第67話 アメジスタのたった一つの希望(6)
ラスト400mを12分53秒で駆け抜けたプロメイヤに、わずか1秒と少しの差しかない。ヴァージンは一気にペースを上げる。普段よりも速いペースでレースを続けてきた「フィールドファルコン」に、ラップ55秒のペースをためらう理由は、どこにもなかった。
(プロメイヤさんも、ペースを上げていく!面白くなってきた……!)
「エアブレイド」でトラックを強く蹴り上げたプロメイヤも、懸命に逃げるようにラップ57秒のペースまで駆け上がっていった。昨年の世界競技会で「フィールドファルコン」の「翼」を叩き落した、激しく腕を振る走り方は、オリンピックの舞台でも健在だった。
(あとは……、私と「フィールドファルコン」に、どれだけの力が残っているか……!)
ヴァージンの体は、ほとんど感じたことのないスピードをはっきりと足に刻んでいた。「翼」を羽ばたかせ、懸命に「エアブレイド」に立ち向かっていく「フィールドファルコン」とともに、ヴァージンはトップスピードでプロメイヤの背中に食らいついていった。
(私は……、プロメイヤさんに勝つ……!世界記録だって、その先にきっと打ち立てられるはず……!)
ヴァージンの力強いストライドが、最後のコーナーの途中でプロメイヤの真横に出た。プロメイヤも、力強い腕の一振りで懸命に跳ね返そうとするが、トップスピードで立ち向かう「フィールドファルコン」の「翼」がわずか数歩で打ち砕いていった。
(これが……、今の私の実力……!)
直線に入る瞬間、ヴァージンはついにプロメイヤの前に立った。スタジアムの歓声が一気に盛り上がる中、プロメイヤの背中がまるで失速したかのように遠ざかるのを、彼女の背中は感じた。それと同時に、その歓声がヴァージンの代名詞と言える世界記録へのいざないであるかのようにも思えた。
(13分51秒98……、それは間違いなく今の私に打ち破れるタイム……!)
ヴァージンは、目の前に飛び込んでくるゴールラインを、力いっぱい駆け抜けていった。
13分50秒37 WR
(私……、オリンピックの5000mで……、やっと金メダルを取れた……!それに、初めて世界記録をオリンピックで出せた……!私は……、アメジスタのみんなに最高の結果を届けることができた……!)
記録計の数字を見た瞬間に、ヴァージンは次々と想いを駆け巡らせた。昨年の敗北とは真逆の世界がそこにあり、それに重なるように、オリンピックという世界最高のスポーツの祭典で頂点に初めて立ったという大きな実感も、彼女ははっきりと感じていた。
ヴァージンから2秒と少し経って、最後に力尽きたプロメイヤが飛び込んできた。記録計の横で一度うなずいたヴァージンを横から抱きしめながら、プロメイヤは小さな声で金メダリストを称えた。
「女王ヴァージン・グランフィールド……。やっぱり、あなたのスパートは……、強すぎた……」
「ここまで本気で走れたのも、プロメイヤさんが強かったからです……。1年かけて……、私は強くなりました」
「やっぱり……、私があなたを追い続けるように、あなたも私を意識し続けた……」
プロメイヤのすすり泣く声が、スタジアムにはっきりと響いた。その声を聞いたとき、ヴァージンはプロメイヤに語り掛けるように、こう言い残した。
「それこそが、ライバルとの勝負に勝ちたいと思う、アスリートの本能じゃないですか。私は……、15年間勝負の世界で走り続けて……、ここまでライバルより強くなりたいと思ったのは、プロメイヤさんが初めてです」
「そう言ってもらえて……、少し嬉しくなった。次は……、世界記録を取り返すから」
プロメイヤは、そう言い残してヴァージンから離れていった。まだ20歳のプロメイヤが、そこで成長を止めるはずがないと、その背中ではっきりと教えているようだった。
それから、ヴァージンは世界記録に湧き上がるスタンドを見つめた。その中で、彼女は気になるものを探した。
(そう言えば、さっきアメジスタ国旗が見えたのは……)
ヴァージンは、ゴールラインから最も遠い客席に目をやった。ラスト600mのところで懸命に振られていたアメジスタ国旗が、その時以上に力強く振られている。まるでヴァージンの勝利を祝福するかのようだ。
(私は……、いつもアメジスタを背負って戦っているけど、今日が一番、そのことを意識したかも知れない……)
レースを終えたこの段階でも、国旗の向こう側からアメジスタの人々が力強い声援を送っているように思えた。故郷アメジスタで見てきた様々な表情が、3色の国旗からまじまじと伝わってくる。
(アスリートとしてデビューしてから、今までたくさんの困難がアメジスタを襲ってきた。それでも、今この瞬間にもアメジスタの人々がヤグ熱で命を落としているかも知れないときに……、アメジスタの人々が私の活躍を待ち望み……、頑張れと叫んでいるのは……、ものすごく奇跡的なことなのかも知れない……)
まだアメジスタにいる頃に訪れた、グリンシュタイン総合病院の光景がヴァージンの脳裏に蘇り、その中で姉フローラをはじめとして、様々な人々が疫病に苦しんでいる光景がその後に続く。
ヴァージンの目に涙が溜まり、アメジスタの国旗が少しずつにじんでいく。
(頑張れって言わなきゃいけないのは……、むしろ私のはずなのに……。いや、こういう状況だからこそ、アメジスタでいま一番頑張れる人に、頑張れって……、みんな言いたいはず……)
ヴァージンが口元に涙が落ちるのを感じたとき、彼女はようやく腕で涙を拭った。ちょうどその時、背後から一人のインタビュワーが近づいてくるのを彼女は感じた。カメラも一緒だ。
(もしかして……、グローバルキャス……)
ヴァージンが振り返ると、読み通りグローバルキャスのロゴが入ったマイクがヴァージンに向けられていた。ヴァージンが小さくうなずくと、インタビュワーはヴァージンに、「実は」と前置きした後に、こう告げた。
「これは、オリンピックの国際放送には乗らない簡単なインタビューですが……、アメジスタで見ている視聴者の皆様に向けて、こんな状況だからこそ、グランフィールド選手の生の声を届けて欲しいのです……」
「えっ……」
グローバルキャスは、オリンピックの国際放送をそのまま流しているわけではなく、あくまで独自の中継で世界最高の舞台の感動を届けている。そのことすら知らなかったヴァージンは、小さく息を飲み込んだ。だが、「アメジスタに向けたメッセージ」と分かった瞬間、大きく溜めながら、首を縦に振った。
(これは……、私からアメジスタのみんなに伝えることができる……、二度とないチャンスなのかも知れない!)
今や、アメジスタと外をつなぐ手段は、ヴァージンとフローラとの間のメール以外にほとんどない状況だった。かたや、アメジスタがヤグ熱大流行の危機に置かれていることは世界中の多くの人が分かっていた。だからこそ、この場でヴァージンからアメジスタにエールを送る機会を、グローバルキャスは作ってくれたのだった。
「それでは、グランフィールド選手、カメラを回しますね」
ヴァージンが小さくうなずくと、カメラが回り始めた。インタビュワーが彼女に軽く会釈をした後、尋ねた。
「女子5000mで初めてのオリンピック制覇、そして38回目の世界記録樹立おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「去年プロメイヤ選手に敗れた世界競技会と、ほぼ同じ顔ぶれになったレースですが、グランフィールド選手はどういうことを意識して走りましたか」
「そうですね……。プロメイヤさんが、私のランニングフォームを意識してきたので、今までの私を超えることを意識しながら、この1年トレーニングを続けてきました」
ヴァージンは淡々と答えながらも、いつ「その」質問が回ってくるかを頭の片隅で意識した。すると、次の質問で彼女ははっきりと「それ」が近づいてくることを悟った。
「今回は、グランフィールド選手に多くの期待があったと思うのです。大きな期待を受けることについて、グランフィールド選手はプレッシャーには思わなかったですか」
「そうですね。スタジアムで大きく揺れるアメジスタ国旗を見たとき……」
そこで、彼女は言葉を詰まらせた。心の中でアメジスタ国旗がはっきりと浮かび上がる。それから数秒待って、こう続けた。
「私は、アメジスタのみんなに支えられ……、期待され……、励まされていると思ったのです……。そう思ったら、プレッシャーなんて少しも感じなくなりました」
そう言って、ヴァージンは大きく首を縦に振った。すかさず、インタビュワーがヴァージンの待っていた質問を投げかける。
「そのアメジスタ、今やヤグ熱の大流行で多くの人々が命を落としているそうです。その中でアメジスタを背負ったグランフィールド選手が、アメジスタ国民に向けて伝えたいことがあったら、このマイクにお願いします」
「分かりました」
ヴァージンの大きく深呼吸する音が、世界中のグローバルキャスのプライムチャンネルに流れた。世界中の人々が、アメジスタ人の彼女が何と言って励ますか、待っていた。
「私が生まれ育ったアメジスタ。私がその国旗を背負って戦い続けるアメジスタ。いま、私にとってどの国よりも身近にあるアメジスタは、今……、ヤグ熱という悲しみに包まれています。多くのアメジスタ人が病気に苦しみ、命を落としています……。このプロトエインオリンピックに出るはずだった、競泳の選手も……、封鎖で参加することすらかないませんでした……」
ヴァージンは、そこで目に涙を浮かべた。それでもかすかに首を横に振り、涙をふるい落とした。
「そのような状況でも……、多くのアメジスタ人が、オリンピックの舞台に立ち向かう私を、同じアメジスタ人として応援していると……、聞きました。アメジスタが、そんな状況じゃないということは私にだって分かります。けれど、今までで一番危機的な状況にあるかも知れないアメジスタが、私に希望を見出している中で……、アスリートの私にできることは、その声援に応えて、出せる限りの力を見せることだと、改めて気が付きました」
いよいよ目にたまった涙をこらえきれなくなり、ヴァージンは手で涙を拭った。それから、これまで以上に力強く語りかけた。
「アメジスタの皆さん。私のプロトエインオリンピックは、これで終わりです。でも、ライバルとの勝負や世界記録との戦いはこれからも続きます。私には、まだ明日があり……、次があるのです……。アメジスタだって、ヤグ熱に負けて終わりじゃありません……。アメジスタにもきっと、明日はやって来るはずです!アメジスタのみんなが、笑顔に戻れる日まで……、今度は私がアメジスタに声援を送り続けます!」
そう言って、ヴァージンはカメラからインタビュワーに視線を戻した。インタビュワーもまた、ヴァージンの活躍を支えにして立ち上がろうとするアメジスタを応援しているかのように、涙を浮かべていた。