第68話 ノー・ボーダー(3)
控室の端にバッグを置いたヴァージンは、家から持ってきたレース用の「フィールドファルコン」に履き替えた。それからファミーユの前に座ると、もう一度ファミーユの履いているシューズを見つめた。
「ファミーユさんのシューズ、話には聞いていたのですが、私の履いているものとほとんど同じですね」
「そうですね……。先輩の『フィールドファルコン』をもとに作ったと言っていたので、見た目は同じです。ただ、短距離向けなので反発力は『フィールドファルコン』より20%ぐらい高めたとか言ってましたね」
「短距離向けだと……、そうなるわけですね……」
800m走までであれば、パワーが2分ほど続けば走り終える。5000mや10000mを走り続けるヴァージンと違って、最初から全力で飛ばしていくことになれているファミーユは、1歩目から力強く飛び出していくパワーが必要となるため、見た目は「フィールドファルコン」と同じとは言え、中身は完全に違うものになっていた。
ヴァージンがファミーユのシューズに目をやっていると、ファミーユはそっとそのシューズを脱ぎ、手で持ってヴァージンに手渡そうとしていた。
「いいんですか……。履いているシューズを私が持ってしまって」
「さっきヒルトップさんから渡された新品だからいいんです。それに、先輩だけは特別です」
ファミーユがそう言うと、ヴァージンはファミーユのシューズを手に取った。パワーを高めたにもかかわらず「フィールドファルコン」よりも軽くなっており、よりスピードを重視するシューズだということを、ヴァージンは手の感覚ではっきりと覚えた。シューズの色は黄色で、靴底も形が変わっており、翼のトレードマークはなかった。その代わり、外側にはカクカクした文字で黒く「G-GRIP」と書かれてあった。
(「Gグリップ」……。もはや、「フィールドファルコン」の面影すらない……)
ヴァージンは、ファミーユに見えないように心の中でため息をついた。ヴァージンのシューズをモデルにしたとは言え、名前すら被っていないことにショックを隠せなかった。
(せめて、名前だけは少しだけ残して欲しかった……)
ヴァージンは、足元の「フィールドファルコン」を見つめ、心の中で再びため息をついた。
その時、控室のドアを叩く音が聞こえ、ヴァージンがドアを開けに行った。そこには、ヒルトップではなく、男子のモデルアスリートのカルキュレイムと、新入りのナイトライダーが並んで立っていた。ドアを開けた瞬間、二人の目がヴァージンを見つめていることは、彼女にはすぐ分かった。
「時間だから、二人を呼びに来たよ」
「分かりました、今行きます」
ヴァージンがそう言って、控室の中にいるファミーユを呼ぼうとすると、ナイトライダーがヴァージンを見つめながら、そっと話しかけた。
「初めましてだね、グランフィールド。僕のことは、知ってるかい」
「名前だけは知っています。100mで金メダル取った、ナイトライダーさんですよね……」
ヴァージンがそう答えると、ナイトライダーはヴァージンに微笑んだ。そのすぐ横にカルキュレイムが立ち、男子二人で顔を見合わせた。
「で、グランフィールドはパッと見、どっちに興味ある?」
「カルキュレイムさん……。こんなイベントの前に即答できないです……」
ヴァージンは、そう言いつつも、二人の表情を交互に見つめていた。既にヴァージンに夫がいないことは二人とも分かっているようで、できればヴァージンに接近したいという表情を浮かべていた。
(どうしよう……。今までカルキュレイムさんから接近してきたことは何度もあるけど……)
アルデモードという、アメジスタにいた頃からの知り合いがいたからこそ、ヴァージンはカルキュレイムからの誘いにそれほど首を縦に触れなかった。だが、結婚までたどり着いたアルデモードを事故で失った今となっては、カルキュレイムの誘いを断る理由も見つからなかった。
(でも、隣のナイトライダーさんも……、顔がものすごくきれいで……、この顔で告白されたらついて行ってしまいそうな気がする……。この二人からは、なかなか選べない……)
気が付くと、ヴァージンは首を小さく横に振っていた。二人の残念そうな表情が飛び込んでくる。
「まだ……、考えつかないです」
「さて、皆さん!本日は『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』の新しいモデルアスリート2名と、新たなステージへと飛び出す新アイテムを紹介します!」
ヒルトップの声がステージに響くと、ヴァージンは新入りのモデルアスリートを先導するようにステージへと上がった。ヴァージンがステージに上がったときも大きな歓声が上がったが、まだ報道陣に発表されていないナイトライダーとファミーユが壇上に上がった瞬間、二人に一斉にカメラが向けられるほどの興奮に包まれた。
「さぁ、今回私どもの新しいモデルとなった、男子・女子の新メンバーになります!男子100mのオリンピック金メダリスト、ヴェイヨン・ナイトライダー選手!そして、女子は800mのオリンピック金メダリスト、キャサリン・ファミーユ選手です!」
(私がモデルデビューした時も……、こんな雰囲気に包まれていた……)
エクスパフォーマの新たな広告塔にふさわしい実績を持つ、二人の新たなモデルを、気が付くとヴァージンも見つめていた。鳴りやまない拍手の中で、二人が「よろしくお願いします」と声を上げると、イベント会場はさらなる盛り上がりを見せた。
「そして、私どもがよりパワフルな走りをお届けするために開発した、短距離ランナー用シューズを、二人には履いて頂いております。早速、紹介しましょう!『Gグリップ』です!」
ヒルトップの合図で、ナイトライダーとファミーユが、ステージ後方に置かれた箱に手を伸ばし、中から新品の「Gグリップ」を取り出した。男子用と女子用で形は異なるものの、ナイトライダーの持つ「Gグリップ」をヴァージンが見る限り、男子用のほうが強そうに思えた。あくまでヴァージンのモデルシューズとして作られた「フィールドファルコン」と違って、男女同じ名前のアイテムを展開することに、彼女は驚きを隠せなかった。
それから二人の挨拶が始まり、挨拶の後には記者からの質問が飛び交った。世界的なスポーツブランドと契約すること、そしてその広告塔となることの心構えを尋ねられたほか、エクスパフォーマに対する思いや、オリンピックで金メダルを取ったことで世界が変わったかなど、多岐にわたる質問が繰り広げられた。
ヴァージンは、二人への質問を聞きながら、何度もうなずいた。
(ファミーユさんは、イベントでも私を尊敬しているって言ってくれた……。違う商品名になったとは言っても、私のシューズを使えて嬉しいと言っているし……、なんか「フィールドファルコン」が販売中止になったと思えなくなってくる……)
ヴァージンがそこまで思ったとき、ちょうど二人へのインタビューが終わり、ヒルトップが「さて」と話を切り替えた。盛り上がっていた会場が、その一言で静まり返り、報道陣にも知らされていない新たな発表があるのではないかという目で、誰もがヒルトップを見つめていた。
「今回開発した『Gグリップ』、そのもとになったシューズが、いまヴァージン・グランフィールド選手が履いておられます『フィールドファルコン』です。ご承知の通り、彼女は『フィールドファルコン』の圧倒的なパワーに支えられ、オリンピックの舞台でも世界記録を叩き出しました!」
(何だろう……。もしかしたら「フィールドファルコン」に新しい展開が待っているのかも知れない……)
ヴァージンは、目線を足元の「フィールドファルコン」に動かした。既に市販はされておらず、ヴァージンが活動するためだけに製造されているアイテムに過ぎないはずのシューズを、ヒルトップがここまで詳しく言っていることに、彼女は違和感を覚えずにいられなかった。
「私どもの『フィールドファルコン』を使用した方々から、数多くの苦情を頂きました。平たく言えば、グランフィールド選手や、高速スパートを出せるような一握りのアスリートにしか使えないのではないかということです。そこで、私どもでは昨年、いったん『フィールドファルコン』の展開を終了し、短い時間でパワーを発揮できる『Gグリップ』の開発に動き出したのです」
ヒルトップの話は、まだ終わらない。先に進むにつれ、ヴァージンのそっと息を飲み込む回数が増える。
「ところが、販売を終えた直後から『フィールドファルコン』に対する問い合わせが殺到しました。以前の『Vモード』並みのパワーに抑えた一般向けの『フィールドファルコン』は作れなかったのか、というお叱りの言葉、さらにはグランフィールド選手のように軽々と長距離を走りたい、という要望が相次ぎました。これを受け、私どもでは一度取りやめた一般向けの『フィールドファルコン』を、ややパワーを抑える形で来年から販売を再開することといたしました!」
(販売再開……!)
何も知らされていなかったヴァージンは、ヒルトップがそう言い放った瞬間に、心の中で力強く叫んだ。彼女は思わず右膝を上げて報道陣からカメラが見える高さまで「フィールドファルコン」を上げた。
(私のシューズを、また世界で使ってもらえる……!)