第68話 ノー・ボーダー(1)
プロトエインオリンピックが終わり、ヴァージンはオメガの家に戻った。それから数日も経たないうちに、代理人のメドゥから連絡が入り、オメガ国内で10月に行われるファーシティ選手権への出場を提案されると、ヴァージンは1秒で「参加します」と答え、それから再び次のレースに向けた日常が始まった。
だが、バッグから取り出して机の上に置いた二つの細長いケースを、三日が過ぎ、十日が過ぎても、彼女は開ける気になれなかった。表彰式でかけたきり、誰にも見せていない二つの金メダルがそこには眠っていた。
(本当は、誰かに見せたいのに……)
15年間アスリートを続けてきた結果、ヴァージンにはスポーツ関係者の知り合いは数多くできたものの、それ以外の分野で活躍する知り合いは皆無と言っていい。しかも、知り合いの多くが同じトラックで競う選手のため、金メダルを見せられるわけがなかった。さらに、家に帰っても最愛の夫はもうおらず、トレーニングから帰ってくれば広い家に一人取り残されているような状況になっていた。
(父さんやお姉ちゃん……、それにアメジスタのみんなにだって見せてあげたいのに……)
アメジスタへの飛行機は、オリンピック前から今に至るまで、1便も飛んでいない。ヤグ熱が流行しているうちは全便休航が続くと、数日前にわざわざ航空会社からヴァージン宛に電話が入ったくらいだ。
(5000mと10000mで、やっと世界一になれたのに……。このメダルを誰に見せればいいんだろう……)
翌日、ヴァージンはエクスパフォーマのトレーニングセンターで、マゼラウスとトレーニングを行った。オリンピック期間中は、スポンサー契約を結ぶアスリートのほとんどがエインジェリアに渡っていたためトレーニングセンターは閑散としていたものの、オリンピックから10日も経った今は元の賑わいを見せていた。
トレーニングを終えたヴァージンは、なるべく周囲に聞こえないようにマゼラウスに尋ねた。
「もうオリンピックが終わってだいぶ立ちますが、コーチはオリンピックのメダルを、誰かに見せましたか」
「そりゃ、見せるさ。オリンピックのメダルは特別だから、見せびらかしたくなる」
「私もそう思っているんです。でも、まず誰にメダルを見せますか」
ヴァージンは、ある程度答えを想定しつつ、マゼラウスに確認する。すると、マゼラウスはうっすら笑みを浮かべて、彼女に告げた。
「指導者と言わせたいか。私は、お前の金メダルを表彰式の時に遠目でしか見てないのだが」
「すいません。次の時に、金メダル持ってきます。でも、私はもっと見せたい人がいるのかなって思うんです」
「お前がそう言うということは……、親だろうな。お前をこの世界で活躍することを許した、大切な親……」
静かにそう答えたマゼラウスに、ヴァージンは首を大きく縦に振った。
「無理だと分かっていても、今すぐにでも家族に見せたいんです……。できれば、アメジスタのみんなに」
「女子5000mはグローバルキャスで中継されていたが、翌日の表彰式までは中継されなかったからな」
マゼラウスは、そこで小さくため息をついた。そして、まるでヴァージンを心の内でも見ているかのような目で見つめ、ゆっくりと言葉続けた。
「飛行機が飛ばない今は、難しいだろうな……。おそらく、前のようにエクスパフォーマにセスナをお願いしても、営業ではないから断られるはずだ。お前の辛い気持ちはよく分かる」
「辛いです……。表彰式でかけたきり、金メダルをどうすることもできないのです……」
ヴァージンの目には、5000mを出せる限りの力で駆け抜けたときの大歓声と、金メダルをかけたときに鳴りやまなかった拍手が、残像としてはっきりと残っていた。それから、彼女が顔の横まで金メダルを持ち上げたときの感触を思い出し、次の瞬間には少しだけ目に涙を浮かべた。
「一番見せたい人に、金メダルを見せられないの、本当に辛いです……」
「ヴァージンよ……」
「コーチ……」
ヴァージンは、いつの間にかマゼラウスが右手を彼女の肩の上に乗せていたことに気付き、浮かべていた涙をそっとこぼした。それからマゼラウスの表情を見つめると、そこには普段と何一つ変わらない指導者がいた。
「お前は、アメジスタに聞こえるように言ったじゃないか。アメジスタに明日はきっとやって来ると。アメジスタに向けてエールを送ると。お前のその言葉が、アメジスタに勇気を与えた。ヤグ熱から立ち直る勇気を……」
ヴァージンは、小さくうなずいた。カメラの前で言った言葉を、彼女は一瞬で思い返すことができた。
「アメジスタから飛行機が飛ばない。アメジスタと他の国の行き来ができない。それは、向こうの人々だって分かっている。自分たちを勇気づけてくれた、世界最速のアスリートが帰ってこられないことだって……、分かっているはずだ……」
マゼラウスは、そこで小さくうなずいた。ヴァージンは、その後を追うように再びうなずいた。
「けれど、そんな力強い言葉を与えた、言ってしまえば命の恩人のような存在に会いたいという気持ちは、いつまでも消えることはない……。アメジスタは、一人の国民であるヴァージンを、いつまでも待っているはずだ」
「私も……、そう思っています……。でも、いつ帰れるか……、いつアメジスタのヤグ熱が落ち着くか分からない恐怖があって……、オリンピックが終わった後、気付いたら不安を抱いていました……」
ヴァージンは、さらに小さくうなずいた。マゼラウスの手がヴァージンの肩を叩いたことにも気付かないほど、彼女はマゼラウスのアドバイスを感じ続けていた。
その日の夜には、ヴァージンは金メダルの入ったケースを開き、メダルが見える状態で机の上に置いていた。いつそれを見せられるときが来るか分からなかったとしても、アメジスタから遠い目で見えるように、その証を彼女は見せ始めた。
だが、その「遠い目」はすぐにやって来た。ヴァージンが寝る前のメールチェックをしようとしたとき、久しぶりに差出人にフローラの名前を見つけた。
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ヴァージンへ
オリンピック、お疲れ様。私も病室の中で、思わず声を上げながら応援していました。
ヴァージンが金メダルを取ったとき、他のアメジスタ人がみなそうしたように、少しだけ泣いてしまいました。
私は、その次の日に検査で陰性になり、やっと病室から出ることができました。
1週間ほど実家にいて、今はグリンシュタイン総合病院に戻って、ヤグ熱の対応に当たっています。
ところで今日は、オリンピックが終わって少し落ち着いてきたヴァージンに、アメジスタのヤグ熱の現状を伝えたくてメールしています。
今までは病院の中の状況しか分かりませんでしたが、退院して初めて知った事実もあります。
まず、前にアメジスタ国内の感染者は3万人と言っていましたが、今は分かっているだけでも感染者は30万人以上いるそうです。アメジスタ人の4人に一人が感染したことになります。グリンシュタイン総合病院もそうですが、アメジスタのほとんどの病院が機能しなくなって、感染者の数を集計する余裕もなかったそうです。
死者は5万人以上いるそうです。入院して、適切な医療を受けられた人は多くが治りましたが、ヤグ熱と診断されても病院に入れず、家に戻って命を落としてしまった人が、5万人のうち大半を占めるそうです。
今はグリンシュタイン総合病院の病床にも少しだけ空きが出て、入院を断らなければならない人の数も少なくなりました。診察には普段の3倍くらいの人がやって来ますが、それでもオリンピックが開催されていた頃に比べれば相当落ち着いています。
それでもまだ、ヤグ熱の特効薬はありません。免疫細胞が治療に有効だと分かっていても、アフラリのように免疫細胞を薬にする技術がアメジスタにはありません。輸入もできない状況で、対症療法に頼らざるを得ません。
アメジスタの国民が集団免疫を持ってしまうまで、戦い続けないといけないようです。
でも、ヴァージンがアメジスタを勇気づけてくれたおかげで……、私も少しだけ頑張れるような気がします。
だからこそ、発信力のあるヴァージンに伝えてほしいのです。
誰も伝える人がいなくなった、アメジスタの今を。
病院はメールの使える数少ない場所で、国外のメディアのアドレスも分からず、私からは唯一アメジスタの外に情報を伝えられるのがヴァージンしかいない状況です。
私が最初の感染者であることも、伝えて構いません。ヴァージンが不利な立場にならなければですが。
ヤグ熱が落ち着いて、ヴァージンに会えるようになるのを、今は楽しみにしています。
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(お姉ちゃん……)
ヴァージンの目に、見えない相手と戦うフローラの姿がうっすらと浮かび、やがてそっと消えていった。