第67話 アメジスタのたった一つの希望(1)
(プロトエインオリンピックの開会式まで、もうほとんど日がないのに……)
グリンシュタイン総合病院でヤグ熱の集団感染が判明した数日後には、メディアが一斉にアメジスタから逃げ出したため、祖国で何が起きているのか全く流れなくなっていた。ただ、航空会社のサイトを見ればグリンシュタイン便の運休が続いていることが分かり、ヴァージンはそれを毎晩気にしていた。
(私と同じ、アメジスタ代表としてオリンピックの舞台に立つはずのバタフライの選手、セイルボートさん……。何としても間に合って欲しい……)
ヴァージンは、テレビで見かけた競泳選手、ファスター・セイルボートの若々しい表情を何度も思い浮かべた。直接会ったことがないだけに、確実に同じ場所にいる開会式までにはその顔を見たいと、彼女は思った。
だが、その願いはオリンピックまでの日数が両手で数えられる頃には、ほとんど不可能なものになっていた。エインジェリア共和国に渡る2日前にテレビをつけると、前に登場したリポーターが出ているのが見えた。
――今回、ヤグ熱が再流行し始めた中でのオリンピックですが、エインジェリアでは感染者がいないこと、大会組織委員会が万一のために、免疫細胞の入った薬を競技施設や選手村で常備すること、そしてエインジェリアに入るときに、選手や観戦目的の入国者に検疫を実施すること。これで開催しても問題は起こらないはずです。
――一方で、アメジスタでは流行が広がっているようですが……。選手には影響がないのでしょうか。
――女子陸上のスーパースター、グランフィールド選手はオメガを拠点にしていますので、オメガ国内でヤグ熱にかかっていなければ出場するでしょう。問題はもう一人、水泳のセイルボート選手ですが、組織委員会はオメガが入国禁止令を出そうとしている中では、一人の犠牲はやむを得ないだろうとしています。
(どうしてそんなこと、さらりと言えるだろう……)
ヴァージンは、リポーターの口が閉じる前から呆然としていた。アメジスタがどうなっているかを伝えず、この状況下では仕方がないと、ただオメガ国が取ろうとしている政策に従っているだけのように思えた。
(出られない選手がたった一人でも、セイルボートさんにとっては、世界と戦う夢の舞台なのに……)
これまで2回オリンピックに出場したヴァージンは、選手村で種目の枠を超えた多くのアスリートに出会ってきたが、勝負に挑む前は夢の舞台への希望にあふれ、勝負を終えた後は夢の舞台を楽しめたような表情で歩いているように思えた。4年に1回しかないこの舞台は、全てのアスリートにとって特別な存在だった。
(セイルボートさんにとっては、もしかしたら1回しかない経験かも知れないのに……)
ヴァージンの手がテレビの映像を切っても、オメガ国のリポーターが何気なく発した一言を忘れることは、アメジスタ人として到底できなかった。
翌日には、オメガ国がアメジスタに対して入国制限を出し、もともと飛行機が運休となって行けない状態だったアメジスタへも、これでヤグ熱が収まるまで正式に帰れないことになった。
(でも、10000mも5000mも、きっとグローバルキャスで中継が入るはず……。それだけが、アメジスタの中と外をつなぐ、唯一の手段になりつつある……)
ヴァージンはグローバルキャスの中継スケジュールを、敢えて見ないことにした。それ以上に、オリンピックに向けた彼女への応援メッセージの数が気になって仕方なかった。
(私は、今まで2回、オリンピックで金メダルを取っていない。最高が10000mの銅メダルだから……)
ヴァージンは、パソコンに映るメールのアイコンをクリックし、メッセージを読むことに集中した。それからわずか数秒もしないうちに、ヴァージンの目は「見慣れたはずの」送信者の名前を見つけた。
(フローラ・グランフィールド……)
そこには、ヴァージンの姉、フローラの名があった。タイトルには「頑張れ」とだけ書いてあり、ヴァージンは二回、三回と送信者の名を確かめ、メールの本文を開いた。
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ヴァージンへ
オリンピックを前に、どうしてもヴァージンに伝えなければならないと思って、メールしました。
いまアメジスタで大変なことになっているヤグ熱、国内で最初に感染したのは私です。
私が、オメガから来た建設会社の作業員を診察して、今までと全く違う症状だと気付いて調べました。
数日後、40年前に流行したヤグ熱だと知ったとき、既に私の体にはウイルスが入り込んでいました。
それまでに、私が多くの入院患者、外来患者にヤグ熱を広めてしまったのです。
医療に携わり続けた身として、重い病気で倒れることは恥ずかしいです。
あれから2週間。今も熱が高い状態ですが、テレビのある部屋で隔離されています。
そこからヴァージンを応援しています。オリンピック、頑張れ。
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「お姉ちゃん……」
ヴァージンは、短いメールを目で追った後、ガックリと首を垂れた。全く伝えられていなかった「30代の医療従事者」がヴァージンの身内であるフローラだったということ、フローラが集団感染の一因になってしまったこと、そして何よりアメジスタの絶望的な状況が収まっていないことが、これだけの文章で告げられた全てだった。
(アメジスタは、どうなってしまうんだろう……。というより、お姉ちゃんは大丈夫かな……)
致死率10%。アメジスタに免疫がなく、免疫細胞を届ける手段すらない。そのような重い病が、衛生状態の悪い国で蔓延している。この状況を、ヴァージンは再認識しかなかった。
(そして、私にできることは何だろう……。そもそもこの状況で、私の走る姿を見る人はいるんだろうか……)
グローバルキャスはオメガのテレビ局であり、アメジスタから情報を発信することはできない。衛星放送で流れているので、アメジスタ国民向けにヤグ熱の情報に差し替えるわけでもない。従って、ヴァージンの出るレースが中継されれば、そのままアメジスタに流れる。
だが、肝心のアメジスタ国民がオリンピックで盛り上がるムードではないことも、また事実だった。
「お姉ちゃんは、ヤグ熱と戦っている。私は、目の前のライバルと戦う。それだけのはずなのに……、全く次元の違う戦いをしなければならない……」
アスリートが戦う舞台は、たとえ勝てなかったとしても死ぬことのない世界。かたや、フローラが苦しんでいる世界は、負ければ死んだり、死ぬまで後遺症に苦しめ続けなければならなかったりする世界。たった一つの病気が、ヴァージンをももう一つの世界に引きずり込もうとしていたのだった。
(このままじゃいけない……。応援メッセージを見るようにしよう)
ヴァージンがフローラのメールから目を反らそうとした、その時だった。ヴァージンは違和感を覚えた。
(どうして……、お姉ちゃんがメール送ってきたんだろう……。それも、アメジスタから……)
これまで、アメジスタとのやりとりは飛行機の荷物室に載って送られる手紙だけだった。それが、突然アメジスタの病院からメールが送られてきたことに気付いた瞬間、ヴァージンは驚かざるを得なかった。
(もしかして、アメジスタでネットやメールが使えるようになったんだ……!限られた場所だけかもしれないけれど……、今まで全く外の情報が入ってこなかったアメジスタにとって、ものすごく大きな出来事かも知れない)
ヴァージンは、すぐにアメジスタ文化省のサイトを検索し始めた。すると、一番上に文化省のサイトがあり、そこでは様々な文化、芸術が紹介されていた。勿論、ヴァージンの紹介もされていた。
(すごい……。アメジスタが情報を発信するなんて、こんなこと今までなかった……)
さらに文化省のサイトを下にスクロールすると、「文化省へメール」の項目があった。ヴァージンは、このメールにレースの成績を送ろうと真っ先に決めた。
だが、今のヴァージンが文化省にメールしたいことは、決してそれではなかった。
――競泳のオリンピック代表、ファスター・セイルボート選手は、オリンピックの開会式に間に合いますか?
ヴァージンは、遠いオメガの地から、入力言語をアメジスタ語に変換してメールを送った。だが、その日どころか、翌日になっても文化省から返信はなかった。
(私は、今日エインジェリアに行かなきゃいけないのに……)
ファンからのメールに全て目を通さないまま、ヴァージンは2週間を超える滞在となるエインジェリア共和国に向けて飛び立った。飛行機の窓から一瞬だけ見えたアメジスタの大地は、上から見れば普段と何も変わっていなかった。
(アメジスタの状況が……、これ以上悪くなりませんように……)