第67話 アメジスタのたった一つの希望(3)
2000mを過ぎたあたりから、背後からほとんど呼吸が聞こえなくなった。ヴァージンは、予想外の地点で独走態勢に入っていた。ヴァージンとロイヤルホーンしか注目される選手がいないだけに、そのロイヤルホーンまでもヴァージンの背後から消えたことは、レースに挑む彼女にショックすら与えるほどだった。
(私がラップを少しだけ上げたから、ロイヤルホーンさんは付いて行けなくなった……。いや、ロイヤルホーンさんの実力を考えれば、そんなはずないのに……)
ロイヤルホーンは、序盤こそそれほどペースを上げてこないが、中盤からじわじわと伸びてくる。そのことは、これまで2回戦ったヴァージンにも分かっていた。8000mでラップ70秒を切るようなペースに上がることもなかった。それだけに、ロイヤルホーンがここでペースを落とすというシナリオを想定していなかったのだ。
(何か作戦でもあるのだろうか……)
3000mを過ぎ、4000mに達したヴァージンの耳に、ついにロイヤルホーンの息遣いまでも聞こえなくなった。普段であれば、ここから勝負を仕掛け始めようというライバルが、この日は全く気配を示さない。
(あまりライバルのことを気にしてはいけないけど……)
ヴァージンは、コーナーに入ったときに横目で後ろを見た。長身のロイヤルホーンが、これまでほとんど優勝したこともない選手たちに紛れ、その中から抜け出せずにいた。少なくとも、ここからヴァージンに勝負を仕掛けるような表情を見せていないことだけは分かった。
(ロイヤルホーンさんが……、珍しく苦しんでいる……。いつものロイヤルホーンさんじゃない……)
ヴァージンはそこまで言い聞かせると、思わずはっとなった。ロイヤルホーンが、普段のようにじわじわとペースを上げられない理由が、その表情を見てヴァージンもようやく気付いた。
(ロイヤルホーンさんは、2ヵ月前はレースどころじゃなかった……。アフラリの病院で治療を受けていた……)
ヴァージンは、債務問題でレースに出ることすらできなかった頃を思い返した。レースに出られない苦しみはあったが、そのような中で真夜中の陸上競技場を走るなど、少しはその先のためにトレーニングを続けていた。
ロイヤルホーンは、ヤグ熱で入院している間、それすらもできなかった。
(あの時、10000mの代表に決まっていたはず……。そこから何とかオリンピックには出られたけど……、時間がなかったのかも知れない……)
次の1周に入り、ヴァージンは再びロイヤルホーンの姿を見つけようとした。4400mを過ぎたあたりで、ロイヤルホーンはヴァージンから80mほど離されたどころか、次第に2位集団から引き離されるようになっていた。
(ヤグ熱が……、こんなにもアスリートを苦しめるなんて……)
「お姉ちゃん……」
ヴァージンは、声にもならない声を発していた。
今まさにアメジスタを苦しめている病気が、ロイヤルホーンの苦しそうな走りから広がってしまいそうだった。
気が付くと、ヴァージンのペースも落ちていた。世界記録以外に戦うべき相手が、事実上もういない中で「フィールドファルコン」の戦闘意欲も萎え始めているように思えた。72秒を少し切るはずだった彼女のラップは、5000mを過ぎたあたりでは73秒すれすれになっていた。
(まずい……。ロイヤルホーンさんの不調に気を取られている……)
ロイヤルホーンに追いつかれまいと、中盤でペースをやや上げてきたからこそ、ヴァージンが10000mの世界記録を叩き出してきたのは間違いなかった。それが全くない中では、世界記録もまた霧に包まれようとしていた。
ヴァージンは、シューズの底を強くトラックに叩きつけ、最初の1周で見せたペースを取り戻した。だが、6000mを18分03秒で駆け抜けたヴァージンにとって、ここからの4000mを組み立てていくのは容易ではなかった。昨年の世界競技会での8000m通過タイムに並ぶためには、ここからラップ70秒のペースに上げないといけない。
(あと4000mでラップ70秒……。できるところまでスピードを上げるしかない……)
ヴァージンは、追う相手がいない中でラップ70秒のスピードを模索し始めていた。6400mを過ぎたあたりで、ようやくラップ70秒のペースに落ち着いたように思えたが、1周ごとに見えてくる記録計は明らかに思い通りの動きを見せていなかった。
(71秒よりやや速いくらいだ……。残り1000mより前にスパートをかけないと、世界記録に勝てない……!)
8400mを25分09秒で駆け抜けた瞬間、ヴァージンは一気にスピードを上げた。「フィールドファルコン」からパワーを受けた足が、ラップ67秒ほどのペースまで駆け上がる。
(ここから1周ごとにペースを上げられれば、ギリギリ世界記録を叩き出せるはず……)
だが、次の1周でラップ64秒まで上げたヴァージンは、徐々に足を前に出す力が消えていくのを感じた。「フィールドファルコン」で「飛んで」いるにも関わらず、それが今にも地に落ちてしまいそうなしぐささえ感じた。
(苦しい……。中盤で何もできなかっただけで、ここまで世界記録が厚い壁になるなんて……)
ヴァージンのタイムは、29分36秒28と記録計に表示された。オリンピックで初めてとなる金メダルも、ヴァージンにはほとんど実感がなかった。逆に、彼女はまだレースの続くトラックに目をやることしかできなかった。
(最後の直線、ロイヤルホーンさんの背中が見えてしまっていた……。ロイヤルホーンさん、苦しそう……)
ヴァージンに遅れること1分以上経って、ほとんど気力だけで走り続けたロイヤルホーンがゴールラインに飛び込んだ。女子10000mの優勝候補の一角と期待されながらの7位に、ロイヤルホーンは何度も首を横に振りながら、その目で「競い合うはずだった相手」を探していた。
(ロイヤルホーンさん……、もしかして私を探しているのかも……)
ロイヤルホーンの視線に気付いたヴァージンは、手を振ろうか迷っていた。だが、少しだけ手を上げかけたときにロイヤルホーンがゆっくりとヴァージンに向けて歩き出し、そのままヴァージンの前でその顔を見上げた。
「グランフィールドと……、オリンピックの舞台でもっと戦いたかった……!競い合えると思ってた!」
「ロイヤルホーンさん……。私と10000mを走り切ったじゃないですか……」
ヴァージンは、ロイヤルホーンに向けて語り掛けるように、言葉を返す。それでもロイヤルホーンの表情は晴れる気配を見せない。それどころか、前よりも激しく首を振り、抑えきれない感情をしぐさで見せた。
「グランフィールド、分かるよね……。今日の私に、最高のパフォーマンスなんてできるわけがなかった……!ヤグ熱で、1ヵ月……、2ヵ月……、まともに走れなかったから……」
(ロイヤルホーンさん……。どうして、そんな悲しんでしまうんだろう……)
世界の舞台でデビューして、まだ2年も経っていないロイヤルホーンが、ヴァージンにはほぼ同じ経験値だった頃の自分自身に見えて仕方がなかった。レースで出したタイムに絶望したとき、彼女は時に感情をあらわにしていた。だが、そのような感情から得られるものは、少なくとも彼女には何もなかった。
ヴァージンは、ロイヤルホーンの目を見つめながら、昔の自分に語り掛けるようにそっと告げた。
「ロイヤルホーンさんは……、今日の私には勝てなかったとか言って……、追いつけなかった相手をいつだって認めていた。それは、ロイヤルホーンさんが最高のパフォーマンスを見せてこその言葉だと思うんです……」
「でも、今日の私は……、そう言えるようなタイムですらなかった……」
「そう思わないでください。今日のロイヤルホーンさんだって……、自分の出せる限りの力で戦っていた……。そうじゃなかったら、フラフラになるまで走り続けなかったはずです……」
ヴァージンの目には、わずか数分前のロイヤルホーンの姿と、いまその全てを認めようとしないロイヤルホーンの姿を重ねていた。少なくとも、数分前までのロイヤルホーンは、これまでと同じ、一人のアスリートだった。
やがて、ロイヤルホーンは首を横に振るのをやめ、下を向いた。それからヴァージンに告げた。
「グランフィールド……、強いね……。グランフィールドのほうが、今日はまともに走れるような状況じゃなかったのに……、それでも出せる限りのパフォーマンスを見せたはずから……」
(たしかに……。私だって、出せる限りのパフォーマンスがあのタイムだった……)
ロイヤルホーンの静かな返事に、ヴァージンははっと我に返った。たしかに、今となってはアフラリよりもアメジスタのほうが悲惨な状況になっている。そのような中、たとえ世界記録に届かなかったとしても、たとえライバルの調子が上がってこなくても、ヴァージンは懸命に、出せる限りの力で10000mを戦い抜いたのだった。
「そうですね……。辛いことはあっても……、トラックに立ったらそんなことを気にしていられないです」
「なるほどね……」
ロイヤルホーンは、ヴァージンを見上げながら静かに告げた。ようやく、その足が前へと動き出した。
「私、グランフィールドのようなアスリートを目指す……。経験は、これからいくらでも積むから」
ヴァージンは、ロイヤルホーンの後ろ姿をその目で追った。嘆いていた時の姿は既になく、たった一度の不調をようやく認め、早くもヴァージンとの次の勝負に向けて歩き出しているようだった。