第66話 ロイヤルホーンの涙(2)
(アメジスタのオリンピック委員会……。初めてアメジスタの代表に選ばれた……。国を挙げての壮行会……。セイルボートさんに会える……。アメジスタから観戦ツアーも組まれる……)
アメジスタ文化省から書簡が届いた夜、ヴァージンは手紙に書かれていた文章を目で追っているうちに、いつの間にか重大な要素を空で言えるようになっていた。まだテレビでしか見たことのないバタフライの代表選手に、まだ一度も会ったことのないオリンピック委員会のジェスト・プロマイダの名前すらも、ヴァージンは言えるようになっていた。
(なんか、あの手紙の全てが夢のよう……。アメジスタも、とうとうここまで来たんだ……)
オリンピック委員会がないチュータニアと、一つの特例枠をめぐって競い合い、結果ウォーレットに敗れて出場を逃した、ヴァージンが19歳の時のオリンピック。その時から、オリンピック委員会がアメジスタにできることを彼女は待ち望んでいた。それが、今となっては文化省主体で作られるようになり、二人目の代表選手も出てくるまでに成長したのだった。
(壮行会当日、何を着ていこう……。「フィールドファルコン」はもちろんだし、ウェアもアメジスタで作られたものを着ていこう……。いや、もしかしたら代表のウェアを、特注で作ってもらえるのかな……)
眠りに着く直前に、これまで以上にアメジスタのことを考え続けたヴァージンは、しまいには新しいウェアを夢の中で勝手に予想してしまうほどまでになっていた。そして、目覚まし時計の音で飛び起きると、彼女は顔を洗うなり、壮行会前日のアメジスタ行きの飛行機をネットから予約するのだった。
(トレーニングも仕上げないといけない時期だから、実家にも1泊ぐらいしかできないかな……。アメジスタに入った次の日の飛行機でオメガに帰ることにしよう……)
飛行機の予約を送信したヴァージンは、「予約を受け付けました」の文字を見る前から再びアメジスタ代表のことを考え始めた。だが、それから数秒後、彼女はパソコンに映し出された文字に思わず手を止めた。
「ヤグ熱発生に伴う、アフラリへの渡航の注意喚起……、および一部就航便の運休について……」
ヴァージンは、航空会社のサイトの左上に大きく書かれた注意書きを一字一句読んだ。さらにもう一度、そのタイトルを読み上げようとしたとき、アフラリという国と1週間後のレースで戦う相手の名前がリンクした。
(ロイヤルホーンさんの国だ……。ヤグ熱って、何が起きてるんだろう……)
トレーニングに明け暮れるヴァージンにとって、こと科学や医学関係のニュースはこれまで全く気にしないでいた。だが、ロイヤルホーンのいる国とリンクした瞬間に、彼女は嫌な予感がした。
(そもそも、ヤグ熱って何だろう……。航空会社が運休しなきゃいけないくらいの病気なんだろうか……)
ヴァージンは、航空会社のサイトを閉じ、そのままヤグ熱で検索を続けた。次の瞬間、パソコンの画面にでかでかとウイルスの画像が現れ、その横に「アフラリ国内での感染者:今日現在830名」と書かれていた。それから、ヤグ熱に関する詳細な説明が書かれているページが出てきて、ヴァージンは最初の段落を黙読した。
(ヤグ熱とは、約40年前にアフラリから世界中に流行が広がった、感染すると高熱と激しい咳を伴う病気……。室内など密閉された空間で感染力を持ち、その致死率は10%以上とされる……。40代より上の世代の多くは集団免疫を手に入れたが……、2年前から10代、20代の若者を中心に、アフラリ国内で再び感染が広がり……)
そこまで読んで、ヴァージンはニュースサイトを開いた。アフラリで830人も感染者がいることは、間違っていなかった。それも、ここ2週間ほどの間に、スタイン屋内練習場でトレーニングを行っていたアスリートたちの間で急速に広がっていたのだった。
(私……、この屋内練習場、見たことある……。アフラリ代表の選手しか入れないところだった……)
スタインの競技場から2kmも離れていない、まるでドームのような練習場は、遠くからでもその形がはっきりと分かるほど奇抜なデザインだった。ヴァージンも何度かその場所でトレーニングしようとしたが、アメジスタ出身であることを理由に、エージェントが交渉しても断られ続けていたのだった。
そのことに気付いたとき、ヴァージンははっと気が付いた。嫌な予感がさらに大きくなった。その嫌な予感が確信に変わるまで、ものの数秒とかからなかった。
――陸上・スタイン選手権が中止。アフラリ国内で選手へのヤグ熱感染拡大で。
(レースまで中止になるんだ……。しかも、真っ先に陸上が書かれたということは……)
これまでヴァージンが何度も出場してきたスタイン選手権まで中止が決まったことに、彼女の目線はついにパソコンから離れられなくなった。
(スタインでレースを行えば、アフラリの選手から国外の選手経由で、再びヤグ熱が世界中に広がってしまう可能性がある……。だから中止にしたと考えると……、かなりまずいことになっているのかも知れない……)
陸上選手の間で再び流行していることは、彼女の中ではこの時点で疑うことができないほどになっていた。そしてヴァージンは、ついにメールを開いた。アフラリに拠点を置き、来週のセントイグリシアが初めての5000m挑戦となるロイヤルホーンがヤグ熱にかかっていないか、それがヴァージンにとって気掛かりでならなかった。
メールボックスを開いた。結果は、非情だった。
――ヤグ熱に感染しました
ロイヤルホーンからの最後のメールには、タイトルにそう書かれていた。
(ロイヤルホーンさんも……、陸上選手の集団感染に巻き込まれてしまった……)
タイトルにカーソルを当てたまま、ヴァージンはその中身をしばらく開くことができなかった。開く前にはもう、次のレースで戦うべき相手が一人減るという現実を受け入れざるを得なかった。
(セントイグリシア選手権……、ロイヤルホーンさん以外にも私と勝負できるライバルがいて欲しい……)
ヴァージンは、心の中ではっきりと叫んで、それからタイトルをクリックした。
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グランフィールドへ
お久しぶりです。
タイトルにも書いた通り、アフラリの室内練習場から広がったヤグ熱にかかってしまいました。
本当は、明日にはイグリシアに出発しようと思っていたのですが、昨日の検査の後、そのまま2週間入院です。
セントイグリシアで、グランフィールドと5000mの勝負をして、できるなら勝って、2種目目のオリンピックを決めたかったところでしたが……、病院に繋ぎ止められてしまいました。
これで、5000mの公式記録がない私には、オリンピックで5000m代表に選ばれることがなくなりました。でも、10000mはこれまでの記録から何とか出場できると、コーチが教えてくれて、少しだけほっとしています。
少しだけ勝負が先になりますが、オリンピックで会いましょう。必ず、病気には打ち勝ちます。
ポーリア・ロイヤルホーン
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(ロイヤルホーンさん……)
普段のロイヤルホーンの口調からは考えられないほど、丁寧な言葉遣いで投げられたメール。それを見たヴァージンは、しばらく呆然とメールを見続けるしかなかった。
昨年の世界競技会10000mの後に、5000mに挑戦したいとヴァージンの目の前で言いきったときのロイヤルホーンを思い出し、それが少しずつフェードアウトしていくようにさえ、彼女には思えた。
(室内練習場で広がったとニュースで言われていても、ロイヤルホーンさんだけはかかって欲しくなかった……。それに……、私よりも、ロイヤルホーンさんのほうがもっと辛いはず……。でも……)
ようやく息を吸い込んだヴァージンは、開きっぱなしのニュースサイトに再び目をやった。そこには、受付の出場選手一覧で見たことのあるような陸上選手の名前が、数多く「入院中・軽症」のところに載っていた。そして、ロイヤルホーンもまた軽症のところに載っていた。
(幸い、アフラリから外に出ていないとは言っても、陸上選手ばかりヤグ熱にかかるの、悲しく思える……)
そこでようやくヴァージンはパソコンから目を反らし、思い出したかのように朝食用のパンをトースターに入れた。だが、心なしか動きが重くなっているように思えた。
(何だろう……。私たちの仲間がこんなに苦しんでいるから……、同じアスリートとしてショックを受ける……)
だが、この時はヴァージンでさえもヤグ熱が「アフラリだけの病気」だと錯覚し、そう遠くない未来に、彼女にとってより身近な存在にまで広がってしまうことなど、思いもしなかった。