第68話 ノー・ボーダー(2)
フローラからアメジスタの現実を伝えられてから数日、ヴァージンはテレビやネットのニュースを注意深く見るようにした。だが、記者が誰一人として残らなかったアメジスタからヤグ熱の情報が伝えられることはなかった。ニュースの中では「アフラリの最後の患者が退院し、その日の夜には盛大な花火が打ち上がった」などと、既にヤグ熱が過去の病気として扱われていたのだった。
(私は……、おそらく世界で一番有名なアメジスタ人。だからこそ、発信力はある……。でも、お姉ちゃんから託された言葉を、どう伝えていこう……)
これまで、自分のホームページすら持たなかったヴァージンには、インタビューでマイクを向けられたときにしかメッセージを発する瞬間がなかった。だが、今更ホームページ作成の業者に依頼してまで、ヴァージン自身を紹介するサイトを作る気にもなれなかった。
(たとえホームページを作ったとしても、やっとメールが始まったばかりのアメジスタでどれだけの人が見てくれるのか分からないし……)
少なくとも、トレーニングの時間を犠牲にしてまでもホームページを作ることは、トップアスリートの自分にはできない。心の中でヴァージンはそう言い聞かせた。
次の瞬間、電話が鳴り響く音をヴァージンは感じ、待っていたと言わんばかりに電話をつないだ。
「ヴァージン、なんか情報を発したいという顔をしていたみたいだから、心配になったわ」
「メドゥさん……。もしかして、コーチに私の気持ちがバレてしまったわけですか」
「15年も付き合っていたら、人間の表情くらい分かるって言ってたわ。金メダルを見せられないから悩んでいるのかと思ったら、数日で別の悩みが出てきて……、言葉は悪いけど羨ましい」
「いろいろと悩みが出てきます……。それだけ、オメガは平和だってことです……」
メドゥが電話の向こうで軽く笑うと、ヴァージンも苦笑いを浮かべた。
「それで、今日ヴァージンに伝えたいのは……、久しぶりにエクスパフォーマからイベントに誘われていること」
「『トラック&フィールド』のイベントですか……?『フィールドファルコン』のイベントの時以来ですね」
「そうね。最近は、あまり『トラック&フィールド』の新しいアイテムが出てこなかったから、イベントも全くなかったけれど、今回は新しいアイテムも発売されて、久しぶりにモデルアスリートがみんな揃うことになるわ」
メドゥがやや元気そうなトーンでそう言うと、ヴァージンは軽く息を飲み込んだ。
「でも、オルブライトさんは……去年引退しました。もしかして、他に新しいメンバーが入ったんですか」
「そうね……。新しいモデルアスリートのお披露目会もあって、ブランド立ち上げからずっとモデルになっているヴァージンにも、ぜひ来てほしいと言われているのよ。おそらく、そこにはたくさんのメディアも来ると思うから、ヴァージンの伝えたいことも少しは伝えられると思う」
「私、参加したいです」
数秒ほど間を置いたが、ヴァージンはメドゥにイベントに参加することを伝えた。数日後にイベントの概要をエクスパフォーマから送ってもらうようメドゥから伝えられ、そこで電話は終わった。
(久しぶりのイベントで、こんな分厚い封筒が届いた……)
数日後に送られた封筒は、特にアイテムが入っているわけでもないのに分厚く、表面には赤い文字で「当日まで関係者以外には絶対に伝えないこと」という言葉が添えられていた。
(新しいアイテムと、新しいモデルアスリート……。いったい何になるんだろう……)
封筒を破りながら、ヴァージンは頭の中でいろいろ想像し始めた。オルブライトに代わる男子短距離走の注目選手が入る可能性が高く、ヴァージンはこれまでスタジアムで出会った選手の表情を一人一人思い浮かべた。
だが、彼女の脳裏には「男子100m」と言われた瞬間、事あるごとに一人の青年を思い浮かべるのだった。
(もしかして、将来を見据えてイリスさんとか……)
アーヴィング・イリスはシニアのレースにあまり出ていないこともあり、今回のプロトエインオリンピックに選ばれることはなかった。大会期間中も、同じオメガスポーツ大学のプロメイヤが出場しているにもかかわらず、イリスと現地で会うことはなく、イリスはシェアハウスから画面越しに応援していたのだった。
(でも、それはないか……)
そう思いながら、ヴァージンはイベント概要の冊子を開いた。そこには「新たなモデルアスリート見参!」と書かれたタイトルと、二人のアスリートのシルエットが浮かび上がっていた。しかも、それを見る限り「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」の新しいモデルアスリートは男性一人、女性一人のようだ。
(誰なんだろう……)
ヴァージンが次のページを開こうとしたとき、昨年の世界競技会の直後にヒルトップから「フィールドファルコン」をもとにした短距離用シューズを開発すると言われていたことを思い出した。「フィールドファルコン」が高速域でのパワーを重要視していたため一般受けせず、やむを得ず短距離選手用のシューズに切り替えることになったのだ。そうであれば、モデルアスリートも短距離選手の可能性が高い。
ヴァージンの脳裏に、スタジアムで見かけたいくつもの女子短距離選手が思い浮かんだ。それから一呼吸置き、彼女の手が次のページに触れた。
「ファミーユさん!エクスパフォーマと契約したんだ……!」
誰もいない家の中で、ヴァージンは声を上げた。次のページに載っていたのは、ヴァージン自身も名前をはっきりと聞いたことがある二人の短距離走者の姿だった。
男子の方は、やや肌の色が濃く背が190cmほどある、後ろで束ねた黒い髪が目印のヴェイヨン・ナイトライダー。先日のプロトエインオリンピック、男子100mで金メダルを取った、今や男子短距離界でその名を知らぬ者がいないアスリートだ。一方、女子の方は、ヴァージンと同じような薄い肌でやや小柄の体格をした、茶髪のショートヘアが目印のキャサリン・ファミーユだった。彼女もまた、先日のプロトエインオリンピックで800mの金メダリストとなっており、どちらもいま注目されている選手をエクスパフォーマがモデルに引き抜いたことになる。
(種目が違うから、どちらともほとんど初対面になりそう……)
二人と入れ替わるように、走り高跳びのフレッド・ジョンソンがモデルを外れており、ブランド立ち上げ当初から残っているモデルアスリートはカルキュレイムとヴァージンだけになっていた。
(この4人で、しばらくエクスパフォーマのプロモーションをしていくのか……)
イベントは2週間後。おそらく、二人のお披露目式と、「フィールドファルコン」の技術を生かした新しいシューズのプロモーションになることは、ヴァージンにも容易に想像ついた。この段階で、今回のヴァージンはステージにいるだけで脇役に回るという可能性が極めて高い。
だが、そこでヴァージンは過去のイベント、特に前にヴァージンがメインだった「フィールドファルコン」のプロモーションの時に、他のモデルアスリートにもマイクを向けられていたことに気付いた。
(あれ……、これはもしかして……、ここでアメジスタの今を聞かれる可能性もある……?)
ヴァージンが、アメジスタに向けてエールを送ったシーンは、グローバルキャスを通じてアメジスタだけではなく世界中に流れている。そうであれば、インタビュワーもアメジスタについて触れてくる可能性がありそうだ。
(もしマイクを向けられたら、アメジスタの今を話すしかない……)
わずかな期待を胸に、ヴァージンはイベント当日まで待ち続けた。
そして、「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」のプロモーションイベントの日がやって来た。
今回から女子のモデルが増えたこともあり、同じ部屋に4人が集まるのではなく、女子と男子で別々の控室に通された。女子控室のドアを開いたヴァージンは、すぐに頭を下げた。
「ファミーユさん、よろしくお願いします」
ヴァージンが初めて間近で見る800mのスーパースターは、25歳とは思えないほど若々しく、美しい体つきだった。顔を上げたヴァージンが、思わずその姿を目に焼き付けるほどだった。
すると、ファミーユは椅子から立ち上がり、ヴァージンの目の前に近づいて手を差し出した。
「よろしくお願いします、グランフィールド先輩」
「ありがとうございます。先輩と言われるの……、ものすごく久しぶりで驚きました」
「そうなんですか……。私よりも、ずっと有名で、ずっと女王と呼ばれ続けている先輩のこと、私はすごく尊敬しています。むしろ、私もそういう選手になりたいと思っています」
ファミーユがそっとうなずいたとき、ヴァージンの手がファミーユの手を握りしめた。だが、それと同時に、ヴァージンはその目でファミーユの足元をちらりと見た。
(ファミーユさんのシューズ、「フィールドファルコン」とそっくりだ……)