第68話 ノー・ボーダー(4)
イベントが終わり、4人のモデルアスリートが壇上から降りると、控室まで続く通路に何人もの報道陣が立っていた。その多くが、今回新たにモデルとなったナイトライダーやファミーユに向けられると思っていたヴァージンは、「フィールドファルコン」の一般販売の復活だけを頭に浮かべながら歩いていた。
そこに、オメガ国内にある複数のメディアから一斉にマイクを向けられた。マイクが目に入ったと同時に、ヴァージンは自分から伝えたいことをすぐに頭に思い浮かべた。
「グランフィールド選手。今回の『フィールドファルコン』の話は、完全なサプライズだったのですね」
「そうです。私も、エクスパフォーマから知らされていませんでした」
「グランフィールド選手のモデルがまた世界中に使って頂けると聞いた、今のお気持ちは」
「私のように速く走りたい、強くなりたいと思う、全ての人の力にぜひ履いて欲しいというのが一つです」
ヴァージンは、そこで思い出したかのように話を進めた。それから、カメラに向かってうなずく。
「……それに、できればアメジスタのみんなにも、使って欲しいと思うのです」
すると、一人の記者がヴァージンの言葉を待っていたように言葉を返した。
「グランフィールド選手の口から、アメジスタという言葉が出てきたわけですが……、やはりこんな状況でもアメジスタのことを気にされているわけですね」
「勿論です。アメジスタを背負って戦っている以上は、たとえ飛行機が飛ばなくても、忘れることはできません」
「飛行機が飛ばない以外に全く情報がないわけですが……、グランフィールド選手、アメジスタが今どうなっているか……、分かる範囲で教えて頂けませんか」
(思った通りの質問になった……)
ヴァージンは、その言葉を待っていたかのような表情を浮かべることなく、記者に告げた。
「ヤグ熱は、残念ながら収まっていません。メールで伝えられただけで、アメジスタの感染者は30万人以上、5万人以上が命を落としました……。貧しく、仕事がなく、多くの人が飢えに苦しみながら暮らし、それでもみんなが一生懸命生きていたはずのアメジスタが、こんなことになってしまうのは……、心が痛いです……」
イベントの雰囲気とは程遠い、ややトーンの低い声でヴァージンは話す。涙こそ流さなかったが、それがアメジスタの現実だと教えるかのように、オメガで誰よりもアメジスタを知るその口は言葉を告げた。
「けれど、メールで言っていました。私がオリンピックで走るときだけは、声を上げて応援し、勇気をもらったのだと……。私が、レースの後にアメジスタに送ったエールも……、ちゃんと届いていたようです」
「それは……、グランフィールド選手の持っている力なのかも知れませんね」
「そうですね……。ありがとうございます……」
ヴァージンは、マイクがゆっくりと離れてもなお、最初に尋ねた記者に時折目をやりながら歩き出した。
(お姉ちゃんが最初の感染者だってこと……、言えなかったな……)
アメジスタのヤグ熱の状況は、イベントから数時間と経たないうちにオメガ国内のメディアで一斉に伝えられ、次の日には国際的な非営利団体が「アメジスタ・ヤグ熱支援基金」を立ち上げるなど、アメジスタの置かれた現実に世界が少しずつ理解を示すようになった。
その後も、フローラからのメールは2週間に1回届いた。アメジスタでは真夜中であるにも関わらず、「いつもより早い時間に上がれたので、病院の休憩室からメールします」という言葉が添えられていた。
(お姉ちゃんのほうが、私なんかよりもずっと大変なはずなのに……)
ヤグ熱がアメジスタで広がりだして以後、フローラに限らず医療従事者は毎日が残業続きになっている。そのことはアメジスタに帰れないヴァージンにもはっきりと分かっており、ヴァージンは必ずと言っていいほどメールに「Go!お姉ちゃん!」と書いて返信していた。
そして、10月も後半になった。
(そろそろまた、お姉ちゃんからのメールが届いているかな……)
ヴァージンは、ファーシティ選手権の数日前に、思い出したようにメールを開いた。三日ほど開いていなかったメールを開け、まず差出人の名前に目を通し、そこに「フローラ」があるかどうか眺めた。
しかし、この時はすぐに、他に見覚えのある差出人を見つけた。
(アメジスタ文化省……。ものすごく久しぶりにメールが届いた……!)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヴァージン・グランフィールド様
はじめまして。私はアメジスタ文化省、スポーツ振興担当のハイエル・ガルーテルと申します。
ヤグ熱の対応に追われ、立ち上げたばかりのメールサービスを数ヵ月見ることができず、申し訳ございません。
さて、プロトエインオリンピックの2種目金メダル、おめでとうございます。私も庁舎の中で、仕事の手を止めて、女子5000mの中継を見ましたが、グランフィールド様が他の国の選手に打ち勝つ瞬間、感動を受けました。それに影響された国内の若者が「アメジスタ人だって世界一になれる」と心を打たれ、感染対策を取って田舎まで走るようになるようになりました。
本来でしたら、オリンピックの直後にグランフィールド様をアメジスタにお招きし、記念の式典を行いたいところでしたが、ヤグ熱の流行でしばらく延期となっている状況です。ただ、国内のヤグ熱も、このところは落ち着いてきており、来月にはオメガからの飛行機が復活するとの情報も受けております。ストップしていたスタジアム建設も、国外からの労働者の受け入れ再開とともに再び動き出します。
とは言え、いつアメジスタ国内でヤグ熱が再発するかも分からない上、グランフィールド様にもご予定が入っているかと思います。今すぐ来て欲しいという無理は言いません。グランフィールド様が帰国できるときが来たら教えてください。
グランフィールド様の姿と、栄光の金メダルを見られる日を楽しみにしております。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(アメジスタの状況が……、少しずつ良くなっている……)
オリンピック前から飛ばなかったアメジスタへの飛行機が飛ぶと知り、ヴァージンはメールを見た瞬間に飛び上がった。数多くのアメジスタ人が犠牲になり、集団免疫を手に入れるという結果になったものの、ヤグ熱で受けたダメージから少しずつ回復しようとしている祖国の姿を、彼女ははっきりと知った。
(できればアメジスタに帰りたいけど……、どうしよう……)
ヴァージンは、パソコンから箱から開けたままの状態になっている二つの金メダルに目を移した。オリンピックから2ヵ月以上経っているにもかかわらず、メダルの輝きは色あせていなかった。
(でも……、今度のファーシティが終わったら、オフシーズンになる。来年になったら室内選手権も始まるから、出来れば今年のうちに行ったほうがいいのかも知れない……)
アメジスタで暮らす人々にヤグ熱への集団免疫ができているのであれば、仮にまだヤグ熱のウイルスが残っている場合にヴァージンだけが感染する可能性が高くなる。世界じゅうを飛び回る彼女にとって、ヤグ熱でしばらく離脱することは避けたかった。それでも、アメジスタへの想いが消えることはなかった。
(きっと、飛行機が飛ぶようになれば、ニュースでもまたアメジスタのことが伝えられるかもしれない。本当に落ち着いた頃に帰るか……)
数日後に行われたファーシティ選手権では、他に5000mの自己ベストが13分台のライバルが出なかったこともあり、ヴァージンは13分55秒83のタイムで軽々と優勝することができた。だが、オリンピックで50秒台のタイムを出している彼女がその成績で満足することはなかった。
(ここまで来たら……、私は13分50秒の壁も破る……。この脚で……!)
一方で、先延ばしになっていたアメジスタへの帰国も、オメガのメディアからアメジスタの回復が少しずつ伝えられる中で、ヴァージンはようやく日程を決めた。32歳の誕生日を迎える12月に実家に2泊するよう、彼女は飛行機を予約した。再び毎日飛ぶようになったグリンシュタイン便は、ヤグ熱から回復した直後にもかかわらず、座席がほとんど残っていなかった。
(みんながアメジスタに行くということは……、私ももう行って大丈夫ということ……。そう信じて、文化省や父さん、お姉ちゃんにも連絡を取ろう……)
文化省に送ったメールはすぐに返信があり、帰国したその足で文化省の前で記念式典を行うと連絡を受けた。だが、フローラ宛に送ったメールには、ただ一言このような返信しかなかった。
――もし、その時までに病院を追われていたら、式典を見に行きます。
(お姉ちゃん……?)
ヤグ熱との戦いをほぼ終えたと思われていたフローラが、新たな戦いに挑まなければならない。そのことを、パソコン上に現れる文字は静かに伝えていた。この時、何故病院を追われるのかも分からなかったヴァージンには、このことをさらに突っ込んで尋ねることができなかった。