第66話 ロイヤルホーンの涙(1)
6月に入り、いよいよオリンピックまで2ヵ月を切った。
出場選手登録が7月下旬に迫っていると分かっているものの、これまで2回特例枠でオリンピックへの選手登録を行ってきたヴァージンは、今回特例枠で申請しようか迷っていた。
(いつもアメジスタは私一人しか出場しないし、そもそもオリンピック委員会がアメジスタになかったから、特例枠を使わなきゃいけなかったけど、今回は私がアメジスタの強化選手に選ばれているし、文化省が何かしら動いてくれるはず……)
ヴァージンは、毎日のようにポストの中にアメジスタからの書簡がないか確かめた。だが、アメジスタ語で書かれた書簡はなかなか届かなかった。
(7月になっても音沙汰がなかったら、私は今度も特例枠を申請しないと……。調子を落としているわけでもないのに、私が出ないとかなったら、多くのライバルやファンが黙っていないと思う……)
夜、洗濯物を終えたヴァージンは、何気なくテレビをつけた。ちょうど、オリンピックの開催されるエインジェリア共和国の観光スポットが紹介されており、その後すぐに、大都市プロトエインにそびえ立つ、オリンピックのメインスタジアムが映し出された。
(これが、私たちが戦う場所……。プロトエインのスタジアム、ものすごく大きく見える……)
上から下から、カメラがスタジアムを映すたびに、ヴァージンはその光景を目に焼き付けた。もう15年もプロアスリートの生活を続けているヴァージンでも、エインジェリアには入ったことがなかったため、彼女は早く勝負の場所を肌で感じたいとさえ思っていた。
その後、すぐにテレビの画面がスタジオに戻り、スポーツ担当と思われるアナウンサーが原稿を読み上げた。
――陸上女子で最速女王と呼ばれるグランフィールド選手の故郷、アメジスタから、今回もう一人、プロトエインオリンピックに参加することが分かりました。同じ大会にアメジスタの選手が二人出場するのは初めてです。
(アメジスタから、もう一人代表が選ばれる……!)
ヴァージンは、さらりと読み上げられたニュースに息を飲み込み、先程以上にテレビに釘付けになった。テレビには、茶髪の青年の顔写真が映し出され、さらにプールに勢いよく飛び込みバタフライで泳ぐ映像が流れた。
(ファスター・セイルボートさん……。水泳のバタフライでオリンピックに出そう……)
アメジスタの、グリンシュタインから遠く離れた田舎のプールで撮影されたと思われる映像には、空からの光に眩く照らされた青年スイマーが映っていた。その姿は、種目が明らかに違うとは言え、ヴァージンが出会った頃のアルデモードにそっくりだった。
――このセイルボート選手、今年3月に中等学校の学生が出場する大会に26歳ながら飛び入り参加したところ、バタフライでオリンピック標準記録を3秒も上回っていることが分かり、今回アメジスタ文化省に申し出たそうです。果たして、グランフィールド選手に続くアメジスタ生まれのスターになるのでしょうか。
(なんか、こういうニュースを聞くと、ものすごく嬉しくなる……)
セイルボートのことを初めて知ったにもかかわらず、ヴァージンは「アメジスタ」という言葉を聞くだけで心の中で舞い上がりそうだった。ヴァージンの活躍が認められる以前はアスリートに対する偏見が絶えなかったアメジスタから、今やオリンピックの舞台に立つ一人の青年が出るほどまでになっていることを、彼女は心の中で何度も言い聞かせた。
(きっと、グローバルキャスの中継で私を見て、私の後に続こうとしたはず……。早く会いたいなぁ……)
アメジスタ代表として出場するということは、間違いなく開会式の入場行進で顔を合わせることになる。競技場が違うことを考えれば、その日が数少ない接触のチャンスだった。
(なるべくなら、その時に連絡先を交換して、もしアメジスタの外で暮らすのなら連絡を取り合いたい……)
「アメジスタから、とうとうお前以外の代表選手がオリンピックに出るんだってな」
その翌日、エクスパフォーマのトレーニングセンターで5000mのタイムトライアルを終えたヴァージンに、マゼラウスが思い出したかのようにその話題を振った。ヴァージンは、トレーニング中そのことを表情でも出さないようにしていたものの、マゼラウスに言われた瞬間に大きくうなずいた。
「ファスター・セイルボートさん。私も会ったことのないバタフライの選手です」
「やっぱり、そのニュースを聞いて嬉しく思ってるな。アメジスタから二人目の代表が出たわけだから」
「勿論です、コーチ。私だけじゃなくて、セイルボートさんが世界の強豪に挑む姿がテレビに映れば、世界中の人々がアメジスタの強さに気付いてくれるはずです」
ヴァージンが嬉しそうにそう答える中、マゼラウスは一度口を閉じ、それからゆっくりと返した。
「オリンピック標準記録より3秒速いというのは、冷静に考えればギリギリの出場にはなるだろうな……。だが、お前のように初めての舞台で化ける可能性だってあるはずだ。私は、その可能性に賭けたいところだ」
「私も、きっと彼が金メダルを取れるような実力を持っていると信じています」
「ヴァージンよ。お前は、自分のこと以上に彼のことを気にしているようだな。もう少し、お前自身のことを気にしたほうがいいかも知れん」
「分かりました」
マゼラウスがうなずくと、ヴァージンも一緒になってうなずいた。まだオリンピックまで2ヵ月近くあるということは、裏を返せば2ヵ月でライバルが実力をつけてくる可能性もあり得ることだった。
それから1週間後。トレーニング帰りにポストに手を伸ばしたヴァージンは、中に入っていた封筒に触れた瞬間、その手触りだけですぐ、何が入っているか分かった。
(これはきっと、アメジスタからの書簡……。文化省から何かメッセージが届いたのかも知れない……!)
リビングに入るまで、ヴァージンはその書簡を決して目に見える高さまで上げようとせず、テーブルにゆっくり置いた後に差出人の名前を確かめた。見慣れた言語と、見慣れた名前がそこには書かれてあった。
「アメジスタ文化省……、プロトエインオリンピック代表任命について……」
封筒を開ける前に、ヴァージンは封筒に書かれていた文字を思わず読み上げた。数秒して、息を飲み込んだ。
(アメジスタの代表に任命された……。これ、もしかして……、初めてのこと……!)
ある程度想定していたとは言え、正式に告げられようとする瞬間が訪れたヴァージンの震えは止まらなかった。それからまた数秒時間を置いて、彼女はいよいよ封筒から手紙を取り出し、その中身を心の中で読み上げた。
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ヴァージン・グランフィールド選手
お忙しい中、失礼します。アメジスタ文化省内オリンピック委員会、代表のジェスト・プロマイダと申します。
グランフィールド選手のご活躍には、アメジスタ全体が希望の光に照らされているような実感を受けます。
さて、今回のプロトエインオリンピックに、グランフィールド選手を含めて2名を、アメジスタの代表として派遣することを全会一致で決定いたしました。
グランフィールド選手にとっては、これが3回目のオリンピックとなりますが、このような形で国の代表として送り出すことがこれまでありませんでした。ですが、文化省としても世界の中で実力を認められているグランフィールド選手をアメジスタの代表として力強くバックアップすることで、オリンピックに向けてアメジスタ全体を盛り上げていきたいと考えています。
また、7月にはアメジスタで初めてとなるオリンピック壮行会を予定しています。これまでと同様、アメジスタへの往復は文化省で負担いたしますので、トレーニングなど諸々のご都合もあるかと思いますが、アメジスタ代表の顔合わせと、国全体のムード盛り上げのために、ぜひお越しください。
また、文化省が主体となって、アメジスタからエインジェリア共和国への観戦ツアーも計画しています。もしスタジアムでアメジスタの国旗を見かけたら、大きく手を振って頂けると嬉しいです。
では、また壮行会でお会いできるのを楽しみにしております。
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(すごい……!なんか、これ……夢のような手紙に思えてしょうがない……!)
ヴァージンは、途中から手紙を持つ手が震えていたことを、最後まで目を通したときに初めて気が付いた。手紙の文字数からは考えられないほど、その中身には重要な要素が詰まっていた。
(代表どころじゃない……。初めての応援ツアーも組まれる……)
ヴァージンは、気が付けば手紙を2回も3回も心の中で読み上げていたのだった。