第67話 アメジスタのたった一つの希望(4)
(29分36秒28……。ヤグ熱のことを途中で気にしてしまった私の……、当然と言えるタイム……)
女子10000mの舞台から選手村に戻ったヴァージンは、ソファに座って小さくため息をついた。たまたまヤグ熱で調子を落としていたロイヤルホーンから連想してしまったものの、レース中に余計なことを考えてはいけないと何度も言い聞かせてきたはずのヴァージンは、自らの「失敗」を悔やむしかなかった。
(でも……、ここで悔やんでいたってしょうがないし……、私がアメジスタで初めて金メダルを取ったことは、アメジスタのみんなにグローバルキャスで伝えられているはず……。それに……)
ヴァージンは、パソコンに登録しているメールサービスのアドレスを手で入力し、開会式の前は何度も見てきたメールを久しぶりに確認した。10000mの勝負が決した瞬間に、数多くのメールがヴァージンのアドレスになだれ込んでいた。それでも、彼女が開いたときに一番上にあったメールは、姉フローラからだった。
(お姉ちゃん……。見た後でメールを送ってくれたのかな……)
件名には「5000mこそ」という文字が書かれており、ヴァージンは勢いよくそれをクリックした。
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ヴァージンへ
今日が10000mのレースだと聞いていたから、病室でワクワクしながらグローバルキャスの中継を見ました。
でも、プライムチャンネルしか映らないアメジスタでは、オリンピックのバスケの試合がやっていて、レースが終わるまで陸上のスタジアムが映りませんでした。なので、とても悲しくなりながらメールを打っています。
アメジスタのヤグ熱感染者は、同僚の医師に聞いたところ、一昨日の時点で3万人を超えているそうです。
グリンシュタイン総合病院ではしばらく治療ができないと貼り紙をしているのに、病院のロビーから「熱が!」「咳が!」と叫ぶ声が聞こえてきます。私だって、医療に携わる身として、どうしようもない無力感を覚えます。
どこに行ってもヤグ熱という絶望に、アメジスタは陥っています。
文化省を含め、アメジスタ政府もほとんどヤグ熱の対応に追われているそうです。
だからこそ、こんな時に中継しているオリンピックは、アメジスタの人々に数少ない楽しみです。病院の窓からも、街頭にあるモニターに釘付けになっている人々がよく見えます。
私も、毎日グローバルキャスを見ていますが、女子5000mは世界が注目するレースなので、アメジスタで映るチャンネルで放送するそうです。その日はきっと、アメジスタ人の心は、あの時のように一つになるはずです。
ヴァージンが、今のアメジスタにとって、たった一つの希望です。
私たちはヴァージンが力強く走って、ライバルよりも前に出て、金メダルを取る瞬間を待っています!
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(お姉ちゃんは……、いや、アメジスタのみんなは、こんな状況だからこそ、オリンピックで走る私に……)
メールの文面を読み終えたとき、ヴァージンの目には大粒の涙が溜まっていた。パソコンの向こう側で、フローラが笑顔でヴァージンを応援しているように思えてならなかった。
(私は、ヤグ熱に気を取られている時間はない……。みんな、私の金メダルと、世界記録を待っているんだ……)
ヴァージンは、涙を流しながらも全身に力が入ってくのを感じた。10000mで思い通りの走りができなかった分、そして10000mのレースをアメジスタの人々に見せられなかった分、5000mで最高の走りを見せよう。彼女の胸の内に、4日後に迫った「本番」への強い決意が湧き上がってきた。
女子5000mの予選では、ヴァージンの走った1組で他の優勝候補が全く出てこなかった。対して2組ではメリナ、カリナ、そしてプロメイヤが争う激戦となった。優勝候補の一角とされるライバルが予選落ちすることはなかったものの、プロメイヤがオリンピックの舞台でも最後に流すような走りを見せた。
(私の真横からスタートすると思っていたプロメイヤさんが、全体の12位のスタートになるか……)
ネルスでのレースと同じように、最後流していったプロメイヤを、ヴァージンはダッグアウトから見つめていた。予選を走り終えたプロメイヤは全く疲れた様子を見せておらず、トラックの外で、早くも決勝に向けてスタートの練習さえ始めていた。
(プロメイヤさんは、まだまだ余力を残している……。きっと決勝のプロメイヤさんは、私を意識して本気で走ってくる。私だってラップ68秒を意識して、プロメイヤさんに食らいついていかなきゃ)
ヴァージンは、プロメイヤに背を向け、その足でサブトラックに向かった。そして、予選を走り終えてから1時間も経たないうちに、再びトップスピードで5000mを走り始めたのだった。
プロトエインオリンピック、女子5000m決勝当日。決勝は夜だったが、ヴァージンはその4時間前、まだ日の高い時間に競技場の入口に姿を見せた。入口を通り過ぎた瞬間、おびただしい数のカメラがヴァージンの入る姿を捕らえるのが見えた。グローバルキャスのカメラは勿論、各国のテレビ局のカメラがヴァージンを映していた。
中には、「世界の誰もが、彼女が叩き出す記録に注目しています」とコメントするリポーターもいるほどだ。
(私は、いま最高の舞台で、世界最速の女子アスリートとして見られている……。不思議と力が湧いてくる……)
ヴァージンは、数多くの視線を追い風にしてロッカールームへと急いだ。すぐ後ろをメリナが歩いていたが、ヴァージンはロッカールームに着くまで、その気配に全く気付かなかった。
(さぁ、いよいよ私が最高の走りを見せる時間だ……)
集合時間の20分前に、ヴァージンはメインスタジアムに入った。その瞬間、正面のスタンドに座っていた観客が、突然大きなアメジスタの国旗を広げ、それから左右の客席からもアメジスタの国旗が次々と浮かび上がった。
(ここはアメジスタじゃないはずなのに……、私、アメジスタにいるみたい……。5000mに挑もうとする私を、みんなが見守っているように思える……)
フィールドでは男子走り幅跳びの予選が続いていたが、誰もがそれをそっちのけでこの後のレースの「主役」に注目していた。ヴァージンは、掲げられたアメジスタ国旗に向けて大きく手を振り、うなずいた。
その時、ヴァージンの後ろからプロメイヤがゆっくりと近づいてくる気配を感じた。ヴァージンが後ろを振り向くと、プロメイヤがスタンドに目をやりながら小さくうなずく姿が、はっきりと見えた。
それからプロメイヤは、ヴァージンにやや低い声で話しかけた。
「アメジスタの国旗、今日は特に色鮮やかね……」
「プロメイヤさん……。アメジスタ国旗の多さが気になっているんですか」
「別に。ライバルの国の国旗は、今まで気にしたことなかったはずなのに、今日はちょっと気にしただけ」
今や最大のライバルと言えるプロメイヤが姿を見せても、アメジスタの国旗がオメガの国旗に変わることはなかった。プロメイヤは、なびくアメジスタ国旗をじっと見つめながら、歯を食いしばっていた。
「今、この瞬間は女子5000mの女王はあなた。でも、それをあと30分で私にするため、私は本気で走る」
プロメイヤはそう言い残して、早足でヴァージンより前に出て、まっすぐ集合場所へと向かった。
(プロメイヤさんは、私が女王だと思われていることに焦っているのかも知れない。逆に、今の私はアメジスタの国旗を見て、プロメイヤさんよりも速く走れるような気がする。みんなが、私に力を送っている……!)
アメジスタ国旗の向こうには、本当はオリンピックどころではない数多くのアメジスタ人がいる。アメジスタを応援している人がいる。それらが全て、オリンピックの舞台で戦うヴァージンにとって、力になる。
そのことにヴァージンが気付いたとき、不思議と彼女の足はプロメイヤの後を追っていた。
(これこそが、世界最大のスポーツの祭典が生み出す力……、そして無限の可能性なのかも知れない……)
カメラごしに映ったヴァージンの表情が、スタジアムの大型ビジョンに映ると、勝負の場は一気に湧き上がった。これまで、10000mも含めて37回のワールドレコードを叩き出してきた一人のアスリートに、その場の誰もが注目している。その中でヴァージンは、ほんのわずかな緊張と、それをはるかに上回る大きな期待を心に刻み、スタート位置に立った。
(ラップ68秒を意識したのは、今日のこの勝負のため……。私は、ライバルと世界記録に打ち勝つ!)
ヴァージンのすぐ右でスタートを待つメリナ、その横にいるカリナ、そして前方のスタート位置で待つプロメイヤ。3人のライバルをほぼ同時に見つめながら、ヴァージンはそっと息をついた。
「On Your Marks……」
スターターの低い声が、ヴァージンの耳に響く。彼女は、走り出す方向だけを見た。
(大丈夫……。今日は最高の走りができそう……!)