第69話 変化は始まっていた(3)
アルデモード亡き後、再び一人だけになった家に、姉のフローラがやって来る。そのことを知ったヴァージンは、翌日からトレーニングが終わって戻ってくるなり、部屋の模様替えを始めた。これまで、ほぼトレーニングのことしか考えてこなかったヴァージンにとっては、全くの無知の領域に入ることになるが、アスリートの夫婦が住んでいた家から、年齢が5歳離れた姉妹がともに暮らす家に変えなければならないのだと、彼女は直感でそう動いた。
(お姉ちゃんが好きそうなフローリング……、これかな……)
トレーニングウェアにパーカーを着たままの状態で、ヴァージンは数年ぶりにホームセンターに入る。エクスパフォーマのロゴは入っているものの、ホームセンターでヴァージンだと気付かれることはなく、一般の住民に溶け込みながら、彼女は新しい空間へと家を変えていった。
(普段こんなことやらない分、大変……。もともと、名付けだって時間かけるくらいだから、こういうイメージが全ての分野は、本当に不得手かも知れない……)
1週間ほど集中して家の模様替えが済ませ、ピンクと水色のコントラストを意識した部屋を見つめたヴァージンは、そこで大きく息を吸い込んだ。それと同時に、一つのことが気になった。
(たしか、メドゥさんから、次は6月のオメガセントラルと言われていたような気がするけど……)
オリンピックの翌年。多くの選手が3年後に向けて再び成長を始める中で、ヴァージンも立ち止まってはいられなかった。年明け早い段階で、メドゥとアウトドアシーズンの予定を話し合ったが、世界競技会直前に立て続けにレースを入れた以外は予定がほぼなく、特に4月と5月は100%トレーニング漬けの日々を過ごすことになっていた。
「できればオメガセントラルの前に、もう一つレースを入れてもいいのかも知れない……」
そう呟いたヴァージンは、同時に一人のライバルの姿を思い浮かべた。
(そう言えば、ロイヤルホーンさん、5000mデビューは取りやめになったのかな……)
ロイヤルホーンは、ヴァージンの目の前で女子5000mにも活躍の場を広げると告げたにもかかわらず、その後彼女が5000mを走ったことは一度もない。昨年の夏、ヤグ熱がアフラリの陸上選手の間で広まったことで、プロトエインオリンピックには10000mでしか出場できず、そこでもロイヤルホーンは7着に終わっている。
(10000mで調子を取り戻さない限り、5000mに出ないのかな……)
そう考えながら、ヴァージンはロイヤルホーンからメールが来ていないか、メールボックスを開こうとした。だが、全く同じタイミングでメドゥから電話がかかってきた。
(こんないいタイミングで電話がかかってくるなんて……。他の選手の動向とか聞いてみようかな……)
ヴァージンの手が電話を取ると、その向こうではやや落ち着いた声でメドゥが用件を伝えた。
「早速だけど、ヴァージン宛に挑戦状が来ているわよ」
「挑戦状……。なんか、不気味な感じがします……」
突然告げられた「挑戦状」という言葉に、ヴァージンも伝えたいことをすっかり忘れ、驚くしかなかった。するとメドゥは、ヴァージンが驚くのをある程度計算していたのか、普段通りのトーンに戻って言葉を続けた。
「これだけ長いこと陸上に携わっていても、私だって挑戦状を受け取るのは初めて。それだけ、ヴァージンと戦いたいというライバルがいるってことなのよ」
「で、その挑戦状は、誰からのものですか……」
「ロイヤルホーンからよ。しかも、ロイヤルホーンの地元、スタイン選手権に誘っているわ」
ヴァージンは、いよいよ返す言葉を失った。わずか1分前に思いついた名前をメドゥの口から直接聞くことになろうとは、全く想像つかなかったからだ。
「ロイヤルホーンさんの地元……、ということは、私に5000mを走って欲しいということですね」
「そう。ちょうど、ロイヤルホーンが地元で女子5000mデビューをするから、そこで走って欲しいということ。ヴァージンにとっては、一昨年の世界競技会、女子10000m以上にアウェイになるかも知れないわ」
薄笑いを浮かべたような声で告げるメドゥに、ヴァージンは電話を持ったまま首を横に振った。
「正直、ロイヤルホーンさんがどれだけのタイムで5000mを走ってくるか、私にも想像つきません。ですが、13分50秒37の世界記録を持つ私が、ロイヤルホーンさんの前に屈するわけにはいきません」
以前、10000mでも最後まで食らいつかれた相手であるだけに、それより短い距離で全てを出し切る5000mで、ロイヤルホーンがどのようにレースを進めていくか。ヴァージンは想像するだけでも楽しみだった。その楽しみに包まれたような声で、彼女はメドゥに告げた。
「この挑戦状、受けて立ちます」
翌日から、再びマゼラウスを交えてのタイムトライアルに挑んだ。気温が上がってくるにつれて、ヴァージンのタイムもなだらかに向上していき、3月の終わりにはトレーニングで13分50秒99のタイムまで達した。
「とうとうトレーニングで50秒台だ。世界記録が見えてきたな」
「ありがとうございます。まだ2ヵ月近くありますが……、ピークを本番に持っていけるよう、このスピードを忘れないようにします」
だが、マゼラウスはその瞬間、ヴァージンに向かって首を傾け、聞き返した。
「今日に関しては、姉のことを意識したからではないのか。たしか、今日アメジスタからやって来ると聞いたが」
(そう言えばそうだった……)
ヴァージンは、珍しく朝早い時間にマゼラウスとのトレーニングを入れた理由を、この瞬間になってようやく思い出した。
「そうですね……。今日から、またプライベートが楽しくなります」
ヴァージンはそのようにマゼラウスに告げ、軽く頭を撫でた。それから、普段よりもやや短めにクールダウンした後、その足でオメガセントラル国際空港に向かった。
(グリンシュタインからの飛行機が来るまで、あと1時間ちょっとしかない……)
だが、ヴァージンが空港に向かって歩き出した時、左膝に再び刺激を感じた。
(だいぶ前にも、トレーニングの後に痛んだところだ……)
ヴァージンは、飛行機の着陸する時間が迫っているにも関わらず、アスファルトの上で止まり、軽く膝を回した。するとすぐに、左膝の刺激は消えた。
(走っているときには全く痛まないし……、何なんだろう……)
空港の到着ロビーは、自身が初めてオメガに降り立ったとき以上に出迎えの人々で混雑しており、入国審査を終えた人々がロビーに姿を見せるたび、ヴァージンはフローラの姿をその目で追った。
(少しでもアメジスタ人っぽいような人が見えたら、それがグリンシュタイン便のはず……)
フローラの顔を見慣れているにもかかわらず、ヴァージンは一人一人の表情に目をやりながら、ただ時の過ぎるのを待っていた。トラックを走っているときの時間の流れに比べ、はるかに遅く感じた。
そうしているうちに、1時間ほど経っただろうか。一度、到着ロビーに流れ込む人の列が途絶えた後、その後ろから見慣れた姿がヴァージンの目に飛び込んできた。
「あっ……!」
到着ロビーで思わず声を上げたヴァージンに、逆にフローラが反応した。ヴァージンが気付いたときには、既にフローラの目が、ヴァージンに向けられており、大きめのバッグを抱えたまま小さく手を振っていた。
「お姉ちゃん……。まさか、こんなに早く会えるなんて思っていなかった……!」
「私も……。人生何があるか分からないって、ヴァージンを見て思ってたけど、自分にそんな奇跡が起きるなんて夢にも思わなかった……」
「でも、アメジスタを離れることになっても、お姉ちゃんに新しい仕事が見つかって、本当に嬉しい。だって……、あの時のお姉ちゃん、本当にかわいそうだったんだもの……」
ヴァージンは、そう言うなりフローラの胸の中に飛び込んだ。ヴァージンがアメジスタに帰ったときには、短い時間しか一緒にいられなかったため、彼女が姉の胸に飛び込んだのは、記憶を辿っても20年近くなかった。
「それで、お姉ちゃん。せっかく新しい国に来たんだから、お姉ちゃんのために今日は家でごちそう作るよ」
「ヴァージン、料理得意なの……?」
「……愛情があれば大丈夫。それに、せっかく広いキッチンが付いている家に住んでいるから、最近はオフの日とか自分で料理作るようにしているし」
「それは楽しみ。私の記憶の中にあるヴァージンの料理と、世界中で有名になったトップアスリートの作る料理のどこが違うか、食べて感じてみるから」
フローラが、アメジスタで一緒に暮らしていた時と同じように、ヴァージンに向けてそっと笑った。
(お姉ちゃんがそこまで言うって……、なんか、トラックでは感じないプレッシャーに潰されそう……)
1時間も歩けばたどり着く場所に自宅があるものの、フローラが重いバッグを持っていたので、二人は家までタクシーで向かうことにした。