第69話 変化は始まっていた(5)
4月に入り、フローラのオメガ国立医療センターでの勤務が始まった。長年アメジスタで医療現場に携わってきたフローラにも研修期間はあり、その間は必ず夕方には家に戻っていた。ヴァージンがトレーニングから戻ってくると、掃除機の音が響きわたり、二人が少しでも立ち入った部屋を掃除していたのだった。
「お姉ちゃん、忙しいのに大丈夫……?」
「大丈夫。これから、24時間体制になって大変になると思うけど……、今のうちは一緒に暮らすこの家で何かしないといけないと思ったから」
「たしかに……。でも、アルだってここまでしなかった……。お姉ちゃん、きれい好き」
「久しぶりね、人からきれい好きって言われるの。しかも、いつも汚れて帰ってくるヴァージンから」
フローラが軽く笑いながらそう言うと、ヴァージンはやや遅れて笑った。
(むしろお姉ちゃんのほうが、子供の頃と比べると大きく変わったのかな……)
二人の時間が少しずつ刻まれていくうちに、ヴァージンの気持ちは少しずつ新たな本番に向かっていた。
(スタイン選手権……。そろそろ2週間前か……)
前の年にスタイン選手権を開催できなかった分、アフラリの強豪選手たちがそこに合わせて調整を進めているという話を、ヴァージンはつい最近、トレーニング中にマゼラウスから教えてもらっている。当然、ヴァージンにとってその強敵は、5000mの記録が未知数となっているロイヤルホーンだった。
(トレーニングで好タイムを出したとか、どんな選手でもそんな話は流れてこない……。でも、10000mの走りを知っている以上、きっと5000mだって、ロイヤルホーンさんは私に食らいつけるタイムになるかもしれない……)
だが、同時にヴァージンは、ロイヤルホーンのスパートを思い浮かべていた。やや早い段階で勝負を仕掛け、そこから一気に逃げ切りを図ろうとするスパートだが、これまでヴァージンはその全てを打ち破っている。
(ただ、最後の瞬発力は私のほうがきっと上……。私のレベルまでスパートが完成しない限り、勝てるはず)
ヴァージンの首が、はっきりと縦に振られる。それは、5000mの新たなる敵に打ち勝とうとする意思だった。
アフラリ選手権当日、スタジアムには数多くの観客が詰めかけた。着替えを済ませ、サブトラックに移動している間に、ヴァージンは「ロイヤルホーン」と書かれたボードを持った人とすれ違った。
(今日は、ロイヤルホーンさんの女子5000mデビューの日……。アフラリの人々は彼女を応援する……)
時折、メイントラックから流れてくる表彰選手の名前も、ヴァージンの聞いたことがある範囲ではアフラリの選手が多いように思えた。それだけ、アフラリの陸上選手がこの大会に全力を注いでいることが、ヴァージンにも分かった。
その時、ヴァージンの耳に聞き慣れた声が響いた。振り向くと、そこにはヴァージンよりも一回り背の高い、黒のショートヘアのライバルが、勝負の前とは思えないほどの笑顔で出迎えた。
「久しぶりね……、グランフィールド」
「ロイヤルホーンさん、お久しぶりです。なんか、ロイヤルホーンさんを見ただけで、ワクワクします」
「そう言ってもらえて嬉しい……。でも、5000mで挑戦状を叩きつけるくらい、私は完璧に仕上げたから」
わずか数秒で、ロイヤルホーンが浮かべていた笑顔はあっさりと消え、すぐに目を細めた。ヴァージンはそこで薄笑いを浮かべ、やや見上げるような角度でロイヤルホーンを見つめた。
「私も、まだ世界記録を出し続けるつもりです。ロイヤルホーンさんがどこまでの走りを見せるかで、私は今まで以上に本気になれると思っています」
「ならグランフィールド、きっと後半、私のほうが前に立つはずだから、どれだけのスピードか分かるはず」
そう言うと、ロイヤルホーンもまた薄笑いを浮かべ、それからサブトラックの向こうへと姿を消した。
(ロイヤルホーンさん、10000mの時と同じような走りを見せようとしている……。でも、アスリートが勝負の前に、手の内を明かすようなことは……、普通に考えればないはずなのに……)
やがて、女子5000mの集合時間となり、ヴァージンはメイントラックに入った。すると、この女子5000mがメインイベントであるかのように、スタジアムの鼓動が高まっているのを感じた。普段であればヴァージンの名前が書かれた横断幕が圧倒的に多いはずのスタジアムも、この日に限ってはそれらが全て書き換えられているかのように、ロイヤルホーンばかりを応援しているように見えた。
(やっぱり、アメジスタ人の私にとって、この場所は完全にアウェイ……。それでも、私は自分の思い通り走ればいいだけだから……)
ヴァージンは、横断幕の洪水から目を反らし、一度立ち止まって足元の「フィールドファルコン」を見た。その「翼」は、新たな強敵が予想される空へと、今にも飛び立とうとしているように感じられた。
「On Your Marks……」
勝負へのカウントダウンが始まり、スターターの低い声がスタジアムを包み込む。タイム未知数のロイヤルホーンが、内側のスタートラインの最も外側で、勝負の時を待っている。ヴァージンが横目で見ると、ロイヤルホーンの表情は、10000mの時と比べると幾分落ち着いているようだった。
(よし……!)
ヴァージンは軽く息を吸い込み、体を前に傾ける。その瞬間に号砲が鳴り、16人の選手が一斉に走り出した。ヴァージンはその中で素早くラップ68秒のペースに乗り、集団の先頭に立った。
(ロイヤルホーンさんは、この時点では様子を伺っているのか……)
ヴァージンの全身が一気に加速する間、彼女は今回最大のライバルになるはずのロイヤルホーンの動きを肌で感じた。最初のコーナーを出る時、ロイヤルホーンはヴァージンから体二つ分ほど差が付いているように思えた。
だが、2周目に入るとき、ヴァージンはその考えを早くも捨てなければならなかった。ロイヤルホーンの気配がそこから消えていかないどころか、ラップ68秒で突き進むヴァージンとほぼ同じペースで食らいついているように感じたからだ。体二つ分の差は、全く広がっていかない。
(ロイヤルホーンさんも、最初から私のラップを意識している……。しかも、ロイヤルホーンさんのことだから、中盤でさらにペースを上げるはず……)
ロイヤルホーンのペースアップは想定内とは言え、それまでもヴァージンにぴったりと食らいつかれる想定はなかった。それでもヴァージンは、すぐに首を横に振った。
(いや、今は……、ロイヤルホーンさんを気にするのをやめよう。私がいつものように走れば、間違いなくロイヤルホーンさんは私を上回れないはずだから……!)
ヴァージンは、後ろに付けられたままのロイヤルホーンを引き離そうとはせず、3周、4周と全身でラップ68秒を刻みながら突き進む。時折、ロイヤルホーンの足音がヴァージンの耳に聞こえるものの、数歩前に出る間にヴァージンの足音にかき消されていく。13分50秒37の世界記録を輝かせるヴァージンが、序盤では完全にロイヤルホーンを寄せ付けなかった。
だが、2000mを過ぎたあたりから、ヴァージンはロイヤルホーンの気配をはっきりと感じるようになった。体二つ分以上は開いていた差が、ロイヤルホーンの腕の振りを背中で感じられるほどまでに狭まっていた。
(ロイヤルホーンさんが……、いつものように中盤でペースを変えた!)
ヴァージンよりも多少早めに勝負を仕掛けることが多かったロイヤルホーンが、早くも2000mで動き出した。決してペースを変えようとはしないヴァージンの肌が、徐々にロイヤルホーンの息を感じるようになる。
そして2400mを過ぎたあたりで、ロイヤルホーンの右足がヴァージンの外側に躍り出た。そこで初めて、ヴァージンはロイヤルホーンのペースを横目で確かめた。
(ラップ67.5秒……。中距離走のようなフォームにはなってないけど、見た感じ力は十分残している……!)
もともと10000mを専門にしてきただけあって、わずかなペースアップで勝負を仕掛けてきたロイヤルホーンにとっては、この段階では全く苦しそうな表情を浮かべていない。むしろ、ここから一気にペースを上げても最後まで失速しないような、元気そうな動きを見せていた。
(面白くなってきた。やっぱり、5000mだとロイヤルホーンさんが走りやすい……。だからこそ、5000mを専門にしてきた私だって、本気になれる……!)
3000m地点では、ロイヤルホーンがヴァージンより体二つ分だけ前に出るものの、ロイヤルホーンが勝負を仕掛けてから二人ともペースを全く変えていない。むしろ、ヴァージンはこれまでと同じように前を行くライバルとの距離を目で測っていた。
(このまま行くと、10m差で4000mに入れるはず……。この差だったら、ロイヤルホーンさんを簡単に抜きされるはず……!)
ヴァージンは3400mを通過する前に、トラックを蹴り上げる「フィールドファルコン」に、自らの意思を告げた。だが、ほぼ同時にロイヤルホーンがその体を大きく揺するのを見た。
スパートを見せる体勢だ。
(ロイヤルホーンさん……!)