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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
オリンピックの灯は消えない
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第65話 スピードアップ!(6)

 メリナが、ヴァージンとの距離を広げるわけでもなく、ヴァージンの意識してきたラップ68秒のペースを、まるでペースメーカーのように走っている。マラソンのペースメーカーと違って、5000mを駆け抜ける前には追い抜かなければならない相手であるだけに、ヴァージンにとっては逆に不気味でならなかった。

(メリナさんとは、わずか3歩差……。逆に私がペースを意識しないと、メリナさんが作ったペースに呑まれる)

 プロメイヤとの直接対決を待つことなく、プロメイヤから世界記録を奪い返したい。その最初のレースであることは、ヴァージンもはっきりと分かっていた。ラップ68秒で走り続けてどこまで記録を伸ばせるか、ではない。だからこそ、目の前を同じペースで走られることは、相手の作戦とは言え走りづらさだけが漂った。

 まだ2周も駆け抜けていない。ヴァージンは、早いうちにこの状況を変えるべく、わずかにペースを上げた。

(同じペースで走るメリナさんをペースメーカーにしちゃいけない……!)

 直線からコーナーに差し掛かる直前で、ヴァージンはメリナの前に軽々しく飛び出て、メリナから少し離れるとラップ68秒のペースに戻した。目の前に誰もいない状態は、一人きりで続けてきたトレーニングと全く同じで、彼女自身がこのペースを無意識に出せるか挑み続けてきたことそのものだった。

(後ろから、メリナさんの足音が聞こえるけど……、私はラップ68秒から下がっていない)

 メリナを追い抜くために、一度ラップ66秒のペースまで上げただけに、彼女にはそこから急激にペースを落とせば必要以上に遅くなってしまう可能性があった。だが、何度もその足に叩きこんできたペースをヴァージンが忘れることは、この時点ではなかった。

 コーナーから出たところで小刻みにテンポを修正しなくても、彼女はラップ68秒で走り続けている。そのことに気付いたのは、それから3周近く走った後、2000mを5分40分で通過したと感じたときだった。

(大丈夫……。変に意識しなくても、私はラップ68秒で走り続けることができる……!)


 だが、ヴァージンの気持ちが和らいだのは、その瞬間だけだった。2000mを過ぎたあたりで、背後から聞こえる足音が再び大きくなった。トラックを叩きつけるテンポも、やや速くなっている。

(メリナさんが、また前に出てくる……!)

 2200m手前の直線で、メリナがヴァージンの真横に飛び出す。先程ヴァージンはラップにして2秒ほど早いペースでメリナを抜き去ったが、あくまでもメリナは、これまでヴァージンの前で見せつけてきたラップ67.5秒ほどのペースでゆっくりと抜き去ろうとしていた。長い時間メリナに粘られ、ヴァージンはなるべく横を見ないように、意識的にトラックの内側に顔を向けた。

 ようやくメリナが前に出ると、メリナは決してペースを落とさず、ラップ67.5秒ペースのまま、少しずつヴァージンを引き離しにかかる。一方のヴァージンはメリナにぴったりつくことなく走り続けるものの、メリナの並走で乱されたペースを戻すためにややペースを上げなければならなかった。

(レースだと、少しはライバルを意識していいのかも知れないし、少しはライバルにペースを乱されてもいいのかも知れない。その中で、できる限り自分自身の走りができればいいのだから……)

 ヴァージンは、ラップ68秒のペースになっているかを2400mから2800mまでの間で何度か確かめたものの、それから先は意識することなく、慣れ始めたテンポでトラックを駆け抜ける。2周目で少しだけ無理をしたものの、「フィールドファルコン」のパワーをほとんど使うことなく、軽々しく次の一歩を踏み出すのだった。

(おそらく、過去最高に近い走りができている……。あとは、ラスト1000mをどう組み立てていくか……!)

 3600mの時点で10mほど前を進んでいたメリナを、彼女はわずかに目を細め、どこで追い抜くか計算し始めた。間もなくスピードアップのスイッチを入れるヴァージンの脚が、この時点でスピードを緩めることはなかった。

(メリナさんが、どんなスパートを見せても、今の私にはきっと勝てる!)

 メリナのほうが2秒近く早く4000mのラインを駆け抜けた瞬間、ヴァージンとメリナが同時にペースを上げた。メリナも、まずはヴァージンと全く同じラップ65秒までスピードを上げ、逃げ切りをはかる。

(でもメリナさんは、60秒を少し切るようなスパートしか今まで見せたことがない……。プロメイヤさんを意識して、前半で力を残した分でスパートを上げたとしても、おそらくそこから大きく上がることはない……)

 1分後には分かることを、ヴァージンは心の中で自らに語りかけた。次の瞬間、4200mのラインがヴァージンの前に現れ、ヴァージンはラップ61秒ほどのペースまで駆け上がった。すると、ヴァージンのテンポアップを耳で感じ取ったのか、メリナもラップ62秒までじわじわと加速していく。メリナとの差が、10mを切ったところでそこからほとんど縮まない。

(メリナさんは、まだ疲れていない。プロメイヤさんに抜かれた後に失速した、去年の世界競技会とは全く違う)

 メリナもまた、自己ベストすら出せそうな力強い走りを見せているようだった。プロメイヤとはスパートのタイプが違うかどうかは分からないが、メリナが仮想プロメイヤと呼んでも構わないほどのライバルだということを、ヴァージンは言い聞かせる。

 ようやく8mほどの差まで迫ってきた時、ラスト1周を告げる鐘がヴァージンの耳に鳴り響いた。その時点で、記録計の数字は12分55秒に変わる瞬間だった。

(さぁ、メリナさんのラストスパートがどこまで出るか……!)

 ヴァージンも4600mの通過を待つことなく、「フィールドファルコン」の底で力強くトラックを踏みしめ、その「翼」を力強く羽ばたかせた。ラップ60秒をあっさりと突き抜け、コーナーに差し掛かる頃には、ヴァージンはラップ55秒のスピードを全身で感じ始めていた。

 一方のメリナは、ラップ59秒を切るまで一気にスピードを上げるものの、それ以上ギアが上げられない。ラップ58秒までは届いていないように、ヴァージンの目に映った。

(メリナさんは、もう今の私にはあっさり抜ける存在……!)

 ヴァージンは、直線の途中で一気にメリナの横に飛び出し、その表情すら見ることなく軽々しく抜き去った。決して衰えることのないトップスピードでメリナを背中から引き離し、彼女はプロメイヤに出された記録へと立ち向かう。

 世界記録に誰よりも立ち向かった女子アスリートが、「フィールドファルコン」の戦闘力とスピードを思う存分使いこなしていた。そのまま風を切るようなスピードで、5000mのゴールへと飛び込んでいった。


 13分51秒98 WR


(プロメイヤさんの自己ベストから、ちょうど1秒……。何とか勝てた……!)

 記録計の数字に目をやったヴァージンは、一度うなずき、「よしっ」と声にならない声を上げた。ウォーレットに世界記録を破られた時には、ヴァージンは1年以上それを奪い返すことができなかったものの、短い時間で新たな「武器」を手に入れたヴァージンにはプロメイヤの記録を抜き去るまでそれほどの時間を要しなかった。

「プロメイヤを意識してスパートをより上げても、グランフィールドには追いつかれてしまうのね……」

 荒い呼吸を浮かべながら、2位に終わったメリナがヴァージンに近づき、ヴァージンの記録を称えた。メリナは13分55秒を切ることができず、その顔にはいくつもの反省材料が込められているようにヴァージンには映った。

「私だって、プロメイヤさんを意識して……、負けたくないと思ってトレーニングしていますから」

「グランフィールドらしい言葉ね……。今や、世界記録を誰よりも知るアスリート……」

「ありがとうございます」

 メリナが悔しそうな声で告げた言葉に、ヴァージンは落ち着いて返した。あまりにも落ち着いていたことに、逆にヴァージンが違和感を覚えるほどだった。それでも、ヴァージンは出した記録を素直に喜ばず、早くもその先の勝負に目を向けなければいけないのは確かだった。

(この先、ロイヤルホーンさんやプロメイヤさんとも、5000mで勝負する。その時には、もっとラップの精度を上げなければ、今日の序盤のようにペースに呑まれかけるのかも知れない)

 敗れ去ったメリナの後ろ姿に、二人の表情が重なる。特にプロメイヤと直接戦って勝つまでは、世界記録を奪い返したとは言え手放して喜べる状況にはなかった。

(オリンピックに向けて、ピークを作っていかないと。今日のタイムを、間違いなくプロメイヤさんは意識してくるはずだから)


 だが、4年に一度のスポーツの祭典が近づくこの時期に、アスリートたちの平和が脅かされる事態が起こっていることなど、この時のヴァージンには想像することすらできなかった。

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