第67話 アメジスタのたった一つの希望(5)
号砲が鳴り、ヴァージンの右足がトラックを力強く叩きつけた。すぐ横からスタートしたメリナも、ヴァージンとほぼ同じように加速していき、すぐさま体一つ分だけヴァージンよりも前に出ようとする。
(メリナさんがここで前に出てくることは、今までの経験で分かっている……。でも、私が勝負するのは……)
トラックの外側を大きく回っている、前方からスタートした集団からいち早くプロメイヤが抜けようとしている。ヴァージンの目は、その姿を早くも捕らえていた。
(私は、今日この日のために、ラップ68秒のトレーニングを続けてきた。プロメイヤさんと勝負するために)
プロメイヤに敗れてから1年、ラスト1000mより前のペースをヴァージンは常に意識し続けてきた。この日も最初のコーナーの途中で早くもラップ68秒に達し、これまでコーナーを出たところで先頭に立っているメリナも、ヴァージンのペースの前に出ようともがいている。
だが、それを気配で感じたのか、プロメイヤはラップ68秒で加速をやめようとしない。ヴァージンの目には、プロメイヤが大きく腕を振りながら、明らかにラップ68秒を切るようなペースで走っているように見えた。
(ラップ67.8秒ほどのペース……。プロメイヤさんがこのまま続けるか、68秒に戻していくか……)
ヴァージンが序盤のラップを集中的に改善してきたように、プロメイヤもまた奪い返された世界記録を取り戻そうと、オリンピックに向けて成長している。ヴァージンが計算通り68秒ちょうどで最初の1周を駆け抜けたときには、彼女の脳裏にそのことがはっきり浮かんでいた。
1周を過ぎたあたりで、ようやくヴァージンの新たなペースからメリナが前に出た。だが、そのすぐ先を行くプロメイヤに食らいついたところで、メリナが普段と作戦を変えた。
(メリナさんが、プロメイヤさんのペースに合わせている。リングフォレストと同じくらいのペースだ……。あえて序盤から飛ばさないようにして、プロメイヤさんの出方を伺っている……)
少なくとも4年前のオリンピックでは、女子長距離種目で高速スパートを見せるのはヴァージンと、強いて言えばカリナだけだった。だが、一つ大会が移るだけでヴァージンのようなスパートを見せてくるライバルがさらに二人増えた。それが、この段階でヴァージンの目の前に立つ二人だった。
(でも、「フィールドファルコン」との絆がより強くなった私は、二人よりも速いスパートを見せられる!)
少なくとも、ラップ68.2秒の時には退屈そうな吐息さえ見せていた「フィールドファルコン」は、ヴァージンが序盤のラップをペースアップさせたことで、早くも戦闘態勢に入っているように彼女には思えた。
(「フィールドファルコン」の翼が……、こんな序盤から羽ばたいている……。スピードなら任せてくれと、私に言い聞かせているかのように……!)
プロメイヤのスタートダッシュは、2周目に入るとややスローダウンし、ヴァージンのラップ68秒より少しだけ速いペースに落ち着いた。プロメイヤの腕の振りも小さくなっている。一方で、一度プロメイヤの後ろに食らいついたメリナは、そこから先頭に立つことはせず、結果として先頭の3人がやや長い列になってレースを引っ張っていく形になった。
(プロメイヤさんが、なかなか私を引き離せない。これが、私の目指した戦い方……。あとは、カリナさんを含めてレース中盤からどう動いていくか……)
2000mを、ヴァージンの感覚では5分40秒ちょうどで駆け抜ける。完璧に、ラップ68秒ペースを貫いている彼女は、少しずつプロメイヤやメリナとの距離が開き始めているように思えた。
それと同時に、これまで全く気配を隠していたカリナが、直線に入ったところでヴァージンの背中で鼓動を感じるようになった。中盤で、カリナが動き出したのだ。
(カリナさんが……、まだ2000mなのに私の前に出ようとしている……)
ヴァージンは、少しだけペースを上げようかと考えた。3人に前に出られれば、形としては昨年の世界競技会と同じになり、最後のプロメイヤとの一騎打ちで力尽きてしまう可能性もあり得た。
(でも、あの時と違って……、まだプロメイヤさんにそこまで離されていない。去年は、この時点で15mくらい離れていたけど、今は7~8mくらい……。きっと、まだ大丈夫)
ヴァージンは、ラスト1000mに入るまでラップ68秒を続けることに決めた。すぐ横に並んだカリナが、ヴァージンのスピードアップしない足を確かめながら、直線でひらりと彼女の前に出て、それからメリナのすぐ後ろにぴったりとついた。
(前の3人がこれほどまで列になってきたレースは、今まで経験したことがない……。全員がプロメイヤさんにぴったりつくようだと、私は大回りを強いられる……。それでも……、私がトップスピードを見せれば……)
ヴァージンは、前に出た3人のライバルを睨みつつ、ラスト1000mの勝負に向けて呼吸を整え始めた。序盤のペースをラップ68秒に上げたとしても、ヴァージンの足は全く疲れを感じていない。軽くトラックを蹴り上げながら、彼女は3人に必死に食らいついていった。
やがて、優勝候補と言われる4人が、わずか数秒で3600mを駆け抜ける頃、スタジアムの声援が徐々に高まりを見せ始めた。ヴァージンの感覚では、3600mの通過が10分12秒ほど。この中の誰が世界記録を打ち立ててもおかしくないほど、レース自体がハイペースになっていることを、詰めかけた大観衆の誰もが気付いていた。
(ワールドレコードクイーンは私だと、みんな信じているはず……!)
そうヴァージンが誓った瞬間、コーナーの途中で突然メリナがプロメイヤに並んだ。それを見たプロメイヤがストライドを大きく取って、少しずつペースを上げ始めた。メリナが懸命に前に出ようとするが、ラップ67秒ちょうどにまで上がったプロメイヤの前に、体一つ分も前に出せない。
(プロメイヤさんは、私と勝負したいはず……。だからこそ、スパートに入るきっかけを作ろうとしていた……)
細長い先頭集団が、少しずつ広がっていく。ヴァージンは、自らの脚に問いかけた。
(「フィールドファルコン」は……、まだほとんど戦闘力を使っていない……。ここからのスパートでも大丈夫!)
ヴァージンの右足が、3800mの手前で力強くトラックを蹴り上げ、ラップ65秒ペースまで一気に加速していった。その目の前でスパートに入る気配を感じたカリナも、やや広くストライドを取ろうとしたが、横に出たヴァージンに食らいつくまでのスピードはなかった。
(プロメイヤさんが4000mに入る……。きっと、ラップ65秒ペースまで上げてくるはず……)
プロメイヤが、11分17秒になるかならないかのタイムで残り1000mに突入し、腕を大きく振りながらスパートを見せ始めた。ヴァージンの読み通り、プロメイヤがラップ65秒までペースを上げていく。ヴァージンとプロメイヤとの差は10m弱。その間で、メリナもプロメイヤのスパートについて行こうと加速を始めるが、あまり飛ばしていなかった序盤からのギャップを埋めることができず、4200m手前の直線で徐々にプロメイヤから引き離され始めた。
(次は、ラップ62秒……。半周もあれば、今のメリナさんを捕らえることができる!)
ヴァージンが4200m手前でラップ62秒に加速すると、コーナーに差し掛かりだしたプロメイヤもほぼ同時にペースを上げていくのが、ヴァージンの目に見えた。じりじりと迫ってきたメリナをコーナーから直線に入ったところであっさりと抜き去り、残り700m弱のところでプロメイヤの背中がヴァージンの前に飛び込んできた。
だが、プロメイヤの背中を見たヴァージンは、そこで目を細めた。
(8mくらいの差が、ほとんど変わっていない……。去年の世界競技会と、ほとんど変わらない差だ……)
プロメイヤは、ラップ62秒のペースで走り続けているが、まだ腕を大きく振っていない。その腕を大きく振りかけた瞬間が、プロメイヤのラストスパートの始まりだということは、ヴァージンにも分かっていた。
(私は……、プロメイヤさんに勝つために、ここまでほぼ思った通りのペースで走り続けた。でも、プロメイヤさんが残り1周でそれを上回る成長を見せるかも知れない……。ここからは、本気の勝負……)
「エアブレイド」が、このスピードでも軽々しくトラックから反発していく。「フィールドファルコン」が、今にも戦いたいと、「翼」を羽ばたかせようとしている。結末の分からないこの勝負を前に、ヴァージンは足から徐々に湧いてくる自信を感じ始めていた。
そして、次の瞬間、ヴァージンの自信ははっきりとした確信に変わった。
(アメジスタの国旗が、目の前に見える……)
観客の一人が、赤・金・ダークブルーに彩られたアメジスタの国旗を力強く振っているのが、ヴァージンの目に飛び込んだ。その向こうには、グローバルキャスの中継で声を送る、数多くのアメジスタ国民がいるように見えた。同時に、アメジスタに向けて頑張れと、世界中の人々が声を送っているように感じた。
(私は、アメジスタを背負って戦っている……。こんな大変な中で応援してくれるみんなを……、負けて悲しませるわけにはいかない……!)
ラスト400mの鐘が、昨年より1秒早く鳴り響く。その瞬間、ヴァージンの脚は力強くトラックを蹴った。