第8話 思いがけない再会(3)
しばらくの沈黙が続いたのち、アルデモードはようやく口を開いた。
「えっとね……。あまり、僕の名前を出して欲しくないんだ。本当の名前を」
「えっ……?」
アルデモードの勤める会社からスポンサーの話を持ちかけられた嬉しさも吹き飛ぶような、アルデモードの硬い表情に、ヴァージンは細い声を返すしかなかった。
「僕は、オメガ・アイロンの従業員をやっている。でも、そこでの名前は、ジョン・サイゲル。僕は、自分の本名をこの会社で一度も口にしたことがないんだ」
「そんな……、アルデモードさんはアルデモードさんじゃ……」
「君がそう言うのも無理はないよ。でも、僕が本名を口にすると、ちょっとまずいことになりそうなんだ」
「まずい……」
アルデモードが少しだけ息を飲み込むような音を、ヴァージンは聞いた。嫌な予感が、ヴァージンを襲う。久方ぶりに会ったはずの理解者の像が、少しずつ錆びついていくような気がした。
そして、またしばらく黙ったのち、アルデモードは言った。
「だって、僕は亡命者……。アメジスタを捨てたことになってるんだ」
(アメジスタを……、捨てた……)
アルデモードの一言に、ヴァージンの周囲に見える景色がすぐに凍りついた。落ち着いたカフェの壁も、人々の笑い声も、外でひっきりなしに走る車も、何もかも凍りついた。
(うそ……。うそだと言って……!)
「どうして……」
ヴァージンは、両手で額を覆い隠し、そこから大粒の涙を流し始めた。ライバルとの勝負に敗れたとしても、どんなに練習がきつかったとしても、心身ともに成長しつつある彼女がその姿を他人に見せたことは、滅多になかった。
「アルデモードさんだけは、信じてたのに……」
「泣くなよ。君が泣いたら、こっちまで悲しくなるじゃないか」
アルデモードは、懸命にヴァージンと視線を合わせようとする。だが、ヴァージンは額を手で覆ったまま、涙すらアルデモードに見せようとしなかった。
「だって、私がアメジスタのためにこんなに頑張ってるのに……、それを認めてくれたアルデモードさんは……」
「そんな……。僕、そこまで大げさなことは言ってないよ!」
「えっ……?」
アルデモードがそう言うと、ヴァージンは無意識のうちに泣き止み、押さえていた手をそっと解いた。
「夢を諦めたくない。それは、君と一緒だよ!」
「夢……。もしかして、あの時言ってた、エースストライカーになる夢ですか?」
「勿論、そう。でも、夢を叶えるためには、一度こうするしかなかった。ただ、ちょっとやり方がまずかったから、亡命者になっちゃってるだけだ」
「そうなの……」
ヴァージンが初めてのジュニア大会に出場する前年、アルデモードは少し穴の開いた布製のバッグに、サッカーボールとほんの少しの家財道具と、オメガに入れば紙くず同然のお金だけを入れて、海岸線まで歩いた。そして、砂浜に打ち上げられていた汚い船に乗り、無免許で船を操縦した。そして、見ず知らずのオメガ国の、人里離れた海岸で船を捨てて、そのままオメガ国の中で自分の居場所を探し求めたのだった。
従って、出身国はおろか、学歴や職歴全てが偽り。いたはずもない名前の大学の名を書いて、そこのサッカー部での活躍を面接で話したところ、アルデモードはオメガ・アイロンへの就職を勝ち取ったのである。
「だから、僕は本名を言えない。本名を言ったら、国籍がないとか、亡命者リストに名が載っているとか……、言われてしまう。それが怖い」
「アルデモードさん……」
ヴァージンは、軽く息をついた。言いたいことが、喉に詰まって出てこなくなるのを、はっきりと感じた。そして、一度だけ首を横に振ると、アルデモードに笑った。
「そういう生き方も、面白いです」
「え……。ちゃんとした方法でアメジスタから外に出た君が見れば、僕のしたことは許されることじゃないと思うんだけど」
「アルデモードさんも、あの『夢語りの広場』で自分の夢を言えばよかった、と私は言おうとしました。でも、そんなことを言ったら、アルデモードさんに悪いかなって思うんです」
「ヴァージン……」
カフェの穏やかな雰囲気に溶け込むように、アルデモードの顔が微笑むのを、ヴァージンははっきりと感じた。
「アルデモードさんらしいと思う……。攻撃的で、なんか挑戦的だと……」
「攻撃的、挑戦的……。ちょうど、僕のポジションが絶対に持ってなきゃいけないモチベーションだな」
アルデモードは、薄笑いを浮かべながらそう言った。そして、大きくうなずいた。
「なんか、ヴァージンの言葉を聞いているうちに、亡命者意識なんてどうでもよくなってきちゃった」
「アルデモードさん、急にそんな……」
「だって、アメジスタ生まれのアスリートに、こんな立派なことを言える人がいるって思うと、僕が2年くらい思ってたことは、何か間違ってたなって思う」
アルデモードは、無造作に束ねた茶色の髪をそっと撫でて、再びうなずいた。
「僕は、時が来たら真実を話すよ。会社に。ごめんと言って」
「アルデモードさんの名前を、もう一度使うってことですか?」
「勿論。自分がアメジスタ出身であることも、言うつもりだ」
ヴァージンの目に、アルデモードの決意がはっきりと見えた。何度もうなずいているアルデモードに返すように、ヴァージンもうなずいた。
「頑張ってください……!私も、アメジスタの選手として恥ずかしくない結果を残しますので!」
「こっちこそ、君に期待するよ」
その瞬間、カフェの真ん中でヴァージンとアルデモードは同時に立ち上がり、同時に右手を差し出した。その二つの右手で固い絆が生まれたのは、言うまでもなかった。
(凄い一日だった……)
やがて楽しい時間は終わり、日常の世界へと戻る時がやってきた。だが、アルデモードの姿が見えなくなっても、ヴァージンの目には、あの時アルデモードが見せた満面の笑みが繰り返し映し出されていた。それは、ワンルームマンションに戻り、ベッドの上に両手をついて座り込んでも、まだ続いていた。
(あの表情をもう一度見せて欲しい……。私が頑張れば、アルデモードさんもきっと、笑ってくれる)
そう思ったヴァージンは、アルデモードから渡された提案書を思い出したように見返した。たしかに、4000リアという支援の手は、今のヴァージンにとっては高額である。それも、母国で同じ夢を夢見た彼がいるから、進む話でもあることを、ヴァージンは思い出さずにはいられなかった。
ヴァージンにスポンサーの話を口にした時、アルデモードははっきりとこう言った。
あとは上長の許可を取るだけで、おそらく1ヵ月以内に返事ができるだろう、と。
アルデモードの熱心さがあれば、必ず通る話。ヴァージンは、はっきりと確信した。
だが、それがあの事件の遠因となってしまうとは、この時のヴァージンには思えなかった。
「もっと前に!ほら!残ってる力はそれだけか!」
翌日から、本格的に10000mを走りきる練習が始まった。トレイルランニングで走り慣れていたとは言え、それだけの経験ではマゼラウスを満足させることは到底できなかった。残り3周を切ったところで、普段は軽くなる足取りも、完全にしぼんでしまっていた。
「……っ、……っ。疲れました……」
「やっぱりきついなぁ……。まだ慣れてないだけかも知れないが」
ヴァージンは走り終えると、すぐさまトラックの内側の芝生にへなへなと座り込んでしまった。5000mの時にはほとんど見せることのなかった教え子の荒い息づかいが、やや遠いところにいたマゼラウスにもはっきりと分かった。
「タイム……」
マゼラウスがゆっくりと近づくと、ヴァージンはようやく呼吸を整え、立ち上がりだした。そして、1分以上時を止めたストップウオッチに目をやると、その数字に満足できない口が、深いため息を吐き出した。5000mでは15分をコンスタントに切る実力を持つヴァージンは、10000mでは32分台後半に沈んでいた。
「まだ、10000mでは勝負にならんな……」
「えぇ。でも、それはこれからペース配分とか、変えていこうと思ってますので……」
「そうだな……。とりあえず、10000mで大会に出場するのは、もう少し先にしよう」
マゼラウスは、やや重い表情でそう言った。だが、すぐに表情を元に戻し、ヴァージンに告げた。
「で、ヴァージンよ。次の大会を、10月に設定しようと思うのだが、いいか」
「10月……。大丈夫です。最近のペースを維持できそうなので」
10月といえば、もう1カ月と少ししかない。だが、それでもヴァージンは首を縦に振った。
「そうか。なら、決まりだ。10月、オメガのサウザンドシティで行われる大会に、申し込もう!」
「ありがとうございます」
実はサウザンドシティの大会は、この年開かれる最後の陸上の大会であることを、ヴァージンはその後知った。例年、冬の室内選手権に始まり、初夏から夏にかけてほぼ毎週のように行われる時期があり、そして秋が深まると、マラソンランナーを除けばアスリートたちはシーズンオフに入るのだ。
その日、ワンルームマンションに戻ったヴァージンは、ウェアを洗濯機に入れると、すぐに机の前に座った。
(アルデモードさんも、誘おうか……)
オメガ国内の大会なので、情報は出ていると思うが、ヴァージンはあの時の表情が忘れられず、アルデモードに手紙を書くことにしたのだった。勿論、彼の住処を知るはずもないので、勤めている会社、登録されている名前で送ることにした。
アメジスタ語で丁寧に書いた文章を三つ折りにし、封筒にしまう。
(彼が、来てくれますように……)