第66話 ロイヤルホーンの涙(4)
号砲が鳴り響き、ヴァージンは最近のトレーニングで強く意識してきた、ラップ68秒ペースで前に飛び出していった。昨年まで見せてきた68.2秒ペースよりも少し速いテンポで足を叩きつける彼女は、体でははっきりと目標のスピードを感じていた。
だが、トラックを蹴る「フィールドファルコン」の底は、普段と違ってあまり強く飛び出せないように思えた。
(雨だと、余計な抵抗がシューズにかかってしまうか……)
これまで、雨の中のレースどころか、雨の中のトレーニングもほとんど経験したことのないシューズが、与えられた環境の中でもがいている。戦闘意欲に満ちた「翼」を羽ばたかせながら、何とか普段のパフォーマンスを見せようという意思を、ヴァージンの脚に送り続けていた。
(何とか、68秒ペースで走れている……。でも、この先トラックがよりぬかるみだすと、どうなるか……)
走りだしたときにはスピードでかき消していた雨粒も、2周、3周とラップ重ねていくうちにヴァージンの肌に触れるのを感じ始めていた。それとともに、肩や膝といったウェアに包まれていない部分にも、しっかりと雨の刺激を感じるようになり、彼女は体を一度震わせながら雨粒を落としていった。
それとともに、少しだけスピードが落ちるのが彼女の体にははっきりと分かった。
(雨が、記録更新にかなりのハンデになっている……。みんな条件は同じはずなのに、スピードが速ければ速いほど、相対的に受ける雨のスピードも速くなってきてしまう……)
5周を駆け抜ける瞬間、ヴァージンの体感的には5分42秒ほどになっていた。目標よりも数秒遅くなっており、ラップ68.2秒を意識してきたときとほぼ同じタイムに成り下がっている。それどころか、靴底に受ける雨粒の抵抗が、先程よりも強くなり、この天気でなければ全く感じることのないはずの、踏み込んだ時の衝撃がヴァージンの両足に一歩ずつ染み込んでいくのだった。
(もう少しペースアップしないと、14分台になってしまうかも知れない……)
記録更新だけが唯一の勝負になってしまったこのレースで、あっさりと記録を諦めることはできなかった。ヴァージンは少しだけ踏み込むテンポを上げ、乱れ始めたペースを取り戻そうとした。
だが、次の瞬間、今度はヴァージンの正面から強く冷たい風が襲い掛かった。メインスタジアムに入るときに感じた風よりも、さらに強くなっている。それとともに、上からヴァージンの肌を濡らしていた雨も、彼女の目や口を次々と襲うようになっていた。
(最悪の天気になっている……。追い風になったら、今度は背中から雨が叩きつけるし……)
ライバルが迫っているわけでもないのに、3000mを過ぎたあたりでヴァージンは首を一度強く横に振った。それでも、襲い掛かる雨粒は激しさを増すばかりで、スピードを上げようとする彼女を盾のように止める。「フィールドファルコン」も、思い通りのスピードになかなか乗れず、先程以上にもがいている。
(4000mからのスパートは、もっと辛い状況になる……)
足を前に出すテンポは明らかにラップ68秒になっているにも関わらず、体がそのスピードを感じない。少し気を緩めるとストライドは狭くなっており、それがスピードという歯車がかみ合わない要因になっていた。
ラスト3周、3800mに差し掛かるときにヴァージンは記録計を見た。10分52秒から53秒になろうとしていた。この時点で、目標よりも6秒以上遅くなっていた。
(やっぱり、この天候では厳しいか……。でも、なるべくなら出せる限りの自分を出し切りたい!)
ヴァージンは、勝負の1000mに差し掛かっていないにもかかわらず、ここでペースを上げた。「フィールドファルコン」の底を、雨に濡れたトラックから素早く蹴り上げ、ラップ65秒ほどのペースまで一気に加速した。
(何とか、13分台で走り切りたい……。雨を理由に勝負を諦めたくない……!)
だが、一度上げたペースは、再び正面から襲ってきた風に乱される。その度に、ヴァージンはスピードを取り返さなければならないが、ラップ68秒を意識してきた時間よりも、それははるかに辛く思えた。
(次は、ラップ62秒くらいまで上げて……、風が吹いてきたらまたペースを上げる……)
ヴァージンは、この天候の中で自らのスピードを出し切る方法を何度も考えた。そう考えているうちに、また靴底が水の抵抗を感じ始めるようになり、彼女は前に体を傾けながらもシューズを水から離さねばならなかった。
思い通りのペースで走れない最速女王が、トラックの上で最後までもがきつづけた。
14分05秒78。ラスト1000mに入っても、ほとんどスピードに乗れなかったヴァージンの結果だった。
(全然ダメだった……。実力の2割くらい、スピードに変えられなかった)
アウトドアで叩き出した記録としては、3年ぶりに14分05秒も切れなかったことに、ヴァージンは記録計の前で首を垂れた。それから彼女は空を見上げ、滴り続ける雨に目をやった。
(私を苦しめたのは、この雨じゃない……。自分がスピードに乗れなかっただけのはず……)
そう思ったヴァージンは、すぐに目を正面に戻そうとした。その時、聞き覚えのある声が彼女の耳に響いた。
――今日、私が本気で走っていたら、グランフィールドなんてあっさり抜けたかもしれない。
(ロイヤルホーンさん……?えっ……、この場所にはいないはずなのに……)
ヤグ熱にかかり、病院にいるはずのロイヤルホーンが、雨粒に乗ってヴァージンに語り掛けている。まだロイヤルホーンの5000mの自己ベストすら分からないが、ヴァージンの出したタイムだけを考えれば、ロイヤルホーンに言われてもおかしくない言葉だった。
ヴァージンは、数秒考えたのち、はっと息を飲み込んだ。
(ロイヤルホーンさん……、もしかしたら今、すごく走りたがっているのかな……)
誰もいるはずのない空を、ヴァージンは再び見上げ始めた。ロイヤルホーンの表情が、どんよりとした空の中で、かすかに映っているように見えた。
(この雨のように、ロイヤルホーンさんは泣いているのかも知れない……。私と勝負がしたかったのに、それができなくて……、オリンピックでも5000mの勝負がしたかったのにそれもできなくて……。もし、私がそのようなことになったとき……、私だって、きっとそう思う……)
気が付くと彼女は、足に力が入らなくなっていた。走り終えた直後に感じるはずの靴底からの強いパワーでも、力を使い果たしたときに襲うような膝の痛みでもなかった。何にも代えられない無力感だった。
(私は、今日のレース、ライバルがいなくて悲しいと思っていた……。でも、本当に辛いのは、走ることができないロイヤルホーンさんのはず……。私の悲しみは、ロイヤルホーンさんの足元にも及ばないのかも知れない)
そこでヴァージンは、自らに向けてため息をついた。もう一度、ロイヤルホーンの表情を思い浮かべようとするときに、彼女の目には涙が流れ始めていた。
(アスリートは、たとえ今日ダメでも次がある、という前向きな気持ちになれる。でも、勝負の舞台に立てないことは、何にも代えられない悲しさがある……。私も、ロイヤルホーンさんも、人間だから……)
足元の芝生から大粒の雨が膝に跳ね返ってきたことすら気付かぬほど、ヴァージンはロイヤルホーンの心の中に寄り添うことに集中していた。少なくともインタビュワーが声を掛けるまで、彼女の周りで流れる時間が止まっていた。
アフラリで流行していたヤグ熱は、セントイグリシア選手権の日を境に、新たな感染者が出なくなった。7月も中旬に入ると、ニュースでは「ヤグ熱はアフラリの陸上選手だけに流行った病気」という冗談交じりのトーンで伝えられるようになった。
(私と勝負したかったライバルがいるのに、これじゃロイヤルホーンさんに運がなかっただけとしか思われない……。なんか、あれだけ騒いでいたのに、こんな結末は悲しく思える……)
そう心に言い聞かせながら、ヴァージンは夜のニュースから他のチャンネルに変えようとした。すると、速報を受け取ったキャスターの表情が曇ったのがテレビに映り、彼女はチャンネルを変える手を止めた。
「えっ……?」
――アメジスタでヤグ熱の感染者を確認/30代の医療従事者ら2名
祖国の名がニュース速報で叫ばれる。それは、ヴァージンにとって、そしてアメジスタにとって幾度となく不幸の幕開けを告げてきたことは、彼女には分かっていた。嫌な予感しかしなかった。
(アメジスタに広がってしまった……。医療レベルが世界から見ても低い、アメジスタに……)
テレビの画面には、1週間前に見たようなウイルスの画像が映し出され、それから生まれ育ったアメジスタが世界地図で示される。ヴァージンは、そのニュースが過ぎ去るのをじっと待つしかなかった。