第68話 ノー・ボーダー(6)
記念式典が終わって着替えを終えたヴァージンは、式典だけでは満足していない数多くのアメジスタ人に裏口で呼び掛けられたが、その輪の中を抜けて文化省の庁舎前までやって来るとほとんど人は残っていなかった。
だが、彼女は父ジョージを見つけ、大きく手を振った。
「父さんも、式典に来てくれたんだ……。ありがとう……」
「ヴァージンは私の大切な娘だ。二度とないかも知れないこの式典を、ずっと心に刻もうと思ったんだ」
「4年後も、また金メダルを取りたい。きっと、その頃にはスタジアムも完成して、もしかしたらこんな狭いところじゃなくて、そこで記念式典をやれるかもしれない」
「昔と変わらず、大きな夢を言ってくれるな……」
ジョージは、ヴァージンに向かってかすかに微笑んだ。その時、ヴァージンはジョージの周辺を見渡した。
「ヴァージン、何かあったのか」
「お姉ちゃん、ここに来てない……、ね……。病院を追われていたら来るって、すごく心配なメールが来たし」
ヴァージンは、そう言ってジョージのほうに顔の向きを戻した。だが、直後にジョージの目がやや細くなる。
「ヴァージン。フローラは、今まさに病院を追われそうなんだ……。式典が始まる前に病院の前を通りかかったら、出ていく、出ていかないの大騒ぎになっている」
ジョージは、グリンシュタイン総合病院のある方向を指差しながら、静かに告げた。その言葉に、ヴァージンはすぐに噛みついた。
「父さん……、そんなことになっているのに……、お姉ちゃんを助けてあげないの?」
「フローラは……、私が行っても無駄なところまで話が進んでいるようだ。そもそも、敗色が濃い……」
ジョージはそう言ったものの、何故フローラがそのような立場に追い込まれているのかは、決して告げようとしなかった。するとヴァージンは、ジョージに向けて首を横に振り、告げた。
「私は、ヤグ熱と戦い続けたお姉ちゃんを……、助けてあげたい。どうして病院を追われなきゃいけないのか、私には全然分からない!」
「ヴァージン……」
名もないアスリートだった頃であれば引き留めたジョージが、この時はかすかにうなずいたまま何も言わず、ヴァージンとほぼ同じ歩幅で一緒に歩き出した。
「さっきから私は言っています。私が、どれだけヤグ熱と戦い続けたか……。どれだけのヤグ熱患者を……、かかってしまった経験から救うことができたか……。どうしてそれを分かってくれないのですか!」
グリンシュタイン総合病院のある路地全体に聞こえるように、フローラの叫ぶような声が響き渡る。ヴァージンが群集の最も外側から見つめると、フローラを数人の看護師が取り囲み、病院の入口を挟んだところに何十人もの看護師が腕を組んでフローラを見つめていた。
(お姉ちゃんを、何十人もの医師が追い出そうとしている……。真ん中にいるのが……、病院の理事長とか……)
ヴァージンが病院の理事長と思われる人物のほうに目を合わせたとき、その人物が後ろで腕を組んで反論した。
「グランフィールド。確かに、復帰後はヤグ熱に苦しむ病院にとって力になった。だが、そもそもお前がヤグ熱にかからなければ……、お前がヤグ熱患者を診察しなければ……、グリンシュタイン総合病院の信用がここまで落ちることはなかった!」
病院の理事長と思われる人物がそう告げた瞬間、理事長側につく何十人もの医師や看護師が、口々に言い放つ。
「あんな、ヤグ熱を抱えてアメジスタに入ってきたバカなんて、追い返せばよかったんだよ!」
「あいつを追い返せば、ヤグ熱がアメジスタに広がることなんてなかったんだ!」
(何この……、気持ち悪い言い争いは……)
ヴァージンは、その輪の中に入ることができなかった。せめてフローラの近くに寄りたかったものの、グリンシュタインの人々の他にも報道陣が数多く詰めかけており、彼女は未だに輪の外側にいるしかなかった。
(しかも、さっき式典を撮っていたカメラクルーと同じメディアだし……、これも世界中に流れてしまう……)
やがて、医師たちの言葉が止むと、フローラが理事長に一歩近づき、さらに大きな声で告げた。
「アメジスタ人じゃない。だから診察するな、追い返せ。……あの時、病院はヤグ熱で苦しむ一人の外国人を見捨てようとしていたのです……。私は、それが許せないと思って……、自分の判断で診察を受け入れました。たしかにその結果、私もヤグ熱にかかり、病院に迷惑を掛けました。けれど、私は医師として当然のことをしたはずです!」
その時だった、一呼吸置いたフローラの目が、群集の最も外側で見守っているヴァージンを見つめているように、ヴァージンには見えた。そして、全く違うフィールドで戦う姉妹が、同時にうなずいた。
(お姉ちゃん……!)
フローラが、再びヴァージンを見つめながら言葉を選んでいるようだ。そのことに気付いたヴァージンは、祈るような気持ちでフローラ側と理事長側を交互に見つめた。
「この前、オリンピックがありました。そこにいる私の妹、ヴァージンが……、アメジスタ人で初めて世界一になりました。ヴァージンは……、アメジスタの代表として走り続けています。ヴァージンのライバルは……、それぞれの国を背負って、ヴァージンと同じレースを走っています」
「何だ、グランフィールド。偶然妹が来たからって、そんな医療と外れた話にすり替えないで欲しい」
理事長が口を挟むと、フローラは首を横に振り、もう一度理事長を見つめた。
「私は先日、オリンピックに挑むヴァージンを病室から応援していました。こんな状況でも、世界を相手に立ち向かうアメジスタ人に、私は誰よりも熱い声援を送りました。そして、世界中の人々が私と同じようにそれぞれの選手に声援を送り、その声援と声援が重なり合って……、オリンピックという場で世界が一つになるのです」
ヴァージンは、訴え続けるフローラの言葉に、深くうなずいた。オリンピックに行ったことのないフローラが、妹の走る姿だけを見てこのように思っていることを、ヴァージンは感じずにはいられなかった。
「彼女のいる勝負の世界に、国境なんてありません。……世界を相手に全く成績を残せなかったアメジスタ。でも、そこからやって来たヴァージンを、世界は拒みましたか?……どんなレースでも、一人のアスリートとしてヴァージンを受け入れ、他の国の選手と同じスタートラインに立っているのです」
フローラは、少しだけ間を置いてヴァージンにうなずく。そして、最後にこう言い放った。
「私は、ヴァージンの戦う姿を自分なりに置き換えてみました。その中で、私は強く思いました。医療にだって、国境はないのだと……!この星で、また流行してしまったヤグ熱に立ち向かうのは、私たちの責務のはずです。たとえそれが国外から持ち込まれたものであったとしても、ヤグ熱との戦いから逃げてはいけないのです!……私は、間違っていますか?」
エスカレートした言い争いに、群衆が次々と集まってきて、やがてフローラの声も理事長の声も聞こえないほどになった。ヴァージンも、その後フローラが何と言ったのかも思い出せなかった。
それでも、理事長の決めた決定は覆らなかった。フローラがグリンシュタイン総合病院、そしてアメジスタ全体の医療崩壊を起こした張本人であり、責任を取って医師を辞さなければならないということを、フローラも、そしてヴァージンも受け入れなければならなかった。
(責任って、やっぱり一人の人間が背負うには重すぎる……)
散っていく群集を前に、一人立ち尽くしたヴァージンは、11年前に彼女の目の前でレーシングトップスを引きちぎったライバル、エリシア・バルーナのことを思い出さずにはいられなかった。本人ではなく、家族がヴァージンに対する嫌がらせを行ったために、バルーナまで犯罪者のレッテルを貼られてしまったとき、ヴァージンは初めて責任の重みを思い知ったのだった。
――私はもう、犯罪者。アスリートではいられない……。
(あの時、バルーナさんも社会的な責任を取らされて、私の目の前でトラックを去った……。その世界にいられなくなる瞬間って……、どうしてこんなに理不尽なんだろう……)
ヴァージンの中で、バルーナの去り行く姿がフローラの姿に重なった。
1年ぶりに実家で食べる夕食は、アメジスタで生活していた頃以上に質素で、食卓を囲んだフローラはおろか、ジョージも肩を落としていた。
「かたやアメジスタの英雄となったアスリート……、かたやアメジスタにヤグ熱を広めてしまった医者……。あぁ、私はこれからどうすればいいのか……」
「父さん……、頭を抱えないでよ……。お姉ちゃんの言っていること、何も間違ってないはずなのに……」
ヴァージンはフローラとジョージを同時に見つめた。先にうなずいたのは、フローラのほうだった。
「私は……、今でも思います。ただ、医師として当然のことをやっただけなのに……、と」
「お姉ちゃん……、きっとこれからもうまくいくって。過去を忘れることも、かかってしまった病気も忘れることも、お姉ちゃんにはできないかも知れないけれど……、少しでも前を向いてやり直そうよ」
「そうね。勝負の世界にいるヴァージンから、そう言ってくれるだけでも……、嬉しい。少しだけ、心の絆創膏になったような気がする」
フローラは、気持ちが笑えるはずがないのに、表情で笑いを見せようとした。それを見て、ジョージも垂れていた首を少しだけ持ち上げた。
翌日、フローラは残務整理のために病院に出て、その翌日にはヴァージンもオメガへと飛び立った。だが、オメガに戻ったその日、夕方のニュースを何気なく見ていると、見覚えのある光景が画面に飛び込んできた。
(もしかして……、お姉ちゃん……?)
そこには、グリンシュタイン総合病院の前で必死に訴え続けるフローラが映っていた。右上には「アメジスタで最初にヤグ熱に感染した女性医師、診察の真意を語る」とあり、その後にはスタジオでキャスターがこう告げたのだった。
「結果として、わずか4ヵ月でアメジスタの人口の3分の2近く、75万人が感染し、10万人以上の死者を出しました。しかし、周囲の反対を押し切り、ヤグ熱に一人で立ち向かっていった彼女の姿は、とても責められるようには思えません。彼女に、幸あることを願っています」
(お姉ちゃんは……、やっぱり間違ってなんかない……)
テレビの画面を見続けるヴァージンは、時折うなずきながら、心の中でそう言い聞かせた。それでも、この出来事が世界に伝えられた後、当のフローラの運命が大きく動き出すことまでは、ヴァージンは予想することができなかった。