振り返ったが、ペースを上げるようなしぐさを見せない。それでも、このレースより長い距離を走り続けてきた長身の体は、ヴァージンがその背中を見る限り余裕がありそうだ。
(あとは、ロイヤルホーンさんが、どこでもう一段ギアを上げてくるか……!)
4200mに差し掛かるところで、ヴァージンはさらにペースを上げた。ラップ61秒ほどのペースで突き進む「翼」は、いよいよロイヤルホーンへの追撃を始める。
一方のロイヤルホーンも、4400m手前の直線でヴァージンに振り返り、腕を大きく振ってペースを上げた。それでも、ヴァージンが今にもロイヤルホーンの背中に迫る流れを変えるまでには至らなかった。
(12分55秒になるかならないかで、残り1周に入れる……!)
ヴァージンより、わずか10mしかリードのなくなったロイヤルホーンが、最後の1周を告げる鐘を鳴らす。だが、先程まで背中で見せていた余裕はなく、意識してきたライバルのスパートを振り切れる力は残っていないようだ。この瞬間、ヴァージンはあっさりと目に見えない敵との勝負に切り替えた。
(破りたいのは、世界記録と……、50秒という高い壁……!)
ラップ55秒まで駆け上がったヴァージンの脚が、風が突き抜けるかのようなスピードでロイヤルホーンを後ろに追いやり、自分自身との勝負に挑んだ。トップスピードでトラックを駆ける「フィールドファルコン」が、記録との戦いに極限まで「翼」を羽ばたかせる。目の前に飛び込んできたゴールを、ヴァージンはあっという間に駆け抜けていった。
13分50秒19 WR
(少しは……、50秒の壁に近づけられた……)
記録計に目をやったヴァージンは、「ワールドレコード」の文字だけにかすかに喜び、クールダウンしながら天を仰いだ。40回目の世界記録とは言え、素直に喜べるような数字ではないことは本人がはっきりと分かっていた。
(でも、私には次がある。オメガセントラルでのレースと、世界競技会……。今年中には50秒切れるはず)
ヴァージンが目線を元に戻したとき、背後からロイヤルホーンが迫ってきたことに気付いた。4000m地点では余裕の表情すら見せていたロイヤルホーンも、走り終えた時には息が上がっていた。
「やっぱり、5000mでグランフィールドに勝つには、まだ力が足りなそうね……」
オリンピックのレース後のように険しい表情を見せることなく、ロイヤルホーンは淡々と勝負を振り返っているようだった。彼女は、ヴァージンと自らの足を見比べ、疲れ切った自らの足にため息を投げかけた。
「ロイヤルホーンさんは、10000mでもの凄い実力を見せてきました。それでも、5000mで13分台を出せたことは、それとは別の次元で凄いと思います……。単純に距離が半分になって、人によっては作戦まで変えてしまうくらい、別のレースですから……」
「そうね……。私は、もう少し頑張ってみる。世界競技会での2冠は、諦めてないから」
「分かりました。ロイヤルホーンさんと一緒に走れるのを、私は待ってます」
ヴァージンがそう言うと、ロイヤルホーンはダッグアウトに向けてゆっくりと歩き出した。一度、二度、はっきりと力の差を見せつけられた「女王」を見返し、その度に目を細めているようだった。
(これで、自己ベスト13分台は、私を含めて5人……。もう、13分台での決着は当たり前なのかも知れない)
ヴァージンが後で知ったことだが、3位に入ったアフラリの選手も14分05秒を切っている。わずか4年半前に、ヴァージンがその扉を開けた世界に、数多くのライバルが辿り着いていた。
(だからこそ、私は50秒台のタイムで止まっていちゃいけない……。壁を突き破るのが、私の役目……。世界記録を誰よりも知っている私の……、やりたいこと……!)
ヴァージンは、トラックの中で拳を丸め、次のレースに向けてはっきりと誓った。
トラックからロッカールームに戻るとき、ヴァージンは左膝に再び違和感を覚えた。
(不思議だ……。走った後に痛くなってくる……。すぐ消える痛みだけど……、オフには少しリハビリしたほうがいいのかも知れない……)
この4ヵ月ほど、ヴァージンはトレーニングやレースで走り終えた後、ごくまれに左膝に刺激を感じている。全力で走っている間は全く痛まないだけあって、彼女にはその理由が全く分からなかった。
アフラリから戻ってくると、家の玄関は昼間にも関わらず、鍵がかかっていなかった。ヴァージンが恐る恐る扉を開くと、ドアから真っ直ぐ見える場所でフローラが手を振っていた。
「お帰り、ヴァージン。スタイン選手権、グローバルキャスでやってたから、生で見た」
「お姉ちゃん……、見てたんだ……」
「そうね。ちょうど仕事から戻って来た時間に選手紹介やってたから、そのまま見た。姉だからというのもあるかも知れないけど、やっぱりヴァージンが走る姿を見るしかないじゃない」
そこまで言って、フローラはヴァージンのほうにゆっくりと近づいた。廊下の中央、二人の手が触れ合う位置まで近づくと、フローラはヴァージンを思い切り抱きしめた。
「ヴァージン、世界記録おめでとう!13分50秒19……だっけ」
「本当は、50秒切りたかったけど……、お姉ちゃんが喜んでいるなら、そんなことも忘れるくらい」
二度、三度とヴァージンの肩を叩くフローラの手は、病院に勤めていると知らなくても、疲れ切った戦士の心を癒すには十分すぎる温かさを放っていた。ヴァージンも、気が付くとフローラの背中を抱きしめていた。
だが、その直後にフローラはヴァージンから手を離し、その目を見つめながらさらに言葉を続けた。
「ところで、今度のレースはオメガセントラルでしょ。私も見に行きたい……」
「別にいいけど……、お姉ちゃん、研修は大丈夫なの?」
「たしか、休みの日だったはず……。それに、アメジスタじゃもう少し先だけど、せっかくアメジスタを出たんだから、目の前でヴァージンが走っているのを一度くらい見たい……。テレビの中だけじゃ、汗とか息遣いとか、そこまでは分かるようで分からないし……」
「それは、たしかに言えるかも……。映像技術がどんなに進歩しても、リアルには勝てないです」
ヴァージンは、アメジスタで急速に広まったテレビモニターを脳裏に思い浮かべていた。5年前、シーエンオリンピックで、アメジスタ国内で初めてヴァージンのレースが中継された時には、多くの人々が物珍しそうに足を止めていた。それから時間が経つにつれ、アメジスタで国外の様々なチャンネルを見られるようになると、映像の中の世界に興味を持つのは、当然だった。だからこそ、アメジスタ国内でもヴァージンのいる世界に飛び込むような人々が増えているのだった。
「お姉ちゃんのように、私の走る姿をリアルで見たいというアメジスタ人、きっと増えてくると思います。前にオメガまでやって来たビルシェイドさんっていう青年も、フォトブックからリアルを見たいと言ったくらいですし、中継を見る人が増える今はその時以上にそう思っている人がいるはずです」
「じゃあ、見に行っていいのね」
フローラが自信たっぷりな声でそう尋ねると、ヴァージンは力強く首を縦に振った。
「決まりね。3週間後、私の目の前で新しい世界記録を出すって信じるから」
「お姉ちゃんにそう言われたら、間違いなく記録を出すしかありません」
そう言って、ヴァージンはかすかに笑った。目の前にいるフローラも、ヴァージンに刺激されたように笑い始めた。
だが、その大会でヴァージンに異変が起きることまでは、当の本人も予感すらしなかった。