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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
故障を乗り越えた先に
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第69話 変化は始まっていた(2)

 号砲が鳴ると同時に、ヴァージンの真横からメリナが一気に前方に飛び出してくる。それ自体は、これまでと全く同じ展開だが、ヴァージンは一歩前に出たメリナを見て、やや目を細めた。

(今まで以上に、走り方が力強い。滑らかに加速していくのではなくて……、積極的なフォームになっている)

 ヴァージンも、400m68秒のペースにまで一気に上げていくが、目の前に立ったメリナは67秒にも迫るような、これまで見たことのないペースで飛ばしていくのだった。

(息遣いが、ゆったりとしていない……。これはもう、長距離の呼吸じゃない……)

 深く息を吸い込んで、ゆったりと吐き出す。ヴァージンも長いアスリート人生の中で知らず知らずのうちに身に着けた呼吸法を、メリナは変えている。コーナーの途中からメリナの口元を見る限り、序盤から速いテンポで呼吸をしているのだった。

(長距離走のフォームだと、これじゃ5000mまで力が続かない……。けれど、メリナさんは無意識にやっている)

 普段よりも、メリナの遠ざかるペースが速くなっている。それは、最初の1周、わずか200mでヴァージンがはっきりと気付いたことだった。これまで以上にたくましい走りになっているメリナが、そこにはいた。

(私だって、負けていられない……。ラスト1000mでどこまで差が付くか知らないけど、楽しみになってきた)


 外からの風がなく、コーナーを曲がる数も多い室内では、ヴァージンの目標としている400m68秒は意識しないと維持できなかった。それでも彼女は、前を行くメリナを意識しながら、普段以上に敏感にペースを意識した。2000mを駆け抜けたとき、5分41秒と、室内選手権では一度も見たことのないタイムがヴァージンの目に飛び込むと、彼女はメリナとの差をその目で確かめた。

(思った通り、5秒近く差が付いている……。ここで30m差……)

 ヴァージンがラップ68秒に慣れるようになった後、2000mでこれほどの差をつけたライバルはいない。それでも、相当のビハインドを背負っても打ち勝ったヴァージンに、この差で驚く必要はなかった。

(私は、室内記録を上回るペース。あとは、メリナさんがどれくらいのタイムを意識しているかによる……)

 また少しずつヴァージンを引き離していくメリナは、少しずつだがペースを落としているように見えた。だが、スタート直後から見せている力強い走り方は全く変わらない。その様子は、ヴァージンと同じようにラスト1000mに向けて力を温存しているかのようだった。

(私は、メリナさんを追い抜ける実力を持っている……。少しフォームが変わったとしても、もうメリナさんは強敵と思わない……)

 ヴァージンは、トラックを軽々と蹴り上げていく「フィールドファルコン」が、今にもメリナと戦いたいと叫んでいるかのように思えた。ほぼ同時に、ヴァージンは400m68秒を少し上回るほどまでペースを上げ、少しずつメリナとの勝負を意識し始めた。

 そして、勝負の瞬間はやってきた。11分15秒ほどのタイムで、先にメリナが4000mを駆け抜けた。

(メリナさんが……、ペースを上げた!)

 残り5周のラインを駆け抜けるなり、メリナが再び力強い加速を見せる。400m67秒より少し遅いペースで走っていた彼女を目覚めさせるかのように、400m67秒を上回るペースまで一気に駆け上がる。だが同時に、ここまで力強い走りを見せたメリナに、さらに踏み込んだスパートを発揮する力はほとんど残されていないように、ヴァージンの目には見えた。

(やっぱり、メリナさんはスパートを犠牲にしてまで、中距離走のスタイルを目指している……)

 ヴァージンのペースが、一気に400m65秒ほどまで上がっていき、じわじわとメリナとの差を詰めていく。次々とペースを上げていくヴァージンに気付いて、メリナがコーナーで後ろを振り返るものの、もはやメリナの表情に余裕は残っていなかった。徐々に、メリナのペースが落ちていくのを、ヴァージンははっきりと感じた。

 突き上げるようなヴァージンのスパート。室内競技場を力強く飛ぶ「フィールドファルコン」の「翼」が、早くも4600m手前でメリナをあっさりと後ろに追いやっていく。

(4600mで、ちょうど14分になりそう……。室内記録は、間違いない!)

 トップスピードに乗せたヴァージンが、目に見えない相手との勝負に挑む。多くの視線がゴール付近の記録計に注がれる中、ヴァージンはトラックを一気に駆け抜けていった。


 13分55秒69 IWR


(55秒……っ!)

 体感的に56秒台だとばかり思っていたヴァージンは、56秒台のタイムが記録計に刻まれた瞬間、心の中で力強く叫んだ。中距離走スタイルに挑んだメリナが相手だったということもあるが、これまでの室内記録を2秒近く縮めるほどの走りをしたことを、彼女は半ば信じることができなかった。

 それから13秒ほど遅れて、メリナもようやくゴールラインを駆け抜けた。記録計の数字を見ることなく、メリナはヴァージンにゆっくりと近づき、その肩を抱いた。

「こんなはずじゃなかった……。あと800m、パワーが続かなかった……」

「メリナさん……」

 ヴァージンはその脳裏に、4000mから普段と同じようにペースを上げようとするメリナを思い浮かべていた。わずか3分しか経っていないにもかかわらず、メリナの表情は180度変わり果てていた。

「メリナさんは、あそこまで新しいフォームに挑んだじゃないですか……。私は、それを見て強いと思いました」

「強いって……、どこが……。またグランフィールドに負けたのに……」

「今日のメリナさんの走り方を見て、そう思ったんです。最初から力強かったですもの」

 ヴァージンがそっとうなずくと、メリナも小さくうなずいた。

(メリナさんは、そう遠くない時期に、中距離走フォームで5000mまで続けられそうな気がする……。そうなったら、今日の私でも勝つのはギリギリだったかも知れない……)


 アムスブルグから戻り、バッグからレーシングウェアやトレーニングウェアを出して洗濯機に放り込むと、すぐさまヴァージンはメールのチェックを始めた。世界記録を出したときには、同じ時刻に数百件のメールが飛び込むようになっていたが、彼女はできる限りその一つ一つに目を通した。

(イリスさんも、シェアハウスにいるはずなのに、早速メールを送ってきている……)

 ヴァージンは、イリスからのメールを開こうとした。すると、その数行上に、差出人の名前にフローラと書かれたメールがあった。それを見て、ヴァージンは思わず目を疑った。

(お姉ちゃんは、病院でしかメールをしていなかったはず……)

 グリンシュタイン総合病院を追われた以上、フローラがメールを打てる場所は、アメジスタで他にネットの繋がる環境が作られない限り、ほぼ不可能であるはずだ。ヴァージンは、恐る恐るフローラからのメールを開いた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ヴァージンへ

 元気にしていますか。今は、グリンシュタインのネットスポットから、1時間だけネット繋いでいます。

 ところで今日は、私から嬉しいニュースをヴァージンに伝えます。

 それは……、オメガ国立医療センターから声がかかったことです。それも、看護師グループの準リーダーです。

 私があの時病院の前で訴えていたのを、たまたまテレビカメラが撮っていて、それを向こうが見ていました。

 わざわざアメジスタまで足を運んで、家の中で面接をして、それで決まりました。

 4月から勤務開始なので、もしヴァージンがよかったら、一人しかいない今の家に居候したいと思っています。

 私も、こんな形で新しい仕事が入るとは思いませんでした。これからもよろしくお願いします。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「お姉ちゃんが……、こっちに来る……!」

 セントリックのアカデミーに入るために、アメジスタからオメガに移って16年目となるヴァージンは、一時期を除けば、部屋に帰ればほぼ一人ぼっちだった。それが、子供の頃は同じ家で一緒だったフローラがこの家にやって来ることに、彼女は驚きを隠せなかった。それ以上に、フローラがオメガの病院で働くことになる未来は、ヴァージンは全く想定していなかった。

(これが本当だとしたら、お姉ちゃんにとってはものすごいニュースだ……。本当は、ずっと勤めていたかったグリンシュタイン総合病院を追われ、どうすることもできなかったお姉ちゃんが、たまたまアメジスタに来ていたカメラで拾われたのだから……、私もそうだけど、人生何があるか分からない……)

 ヴァージンは、誰もいないはずの天井を見上げ、そこに数年に一度は顔を見ているフローラの表情を思い浮かべた。いつも遠くから応援している姉の笑顔が、今にもヴァージンの胸元に飛び込んでくるかのようだった。

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