第66話 ロイヤルホーンの涙(3)
「ヤグ熱って、聞いたことありますか」
アフラリのライバルがヤグ熱に感染したショックから、何とかモチベーションを保ち続けることのできたトレーニングの後、ヴァージンはマゼラウスに病気のことを尋ねた。マゼラウスは、記憶の糸をたどりながら答えた。
「私が子供の頃だったな……。両親ともにヤグ熱にかかって、しばらく祖父母の家で生活しないといけなかった」
「コーチはかかったことないのですね……」
「両親のすぐ近くで生活して、私が発症しなかったのは、ある意味奇跡なのかも知れない……。たしかあの時は、両親ともに入院することになって……、私まで検査を受けたような気がするな……」
ヴァージンは、マゼラウスの返事を聞きながら、オメガ国内で40年前に建てられたと思われる古い病院に、マゼラウスの家族を重ね合わせた。病院の待合室には、高熱で苦しむ人がいっぱいいるようにさえ思えた。
「ヤグ熱が流行していた時、オメガの国はいつもと違っていたのですか」
「そうだな……。あの時は治療法がないと言われていたから、とにかく熱が下がるのを祈るしかなかった。とにかくパニックで、人がヤグ熱への恐怖に踊らされていたよ」
そこまで言って、マゼラウスは軽くうなずき、そこでヴァージンに向けて笑った。
「ただ、かかった人が増えていくと、ヤグ熱に対する免疫細胞ができてくる。なかなか薬の開発ができなかったが、最後は免疫細胞を体から取り出して、そのまま特効薬にしたんだ」
「ニュースで集団免疫って見たのですが……、それと同じことですか」
ヴァージンは、マゼラウスの表情を見つめた。何故笑っているのか分からなかった。
「いや、ヤグ熱の特効薬は集団免疫とは違う。集団免疫をつけるということは誰もが免疫細胞を持つことだが、裏を返せば誰もがヤグ熱にかかってしまうということだからな」
「みんなが苦しむということなんですね……」
ヴァージンは、全く医学的な知識がない中で、マゼラウスの言葉にうなずくしかなかった。
「そう。薬もなく致死率も高い病気は、それを待ってしまうとかなり大変なことになる。かかったら10%が死ぬ病気だからな……。だからこそ、その前に治療法が見いだせてよかったと思う」
「今でも、薬はあるんですか」
「そうだな。少なくともオメガでは薬の製造能力はあって、いつまたヤグ熱が再発しても大丈夫なようになっているから、もしアフラリからオメガに広がっても、あの時のようなパニックにはならないだろう」
「それなら、まだ安心します……。もし今回も治療法がなかったら、アフラリだけじゃなく、世界中の選手がレースに出られなくなってしまいますし、世界中がまたパニックになってしまうかも知れませんから……」
ヴァージンは、ここでふぅと息をついた。アフラリで一気に広がったときのような衝撃は、治療法があると知ったことで幾分和らぎ始めていた。
「ただ、心配なのは、その時に免疫を持っていない10代、20代……、それに30代だな。若者の間に一気に広がる前に、薬で押さえるしかない。特に、医療レベルの低い国に行ってしまったら、本当に大変だからな」
「それは、大丈夫だと思います。きっと、すぐに流行は落ち着くと思います」
そうヴァージンが言ったことがそのまま予言になったのか、その日を境にアフラリでは新たな感染者が少しずつ減っていった。最初に咳き込んだまま室内練習場でトレーニングをしていた短距離走の選手が退院したのを皮切りに、毎日のように退院の報告がニュースに流れるようになった。
しかし、セントイグリシア選手権はロイヤルホーンの退院を待ってはいなかった。
(やっぱり、ロイヤルホーンさんは来られなかった……)
厚い雲の空の下、セントイグリシアのスタジアムに足を踏み入れたヴァージンは、二重線で引かれたロイヤルホーンの名前を見て、受付でため息をついた。カメラも、他のライバルも周りにいなかったものの、受付係員がヴァージンに向けて思わず「大丈夫ですか」と尋ねるほどだった。
(それに、メリナさんもカリナさんもいないし……、いつになったらプロメイヤさんと勝負できるのだろう……)
世界記録を取り返したとは言え、ヴァージンはプロメイヤと早く勝負がしたかった。大学生なのでオメガ国内のレースが中心になっていると思いきや、オメガ国内のレースではなく同じ日に開催される国外レースに出るなど、プロメイヤとは昨年の世界競技会以来すれ違い続けていたのだった。
(今日は、最初から自分の世界記録と勝負することを考えよう……。もしかしたら、オリンピックに向けてプロメイヤさんがまたタイムを上げてくるかも分からないし……)
受付を通り過ぎたときには足取りが重かったヴァージンだったが、ロッカールームに入るまでの間に、普段から歩いているスピードに戻っていた。この場にいないライバルのことなど気にしない、と彼女は心に誓った。
(今日のセントイグリシア選手権は、他の種目でも有名な選手が出ていない……)
サブトラックで最終調整をしているヴァージンが最も気になったのは、そのことだけだった。オリンピックが間近に控えていることを差し引いても、下手をすれば出場選手の中で最も有名なのがヴァージンかと思われるくらい、この日はスポーツ雑誌に載るような注目選手が一人もいなかった。
それどころか、サブトラックで調整している選手の数も、去年の同じ大会と比べると半分ぐらいしかいないように見えた。
(もしかしたら、陸上選手の間でヤグ熱が広まったことを、みんな重く受け止めてしまっているとか……)
その時、ハードルを台車に載せて運んでいる一人の用具係がヴァージンの横で止まった。
「グランフィールド選手、何か気になることでもありましたか」
自由にトレーニングができるサブトラックで話しかけられることなど、最近はほとんどなかったヴァージンは、突然呼び掛けられて、驚いたように顔を用具係に向けた。
「あの……、なんか今日は選手の数が少ないように思えまして……」
ヴァージンがサブトラックを指差しながらそう言うと、用具係は納得したようにうなずいた。
「みんな、ヤグ熱を怖がり出したんですよ。オリンピックもありますし、もしここで病気にかかったら、代表を辞退しないといけなくなるとか言い出して、有名選手であればあるほどキャンセルしているんですよ」
「やっぱり……」
不安の的中したヴァージンは、ほとんど足音が聞こえないサブトラックに強く響くようなため息をついた。
「それにこの1ヵ月くらいの間に、アフラリの選手が世界のいろいろなレースに出ていますから、そのあたりも怖がる理由なのかも知れませんね……。ヤグ熱には潜伏期間もありますし……」
「そうですか……。体調管理には気を付けないといけない私たちは、特に敏感になってしまうんですね……」
「本当に、そう思いますよ。ただ、主催する側や準備する側は、有名選手が来てくれないと盛り上がらないというのもありまして……、今日のグランフィールド選手の走り、来ている人はみんな期待していますよ」
「分かりました」
用具係にまでそのようなことを言われるほど、今回のセントイグリシア選手権は寂しいものになる。それは、用具係がゆっくり出口に向かって歩き出しても動かしようのない事実だった。
やがて集合時間が迫り、メインスタジアムに足を踏み入れようとしたとき、ヴァージンの額にいよいよ雨粒が落ち始めた。6月のイグリシアにしては冷たい風がスタジアムを吹き抜けていく。
(雨が強くならないといいけど……)
トラックがぬかるみ始めると、戦術を変えなければいけなくなるのは、出場する全ての選手が同じ条件だ。だが、世界記録との勝負をするしかないヴァージンにとっては、この雨は酷だった。
メインスタジアムに入り、スタンドを見る。観客はそれなりに入っていたものの、雨が降り出したことで、その多くが屋根のある場所へと避難を始めていた。アスリートの姿を間近で見ることのできる場所には、傘を差した観客がちらほら見られるだけだった。
(選手どころかスタンドを含めて寂しいレースになりそう……。でも、その中でも私は実力を出す)
そうヴァージンが思った時、遠くからヴァージンの名を呼ぶ声が聞こえた。だが、少しずつ強く叩きつけていく雨の音に、それすらもかき消されてしまうのだった。
(今日は、10人だけのレースになるか……)
受付で見たときに、既に4人の出場辞退があった女子5000mには、さらに二人の当日辞退が出ていた。スタート位置も1ヵ所だけで、最も内側でスタートを待つヴァージンは、前方に見える誰もいないスタート位置をじっと眺めながら、スタートの瞬間を待った。
雨は、また強くなる。水はけのよいトラックにも、少しずつ水滴が浮かび始めているように見えた。
「On Your Marks……」
ヴァージンの耳に、スターターの声が響く。時折視界を遮ってくる雨粒を瞬きで消しながら、彼女はただひたすら前を見て、気持ちを落ち着かせた。
(よし……)