第8話 思いがけない再会(2)
「アルデモードさんの会社……」
トレーニングがオフとなった少し涼しい日に、ヴァージンはオメガ国中部のフェルスという街に降り立った。ポストに入っていた手紙を持ち歩きながら、ビルがいくつも立ち並ぶオフィス街をなかば手探りで歩いていく。地図もアメジスタ語で書かれていたので、その地図を理解できないことはなかったが、走ること以外の才能がそれほど高かったわけでもないヴァージンは、やはり迷子になりかけてしまった。
(あの角って……地図のこの場所だったっけ?)
ヴァージンは、角を曲がること自体に恐れ始めてしまった。何しろ、アルデモードの会社を示すような看板が、このビル街にはない。ビルの入口に入居企業が一覧で示されているだけだ。幸いアルデモードは会社の中ではなく、会社の前で待っているというので、彼の姿さえ見つければよいはずなのだが……。
場所の見当がついて20分。ヴァージンの表情に焦りの色が見える。しかし、その不透明な時間はすぐに終わりを見せた。
「いたじゃないか!こっちこっち!」
(……!)
ヴァージンは、真後ろから声を掛けられた感じがして、思わず後ろを振り向いた。ガラス張りのオフィスビルの前に、かすかにアルデモードらしき凛々しい表情の男性が見える。ほんのわずかだけ、彼の代名詞でもある鍛えられた足が映り、ヴァージンは微笑んだ。
「やっぱり、その服装していたら、すぐに君だと分かっちゃうよ。ね」
「アルデモードさん……。逆に、このウェアでよかったです」
ヴァージンは、そもそもフェルスが大都会だと知らずに、ほとんど着たことのないスーツではなく、トレーニングジャケットでこの街までやってきてしまった。平日、この街で、そのようなラフなものを着ている人がいなかったため、ヴァージンは余計に目立ってしまっていたのだ。
「とにかく、会えてよかった……」
「そうだね。じゃあ、ここで話すのも何だし、ちょっとお茶でもしていこうか」
「……はい」
二人のアスリートが、オフィス街で手を繋ぐ。あまり目立たないように優しく繋いでいるものの、時折日の差す場所では、それがまるで熱い炎のように道行く人に映った。
「アルジスコーヒーのカフェだ」
「カフェ……。入ったことないです」
アカデミーでトレーニングを積み重ねていく中で、グラティシモなどからカフェの存在を耳にはしていたが、ヴァージンはこの場所に足を踏み入れたことなどなかった。カフェに行ったグラティシモから、おすすめのコーヒーなどを紹介されても、時折相槌を返すだけで、母国にそれがないヴァージンが足を向けることなどなかったのだ。
ヴァージンは、アルデモードに誘われるままに、開放感のある透明なドアをゆっくりと開いた。
(……なに、この香ばしい匂い!)
ドアの奥から、甘味でもなく苦味でもない、不思議としか言えない匂いがじわじわと漂ってきた。何度か通っているように見えるアルデモードの横で、ヴァージンは時折鼻に手を当てながらその匂いを感じた。
「ヴァージンは、何がいい?」
「……オレンジジュース。コーヒーは、まだ飲んだことないから、いいです」
「そんな飲まず嫌いなこと言うなよ。何事にもチャレンジだ」
「じゃあ、私も……」
アルデモードの優しい目が、ヴァージンを見つめていた。店内のライトに照らされたその眩しい表情に、ヴァージンはオレンジジュースではなく、アルジスコーヒーのブラックを注文したのだった。
「やっぱり、現実は厳しそうだね」
「え……」
コーヒーを一口飲んだアルデモードは、ゆっくりとした口調で、話を切り出した。
「だって、表彰台に君がいないし……、世界競技会も、テレビにヴァージンの落ち込んだ顔が映ってたもん」
「……そうですね。あのときは、すごく落ち込んでました」
ヴァージンは、金髪を軽く撫で、再びコーヒーカップを持ち上げる。だが、すぐに飲み急ぐことができず、持ち上げたままアルデモードの表情を見つめていた。
「たしかに、君は散々反対されている中で、アメジスタを出た。けれど、たとえアメジスタで一番でも、世界の中で一番になるのって難しいかなって」
アルデモードは、にっこりと笑ってみせながらも、落ち着いた声で話した。ヴァージンの表情も、その声に刺激されて次第に緩んでくる。
「アルデモードさんは、私が世界で苦戦するって、あの時思ってましたか?」
「そうだな……。ヴァージンは、どう答えて欲しい?」
「えっ……?別に、どういう答えが返ってきても、私はもう大丈夫です」
ヴァージンは、マゼラウスに思いきり殴られたその時、既にショックから立ち直っていると確信していた。だから、あの大会までの道のりを、母国出身のアルデモードに言われることを、何一つ恐れていなかった。
「じゃあ、言うね。君には悪いと思うけど、99%そうだと思ってた」
「……やっぱり」
「しょうがないよ。やっぱり、こんな貧しいアメジスタから世界で活躍できるアスリートが生まれる可能性なんて、ほぼゼロに等しい」
アルデモードは、そこまで言うと唇をギュッと噛みしめた。ヴァージンは、険しくなっていくように見えたアルデモードの表情を、まじまじと見つめていた。そして、ついに口を開いた。
「現実は、たしかにそうです。でも、ほぼゼロって、完全にゼロなわけじゃない」
ヴァージンは、少しずつ冷めてきたコーヒーを一気に口に飲み込み、再びアルデモードの顔を見つめる。
「その、ほんのわずかな可能性を切り開いていくのが、アスリートだと私は思うんです」
「……僕も、そう思うよ」
「アルデモードさんも、やっぱりそう思ったんですね」
「そうだね。だから僕は、99%としか言わなかった」
「なるほど」
ヴァージンは、アルデモードの言葉を最初から思い返していくうちに、かすかに笑った。アルデモードも、それにつられるように、かすかに笑っていた。
「僕だって、その残り1%を見たいんだ。君が、世界を相手に一番でゴールして、表彰台の真ん中に立ち、アメジスタの国旗がスタジアムを見下ろしているのを」
「そのために、私だって頑張らなきゃいけないって、思ってます」
ヴァージンがそう言うと、アルデモードはゆっくりとうなずき、カバンに手を伸ばした。
「話は変わるけど、頑張る君を応援したいんだ」
「えっ……」
「ちょっとこれ見て欲しいんだ」
アルデモードは、カバンの中から一枚の紙を取り出すと、ヴァージンのコーヒーカップの横にそれを置いた。ヴァージンは、アルデモードから差し出された紙をわずかに読んだ瞬間、イクリプスからオファーを受けたとき以上に震え上がった。
(私の名前がある……!)
「こ、これ……!」
「君の名前があったでしょ。君のスポンサーになるっていう、まだどこにも発表していない企画書だ」
「私のスポンサーに……。で、どこの会社なんですか?」
ヴァージンは、戸惑いながらもアルデモードにそう聞き返した。すると、アルデモードはカバンから名刺入れを取り出して、ヴァージンに一枚の名刺を渡した。
「僕が働いている会社、オメガ・アイロンだ」
「オメガ・アイロン……」
ヴァージンは、その会社名を少しだけ思い返すが、あまりイメージはなかった。スタジアムに看板が出ているとこるではなさそうだ。
「今まで、うちの会社はラグビーのチームの公式スポンサーをやってきたんだけど、新たに陸上のスポンサーもやろうっていうことになったんだ。そこで、既に何社も付いているトップアスリートよりも、まだ駆け出しのヴァージンのスポンサーになって欲しいって、僕が言ったんだ」
「アルデモードさん……!その話を出してくれるだけでもありがたいです!」
「まぁね。まだそこまで有名じゃないヴァージンのスポンサーになって欲しい、と言うときはさすがに勇気がいったけど、でもそこは他のライバルではなく、君を推したかった」
アルデモードが得意そうに笑う。混雑している客席には、同じように笑う人々の姿があったが、アルデモードのそれは、周りをはるかに上回る眩しい笑顔だった。
「この話って、どこまで進んでいるんですか……?」
「そうだね。社内の評価は、結構高いよ。後は、上長クラスの人にこの案でOKしてもらえば、ヴァージンにはこれだけのお金を支えてあげることができるよ」
「年4000リア……」
ヴァージンは、文面に書かれている金額を読んで、一気に現実味を覚えた。4000リアということは、あのジュニア大会2回分に相当する。年何回もレースに出るヴァージンにとっては、それ以上にお金がかかるものの、4000リアという数字は決して低いものではなかった。
「ありがとうございます!」
ヴァージンは、深く礼を言った。だが、その瞬間にアルデモードの表情がわずかに曇った。
「いえいえ。でも、君にはどうしても守って欲しいことがあるんだ」
「え……」
アルデモードの表情の変化に、ヴァージンは思わず眉を潜めた。