第69話 変化は始まっていた(1)
オメガセントラルの冬晴れの空の下、32歳になったばかりのヴァージンは、この日もトレーニングセンターのトラックで5000mのタイムトライアルに挑んでいた。既に、2月にはアムスブルグでの室内選手権に出場することが決まっているものの、トラックが一回り小さい室内競技場でのトレーニングは、週1回行えば御の字だった。
(あと0秒37……。そこに、私が破りたい壁がある……!)
全力でゴールラインを駆け抜けた直後、ヴァージンはマゼラウスに振り向くと、マゼラウスがやや首を傾けるしぐさを見せる。15年以上も二人三脚の関係であるコーチの表情一つで、彼女はすぐにため息をついた。
「56秒83……。今年に入って最も悪いタイムだな……」
「そうでしたか……。スピードは十分出ていましたが、少しラップ68秒から遅くなったように感じました……」
「私もそう思う。オリンピックを見ている限り、ラップ68秒は完璧な状態に仕上げていると思ったが、なかなかそうはいかないようだな……」
マゼラウスとからやや遅れて、ヴァージンもうなずいた。すると、マゼラウスが一呼吸置いて彼女に告げる。
「そう言えば、お前はこの前のイーストフェリル選手権をテレビで見たか」
「見ていないです。ここに一人でトレーニングしていました」
「そうか……。なら、お前に告げておく。カリナも作戦を変えてきたかも知れない」
「カリナさんが……」
今や、女子5000mの自己ベストが13分台の選手は4人となり、そのうちプロメイヤとメリナは、ヴァージンをやや上回るペースで序盤から飛ばしていく。ペースだけを見れば、徐々に中距離走に近づいてきていると言ってよい存在だ。一方でカリナは、序盤こそ様子見のペースで走っていくものの、徐々にペースを上げていく。勝負に出る時に一気にペースを上げるという面では、ヴァージンと同じような走り方をするのだった。
「今まで、お前もカリナに不意打ちされた経験があるかも知れない。だが、この前のレースは違った」
「もしかして、序盤からペースを上げたんですか」
「序盤からペースを上げたどころか、最初から独走だ。400mを68秒ペース。ほぼ最後まで変えなかった」
「室内で68秒ペースをキープしている……。カリナさんらしくないです……」
ヴァージンは、カリナが他の二人と同じように序盤からレースを引っ張っていく展開を想像した。だが、これまで経験がない分、どうしても違和感を覚えざるを得なかった。
「あのペースを見て、私は思った。もう、女子5000mが中距離走と言われるようになるのも近いのかも知れない……。かつて、男子5000mがそうであったようにな……」
「私も、少しだけそう思っています。むしろ、スパートの力が誰よりも高い私が、最後の砦かも知れません……」
「プロメイヤも、スパートの才能は高いが……」
マゼラウスが細い声でそう言うと、ヴァージンは首を横に振った。
「プロメイヤさんは、序盤にゆったり走りすぎているように見えるのです。私には、それが私に勝つための力を秘めているように思えなくはありません。序盤から飛ばしても、メリナさん以上のタイムは出せるはずです」
「プロメイヤは、まだそこで止まらないと、お前は思っているようだな」
「はい。私は、まだプロメイヤさんを強敵だと思っています」
そう言うと、ヴァージンは脳裏にプロメイヤの揺れる茶髪を思い浮かべた。一度はヴァージンの前に敗れ去っても、そう遠くない時期に戻ってくると、彼女ははっきりと感じていた。
「話を戻そう。カリナまでそのような走り方を見せる時代だ。だからこそ、お前はお前を貫き通すつもりだな」
「勿論です。今はまだ、長距離走の作戦を取っている私が、世界最速ですから」
「今はまだ……、か……」
マゼラウスは、ヴァージンの口が閉じてから数秒経って、小さく息をついた。その様子をヴァージンが横目で見ると、マゼラウスはやや取り繕ったような笑顔を見せた。
「いや、お前の口からも危機感が出ているように思えたからな……。相当昔に、追われる立場だと私が言ったことを、お前もこの歳になって心の底から理解しているように思えてならない」
「コーチ、私はそんなつもりで言ったわけじゃありません……。たしかに、年齢的にはそろそろと言われてもおかしくないですが……、私は自分の世界記録を前に、屈するつもりはありません」
「そうか……。そう返すのもまたお前らしいな……」
マゼラウスがそう言った後、ヴァージンは無意識に左足に力を入れた。すると、左膝でチクリと何かが刺さったかのような感触を、彼女は感じた。
(全力で走っても、今まで感じることがなかった刺激を感じる……。今までレースに集中し過ぎて気付かなかっただけのかも知れないけど……、なんか不気味だ……)
ヴァージンは、マゼラウスにそのことを告げようとした。だが、その刺激は数秒で消えてしまった。彼女は、膝のあたりで何が起こっているかも思い出せなくなった。
(何だったんだろう……)
(中距離走の走り方と言われても、今更私のフォームを一から変えるつもりはない。私は、ずっとそれでやってきたんだから)
ヴァージンは、誰もいない家に戻るなり、その日コーチから告げられた言葉を思い返した。男子5000mで起きたようなムーブメントが、女子5000mでも起きようとしているのだった。
――私のいた頃とは、全然違う。いまの男子5000mは、最初からハイスピードだからな。
(たしか、コーチが私に言ったのは、私が大学に入る前だったような気がする……。たしか、中距離走のために肉体改造までしてしまう選手がいたとか、言っていたような気もする……)
今や、男子5000mの世界記録は12分43秒17。女子5000m世界最速のヴァージンが挑んでも、周回遅れにされてしまうほどの進化を遂げてしまっている。そして、「ヴァージンに勝つために」そのフォームに向かおうとしているのが、今の女子5000mのトレンドと言ってよかった。
(本当に、女子5000mが中距離走になったら、その時私がいる場所はなくなる。でも、私が中距離走を目指す選手に勝ち続けている限り、そんなことは絶対にあり得ない……。私が、世界記録を出し続けている限り……!)
ヴァージンは、心の中でそう確信し、改めて自らのランニングフォームを貫いた。
それから1ヵ月、5000mのタイムトライアルでも徐々に自らの世界記録――13分50秒37――に近づけるようになったヴァージンは、この年最初のレースとなるアムスブルグ選手権に挑んだ。数年おきに訪れているネザーランドだが、この年は2月とは思えないほど温暖な気候で、室内選手権という名前が付いていなければ、外のトラックでレースを行ってもおかしくはない気候になっていた。
(それにしても、今回は誰がレースに出てくるんだろう……)
ヴァージンは受付へと向かうと、すぐに同じレースに出場する選手の名前を見た。次の瞬間、目が留まった。
(メリナさんがいる……)
これまでヴァージンは、ほぼ毎年と言っていいほど冬場に室内選手権に出場しているが、そこでメリナと会ったことはない。それどころか、メリナが室内選手権に出場したことすら、ヴァージンの記憶ではなかった。
(もしかして、カリナさんが室内で優勝したから、それに刺激されたのかも……)
ヴァージンは、姉妹であるメリナとカリナの表情を交互に思い浮かべながらロッカールームに向かった。すると、ちょうどメリナが入口近くで着替えを済ませたところだった。
「こうやってロッカーで会うの、久しぶりね。グランフィールド」
「お久しぶりです」
ヴァージンよりも一回り背の高いメリナは、ちょうどロッカーに入ったヴァージンを、やや見下ろすような視線で見つめていた。
「早速だけど、今日の私は、妹と戦う。グランフィールドと戦うと分かってから、少し気の迷いはあるけど、室内で13分台に入るギリギリのタイムを出された以上、私も負けてられないから」
「それなら、私もいつも以上に本気で走れます」
「さすがね……。久しぶりに1対1の勝負、どちらが先に駆け抜けるか、3時間後が楽しみ」
そう言うと、メリナはゆっくりと歩き出し、サブトラックへと向かっていった。ヴァージンは、その後ろ姿をやや細い目で見つめた。
(きっと、メリナさんは本気で室内13分台を狙ってくる……。メリナさんがこれまで以上にフォームを変えてくれば、それもあり得るかも知れない……)
女王ヴァージンが、これまで4回の室内記録を打ち立てているアムスブルグのスタジアムが、歓声に包まれる。未だに室内の自己ベスト13分台がヴァージンしかいない中、ほぼ全ての声援が彼女に注ぎ込まれていた。
ヴァージンは、メリナを横目で見た。ヴァージンではなく、心の中で妹カリナを気にしているように見えた。
(今日のメリナさんは、何かが違う……。いつも以上に本気だ……)
「On Your Marks……」
勝負の時を告げる声が、室内競技場に響き渡る。ヴァージンは、スタートラインを前にして小さくうなずいた。