第68話 ノー・ボーダー(5)
アメジスタでオリンピック優勝記念式典が行われる当日、ヴァージンはグリンシュタイン国際空港に降り立った。昨年帰国した時には、空港の新たなターミナルビルが建設中だったが、今回はガラス張りの眩いビルが飛行機の窓から飛び込んできた。飛行機から階段で地面に降ろされることもなく、アメジスタ国外にある多くの空港と同じように、飛行機からターミナルビルに階段なしで移動することができた。
だが、ヴァージンにとってそれ以上に驚いたことは、保安エリアから外に出た瞬間に待っていた100人ほどのアメジスタ人の姿だった。
――オリンピック金メダルおめでとう!ヴァージン・グランフィールド選手!
そう書かれた大きな横断幕を持った人、アメジスタでも少しずつ普及し始めたカメラを向ける人。アメジスタの人々が空港まで出迎えるということ自体これまでなかったため、ヴァージンは思わず困惑した。それでも彼女は、すぐにバッグからメダルを一つ取り出し、そっと見せた。決してアメジスタ人が近寄ってくることはなかったが、多くの人々がそのメダルを珍しそうに見ていたことは、ヴァージンの目にもしっかりと焼き付いた。
(空港でこんな出迎えがあったということは……、文化省の前にはどれだけの人がいるのだろう……)
何もかも変わった空港の中でヴァージンは、ターミナルビルの出口を探した。祖国であるにもかかわらず、初めて遠征に訪れる国のように、彼女はアメジスタ語で「出口」と書かれた案内を追いながら進む。すると、ビルの出口に一人の男性が立っているのが見えた。
「お待ちしておりました、グランフィールド様」
黒髪で40歳前後に見える、ヴァージンよりやや背の高い男性は、そう言うとヴァージンに名刺を差し出した。そこには、10月に記念式典の招待メールを差し出したハイエル・ガルーテルの名前が書かれていた。
「私にメールを出した、スポーツ振興担当、ガルーテルさん……、いや、ガルーテル様ですね……」
「その通りです、グランフィールド様。さぁ、式典会場で多くのアメジスタ人がお待ちしていますよ」
ヴァージンはガルーテルに連れられ、用意されていた車に乗り込んだ。乗用車がほとんど普及していないアメジスタで、タクシー以外の自動車に乗ったことがほとんどなかったヴァージンは、初めてとなる公用車にも物珍しそうな目を向けたのだった。
職員通用口となっている文化省の裏門で公用車が止まると、ガルーテルがヴァージンの前に立ち、ゆっくりと控室まで案内した。控室にヴァージンと一緒に入ったガルーテルは、そこで一つヴァージンに尋ねた。
「グランフィールド様。本日は、オリンピックの金メダルはお持ちでしょうか」
「バッグに入っています。箱も持ってきましたので……、式典で開けられるようにしています」
そう言うなり、ヴァージンはガルーテルにだけそっと金メダルを見せた。箱を開けた途端、天井のライトに照らされた眩い光が輝きだし、ガルーテルは思わず息を飲み込んだ。あまりの珍しさに、ガルーテルのほうが式典の前に手を伸ばしそうになるほどだった。
「では、グランフィールド様に、今日の式典の流れを説明します。まず、メダルの箱はここで回収し、私の案内で登場して頂いた際に、テーブルに置いた箱から取り出し、メダルをグランフィールド様でかけて頂くことになります。終わりましたら、簡単なインタビューと表彰に移ります」
「分かりました」
「それで、その後メダルのほうはどうなさいますか」
ガルーテルがそっとヴァージンに尋ねると、彼女は少し間を置いて伝えた。
「できれば家族に見せたいし、一方でアメジスタのみんなに見てもらいたいというのもあります……。なので、来年になったら……、しばらく文化省に展示して、その後はまた私が持っていようと思います」
「そうですか……。もしそこから予定が変わるようでしたら、ご連絡ください」
ヴァージンは一度メダルの入った箱をガルーテルに預け、箱からレーシングトップスと「フィールドファルコン」を取り出した。文化省の前で走るわけではないが、アメジスタ国旗の色に染まった、アメジスタの素材が使われているウェアを着るほうがアメジスタ人にとって分かりやすいと思ったからだ。
そして、それが功を奏したのか、ガルーテルの合図でヴァージンがステージ上に上がった瞬間に、その場が多くの声援に包まれた。そして、ガルーテルの横までやってきて、彼女は正面を見つめた。
(文化省前の広場だけじゃなく、歩道までいっぱいの人が私を見ている……!)
1000人ほどのアメジスタ人が、その場に集まっていた。さらには、国外のテレビ局も何社か来ており、スタジアムではまず見かけないサイズのカメラがいくつもヴァージンに向けられている。ここまでの人数を前に話したことのないヴァージンは、アメジスタ人の群衆を前に驚くしかなかった。
一方で、驚くヴァージンを横目に、ガルーテルは式典を進め、アシスタントがテーブルにかけた布を外した。
「これが、プロトエインオリンピック、女子5000m、そして10000mでグランフィールド選手が掴んだ、二つの金メダルになります。グランフィールド選手、ぜひ自らの手で首にかけてください」
そう言い終わるが早いか、ヴァージンはケースから二つのメダルを取り、両方首にかけ終わると、5000mのメダルをゆっくりと顔の横に上げ、頬に寄せた。その瞬間、群衆の持っていた多くのカメラが光り、その光の中でヴァージンはメダルを手にした瞬間のように微笑んだ。
(アメジスタの人々の前で、こんなに微笑んだのは初めてかも知れない……)
大きな歓声が上がる中で、ヴァージンは集まったアメジスタ人一人一人に目線を合わせた。彼らの目は、同じアメジスタ人が掴んだ栄光を称えているようだった。
やがて歓声が止むと、ガルーテルがヴァージンにそっとマイクを差し出した。
「改めまして、グランフィールド選手。多くのアメジスタ人から祝福を受けた、今の心境をお聞かせください」
「はい……」
ヴァージンはマイクを持って、アメジスタの人々を見つめた。だが、式典用の言葉をそれ程用意していなかった彼女は、数秒で言葉が詰まってしまった。
それでも彼女は、目の前に広がる光景を見て、かつての記憶を思い出し始めた。
(アスリートになる夢を後押ししてくれた「夢語りの広場」でも、みんなを前にして詰まってしまった……)
そこで言葉が詰まらせたままなら、その先のヴァージン・グランフィールドは全くなかった。「アスリートになれるわけがない」と言われた彼女が、それを跳ね返したときの言葉を、この時もまた思い出していた。
「15年前、私は『夢語りの広場』で言いました。これ以上、アメジスタを弱いなんて言わせないと。その強い気持ちで、私はアメジスタ人として、アメジスタの代表として戦い続けてきました。今回、やっとオリンピックで世界一になれて……、アメジスタは強いんだと、世界一になれるんだと、みんなに伝えることができました。まだ、私は戦い続けますが……、一つの夢が叶った証が、このメダルだと言っても過言ではありません」
ヴァージンがやや強い声でそう言うと、再び歓声が上がった。「夢語りの広場」で語ったことを覚えている人も数人いるように、彼女の目には映った。
「ありがとうございました。では、最後に表彰を行います。……ヴァージン・グランフィールド選手。あなたは、オリンピックで2種目の金メダルを掴み、アメジスタじゅうに勇気と希望を与えてくださいました。その成果を称え、本日ここにアメジスタ文化省より表彰いたします」
ガルーテルがそう言い終わると、彼の手に持っていた表彰状をヴァージンに差し出し、その後すぐに舞台袖からアシスタントがやってきた。アシスタントの手には、「30万リア」と書かれた小切手が握られていた。
「続いて、国からの報奨金です」
賞状から続く拍手は、鳴りやむことがない。ヴァージンは差し出された小切手をゆっくりと受け取った。だが、その直後に彼女はマイクを持った。
「賞状と賞金、ありがとうございます。ですが……、この賞金、辞退させてください」
「グランフィールド選手……、どうされましたか」
台本にない展開に、ガルーテルが思わずヴァージンに尋ねる。すると彼女は、観衆に向かって静かに告げた。
「この金メダルは、私だけではなく……、大変な状況の中で応援してくれたアメジスタのみんなで掴んだものだと思うのです。だからこそ、私はこの賞金を、アメジスタの未来に託します。特に、建設中のスタジアムには、早く完成して欲しいと思っていますので、私はこれからも賞金を贈り続けようと思っています」
「分かりました。グランフィールド選手の気持ちに、アメジスタとしても応えようと思います」
最後は、ガルーテルがうなずきながら、ヴァージンから差し出された賞金を再び受け取った。ヴァージンのその行動に、多くのアメジスタ人が手を叩いていた。
歓喜に包まれたまま、オリンピック優勝記念式典は終わりを告げた。ヴァージンの目には、数多くのアメジスタ人の姿がしっかりと焼き付いていた。